第178話 SS 胎動


 ソレは神だったが、世界に絶望していた。


 神の世界には、全知全能という概念は存在しない。

 あるのは、権能に応じた役割の細分化と、それに応じた厳然たる序列だけだ。

 ソレの力の及ぶ範囲は極めて限定的だが、同じ位階の別の神でも、多くの眷属を得ている場合もある。

 しかし、ソレが己が権能を現世に及ぼす機会は、神の座に就いてから一度も訪れていない。


 なぜか。


 その理由は、ソレがまだ神ではなく、人族の英雄だった頃に起きた悲劇に他ならない。

 その悲劇によって、神の座に至ったはずのソレの御名が語られることは無くなり、以来五千年、真の歴史と共に忘却の彼方へと置き去りにされてしまった。


 それでも、ソレは待ち続けた。

 同じく眷属を失った同類と共に征くことを拒み、かつて盟友だった神達の名声を羨み、最高神からの無言の圧力にも耐えた。

 それもこれもすべて、人族の命運を永らえさせるため。


 今を生きる愚者のためなどでは決してない。

 そんなものは一人残らず再びの災厄によってすり潰されてしまえばいいと思っている。

 ソレを支えているものはたった一つ、かつて共に災厄と戦い、己を残して先に逝った同胞たちの思いを無にせぬため、妄念というべき悪足掻きに過ぎなかった。


 しかし五千年後、悪足掻きに光明が差した。

 一人の少年が欺瞞に満ちた人族の教えに背き、ソレの加護と共に生きることを選んだのだ。


 ソレにとって少年は、暗闇に支配された世界に微かに生じた灯火。

 何としても、ソレが与えうる最大限の加護を少年に宿したかった。

 そのために、多少の小細工を仕掛けた。



 少年の住居の近くにソレの神殿の入り口を出現させ、


 少年が仲間と共に入ってくるなり最強の罠を発動させ、


 少年が孤立した後で掟破りの直通転移で神殿に誘導した。



 最高神からの処罰覚悟の、いくつもの運に助けられた、計画とは呼べない杜撰極まる嫌がらせとすら呼ばれる所業だったが、果たして少年は辿り着いた。


 そんな少年をさらに瀕死に追い込むのは、さすがにソレの矜持に反していたが、神官の一人も抱えていないために、加護を与える儀式の方法には限りがあった。

 結局、人族の核と言える心臓に神剣という楔を打ち込むことでしか、ソレの力を分け与えることができなかったのだ。


 一歩間違えれば、いや、一歩間違えなければ決して成功の見込みはなかった儀式はしかし、少年自身の必死の頑張りによって見事に成就した。


 それからは、ソレの出る幕はなかった。

 様々な壁に阻まれてすべてに絶望していた少年は、ソレの加護を駆使して見事に数々の難局を乗り越えていった。

 その多くは他人の手を借りたものではあったが、ソレが不満に思うことは一度もなかった。


 人は一人では生きられない。

 そんなことは、ソレが生きていた五千年前から分かり切っていたことだし、逆に少年が独りで何もかもをやろうとしていたなら、きっとソレは加護を与えたことを後悔していただろう。

 人々に加護を示すことが重要なのではない、人族が生き延びることが重要なのだ。


 そして、少年はまたも生き残った。

 人族同士の争いも、最高神の加護の顕現も切り抜け、ソレの身元に帰ってきた。

 ならば、ソレがかつて少年と交わした約束を果たすべき時が来たということだ。


 ソレの中に、再び苦い記憶が走る。

 二度と思い出したくない出来事だが、これを語らずに先へは進めない。

 ソレのことではない、人族が、だ。


 ソレは待つ。

 これまでの五千年と変わらず。

 しかし、五千年分を合わせても太刀打ちできないほどの緊張感を持って。


 未練や思い残しといったものこそが、人族を人族足らしめている。

 そのことを改めて噛み締めながら、未だ神に成り切れていない神は最奥の神殿で待ち構える。



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