第235話 最後の日常
傾いていないベッドで目を覚まして真っ白な肌掛けをきれいに折りたたんで、洗い立ての仕事着に着替えて部屋を出る。
穴だらけだったのを修繕してそれほど経っていない床を踏みしめて、店の方へ。
「あ、テイル君、おはよう」
「お、おはようございます」
井戸端で、寝間着に薄手の上着を羽織ったターシャさんと鉢合わせする。
薄着の寝間着のままのちょっとなまめかしい装いと、相変わらず慣れないターシャさんの魅力にいつもと同じようにドギマギしながら挨拶を返すと、不満そうに頬を膨らませた顔を向けられた。
「もう、いつになったらちゃんと目を見てくれるの?」
「すみません……」
「謝ってほしいんでもないんだけどな、まあいいや。それより、今日はちょっと早いんじゃない?」
「いつもより早く目が覚めたんで」
「大丈夫?寝不足なら、私がダンさんに言ってあげるけど」
「大丈夫です。早く起きたって言っても、ほんの少しだけですよ」
嘘だ。実際は眠れない夜を過ごした。
「そう?気分が悪くなったらすぐに言ってね」
そう声をかけてくれるターシャさんと別れて、裏口から厨房へ。
「おはようございます」
「おう」
「おはようテイル!」
出迎えてくれたのは、ついに一度も俺が先んじることを許さなかったダンさんと、日を追うごとにやる気と明るさが増している料理人見習いのルミル。
二人の手元を見て、思ったよりも仕込みが進んでいることに気づいてかまどに火を入れようとしたら、
「もう火はつけたわよ」
すでに調理ができるほどに温まっていたかまどと背後から聞こえた声に驚いて振り返ると、ちょっと得意げなティアが立っていた。
「ティアが?火打石ってわけじゃないだろうし、まさか魔法で?」
「心配しなくても、私が見ていたから大丈夫よ」
魔法の暴発を気にした俺に、ティアの後ろから歩いてきたリーナが杞憂を振り払った。
その手には箒があるから、朝の掃除をやっている最中らしい。
「あと二、三回は見守るけれど、今日も危なげなく加減できていたし、任せて大丈夫じゃあないかしら」
「もう、リーナお姉さまったら、そんなに心配しなくてもちゃんとできるのに」
「だったらあと数回、ミスもなくやり遂げて見せなさい」
不満顔のティアをたしなめるリーナ。
最近は出かけることが少なくなり、接客係としての一通りを要領よくマスターしたこともあって、もっぱらティアの指導係を自任している。
出自から来る雰囲気も相まって、今や本物の姉妹と俺ですら錯覚するくらいだ。
ちょっと女子率高めだけど、誰もが自分の役割に真剣で、それぞれの目が楽しそうに輝いている職場。
それが白いうさぎ亭だ。
その中に、俺なんかが加われたことが誇りで、それが――
「おい、何を突っ立っている!さっさと水を汲んで来い!」
「あ、はい、すぐに!!」
ダンさんの怒鳴り声で、考え込んでいる場合じゃなかったと我に返る。
俺の役目は雑用。
店の主だろうがなんだろうが、目の前にやるべきことはいくつもある。
今は。
季節の上じゃ初夏でも、外で働いている人達にとっては十分に汗をかける気温になってきた。
衛士隊が客層の中心になっている白いうさぎ亭では、すでに夏季限定新メニューの冷製パスタが人気になっていた。
ただし、暑苦しいくらいの量の注文がくることを除けば。
「冷製パスタ二十人前頼むぜ!」
「こっちは三十人前だ!」
「だったら俺達は四十人前食ってやるぜ!」
「だああああっ!!お前ら少しは他のメニューも頼め!!」
そんなダンさんの怒号が聞こえるくらい、この日のランチは激戦中の激戦になった。
当然、接客係の仕事も激増して、普段は店の表に出ない俺まで駆り出される始末だ。
「テイル君、五皿追加ね!」
「もう皿が足りませんよ!」
「じゃあ私が洗い物に入るから配膳をお願い!」
「でも何に盛り付けたら……」
「空いている鍋にでも入れてお出しして!」
鍋を客用の器代わりにするなんて真似を、普通だったらターシャさんもダンさんも許しはしない。
だけど、相手が常連だってこととやむにやまれぬ緊急事態ということで、営業終了よりはましだという判断だ。
しかも、こんな日に限っていつもより他の客層も多かったりする。
「おうテイル、十人だ。テーブル三つ分よろしくな」
「隊長さん、申し訳ないんですけど、別のお店でお願いでいないですかね。今日は御覧の通りの有様でかなり待たせることになっちゃうんですよ」
すでに近所に迷惑がかかるくらいまでに、行列ができている白いうさぎ亭。
飲食業にあるまじき所業だけど、部下を引き連れて現れた衛士隊の隊長さんに、常連中の常連のよしみで頼み込んでみる。
すると、大概のことなら察しよく飲み込んでくれる隊長さんが、
「悪いなテイル、今日来ている他のグループも同じだろうが、今日はどれだけ待たされても食べさせてもらうつもりで来たんだ。ちと、明日からしばらく寄れそうもないんでな」
「あ……」
「お前も、……いや、店先で話す話題じゃなかったな。とにかく、列に並ばせてもらうぞ」
「わかりました。お待たせしてすみません」
そう言って最後尾に並んだ隊長さんに謝って、途中の行列の御客達にも頭を下げて、店の中に戻る。
「テイル君!一番と三番テーブルのお会計をお願い!その後はこっちを手伝って!」
「はい!」
厨房を仕切る壁にさえぎられてこっちのことなんか見えないはずなのに的確な指示を出してくるターシャさんに、条件反射で返事をする。
それだけで、頭から余計な考えが吹っ飛んで勝手に体が動いた。
夜。
今日は珍しく宿泊の客がいなかったから、久しぶりにみんなで夕食のテーブルを囲む。
料理も、客が来ると見込んで仕込んでいたものなので、いつもよりもちょっとだけ豪華だ。
「ねっ!私の火加減、完璧だったでしょう!」
「そうね。これで口にソースをつけたまま喋っていなければ合格だったわね。それでターシャ、明日は食器の買い増しに行くのよね?」
「うーん、前々から不足がちだったから、この際まとめて買うことにしようかしら。それと、せっかくだから私以外の人が選んだお皿もお店に入れてみたいのよね」
「ダンさんとテイルは連れて行ったことはないの?」
「うん、この二人のその辺りのセンスは、ちょっとアレだから……」
「なんとなくわかるわ」
「とういわけで、明日はティアちゃんもルミルちゃんもお願いね」
「わかりました、ターシャお姉さま!」
「え、わ、私も?(チラッ)」
「昔から人任せの俺が言えたことじゃないが、食器選びも一流の料理人の仕事の内だ。ターシャのセンスを学んで来い」
「は、はい!」
ターシャさんとリーナとティアが屈託ない笑顔を浮かべている。
これまではいつも仏頂面だったダンさんが、ルミルの憧憬と恋慕のまなざしに目が泳ぎながら、まんざらでもない顔をしている。
幸せだと思った。
だから、何があっても絶対に忘れないように、すっかり外は暗闇に閉ざされている中でも一つのランタンの下でこんなにも輝いているこの光景を心に焼き付けようと、そう思った。
「もう、空になったコップなんか握りしめてどうしたのテイル君、テイル君?」
「……いえ、料理が美味しいと、ただの水がこんなに美味しくなるんだなって、ちょっと感動していたんです」
「そう?じゃあほら、おかわりの水」
「ありがとうございます」
だけど、この思いはそっと心の奥底にしまっておく。
大事な時にだけ取り出して、決して欠片も取りこぼさないために。
深夜、みんなが寝静まった頃。
金属質なのに音が鳴らない不思議な素材でできた黒の装備を身に纏って、その他の荷物を背負って静かに窓から身を乗り出すと、月影眩しい夜のジュートノルへと一気に飛び上がった。
屋根伝いに街を駆ける間、後ろは振り返らなかった。
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