第176話 SS 白いウサギ亭のとある日常 下
別のある日の、白いウサギ亭。
「客ではないのであしからず。ターシャ嬢に良いお話があるのですが」
そう前置きしたのは、近隣の貴族領で商売をしているという、身なりのいい中年の男。
一見礼儀正しく、ランチタイムが終わった後という、ターシャに配慮した訪問に見える。
しかし、モリソンと名乗った商人の提案は、紳士ぶった外見とは裏腹に下劣極まりないものだった。
「貴族の妾!?なんだそのふざけた話は!!」
「うるさいですね。部外者は黙っていてもらいたいんだが」
「俺はターシャの保護者だ!文句あるか!?」
「あなたが?ターシャ嬢の?その無礼な物言い、とてもそうは見えませんがね」
「実際に俺がそう言ってるんだ。見えるか見えないかが関係あるのか?」
そう凄むダンの目配せで、ターシャも慌てて頷く。
取り繕った様子に疑いの目を向けるモリソンだったが、わざとらしくため息をつくだけに留めた。
「まあいいでしょう。とにかく、私が普段懇意にさせていただいているさる御方が、ターシャ嬢をお望みなのです。もちろん、その御方の側に侍るにふさわしい生活は約束されますし、保護者の方にもそれなりのものをお渡ししますよ」
「そういうことを言っているんじゃない!ターシャの意志も確認せずに勝手なことを言うな!」
「あの、せっかくのお話ですけど、貴族様に囲われるなんて……」
異口同音に提案を拒絶するダンとターシャ。
しかし、モリソンは引き下がるどころか、さらに居丈高な態度になって睨んだ。
「こっちが大人しく下手に出ていれば調子に乗って……。いいですか、貴族に見初められたことを喜びこそすれ、平民の分際で拒絶しようなど、天地がひっくり返りでもしない限りあり得ないのですよ!」
「そ、そんな横暴、ここの代官が黙ってないだろうが!」
領地貴族や代官には、領民を守る義務が存在する。
いくら建前上のものとは言え、他の領地の領民を勝手に召し上げるなど、王国の法に反する。
宿の客から聞きかじった知識で抵抗したダンだったが、モリソンは鼻で嘲笑った。
「確かに、このようなことは普通ではあり得ない。ですが、ジュートノルの代官はこの間粛清されたばかり。しかも、どこの馬の骨とも知らぬ代官代行は、王都へ行ったきり戻ってきていないとか。一体誰が、あの御方を阻めるというのですか?」
「くっ……」
「正式な貴族の家臣を相手にして不敬罪に問われる前に、私の言うことを素直に聞くことですね。では、三日以内に荷物をまとめておいてください」
得意げな顔で白いウサギ亭を出て行くモリソン。
自分の思うがままに事が運んでいる彼は、まさか近所の建物の一つからずっと見張られていたとは夢にも思わない。
「……まずいな」
「どうする?攫うか?それともやっちまうか?」
「待て。中でどんな話があったかしっかりと確認する必要がある」
「でもよ、あのクソ商人が貴族を盾にろくでもない要求をしたのは確かだぜ?なにしろ、この自慢の耳でばっちり聞いたからな」
「別にお前の耳を疑ってるわけじゃない。あのクソ商人を二度とターシャちゃんの視界に入れたくないのは俺も同じだが、その後で貴族本人が出てくるとややこしくなる」
「じゃあどうすんだよ」
「……あまり使いたくない手だったんだがな、仕方ない」
「ていうと?」
「連絡手段の44番だ」
「44番?おい、それってまさか……」
「急げ。相手が相手だけに、段取りが済むまでに三日じゃ足りんかもしれんぞ」
「わ、わかった!」
翌日。
各分野の事情通の常連が多い白いウサギ亭では、こんな会話が繰り広げられていた。
「じゃあそうすると、あのモリソンって野郎は貴族との繋がりなんてなかったってわけか?」
「ああ。って言っても、これは信用できる知り合いから聞いた話なんだけどな。そいつの名前は勘弁してくれよ」
「じれったいな、とっとと話せ」
「そのモリソンって野郎は今、違法な人身売買の容疑で拘束されてるらしいんだが、本人は正当な許可をとって勧誘しただけだと主張してるそうだ」
「ははーん、わかったぞ。その許可証が偽造だったんだろ」
「ところがどっこい、許可証は本物らしい。少なくとも、衛兵隊が見抜けないほどに精巧な作りなんだと」
「じゃあ、捕まるわけがねえじゃねえか」
「それがよ、昨日の遅くに、貴族の側近が直々に衛兵隊を連れてモリソンの滞在先に乗り込んで、許可証偽造の容疑で問答無用で連行したって話だ」
「貴族の側近?誰だよそいつは。今、ジュートノルにお貴族様なんていたっけか?確か、代官代行様は王都にいるんだろ?」
「それが他にもいたんだとよ。なんでも、代官代行から留守を任されたとかで、ちょっと前に極秘でジュートノル入りしてたらしい」
「……なんかややこしくなってきたな」
「もうすぐ終わるから心配すんな。といっても、後は留守を任されたお貴族様とモリソンの領主様との話し合いで、全部決着がついただけだけどな」
「決着?」
「領主様はモリソンのことなんか知らず存ぜず、許可証も偽物だと領主が直々に断定した。さっき言った通りだよ」
「うえぇ……。それってつまり」
「まあ、よくあるトカゲのしっぽ切りだな。まあ、俺達のターシャちゃんにちょっかいかけたんだ、自業自得だがな」
「それもそうか」
「……おいお前ら、そろそろターシャが買い物から戻ってくる頃だ。余計なおしゃべりはそのくらいにしておけ」
その会話を厨房から聞いていたダンの注意で、モリソンが起こした小さな騒動は幕を閉じた。
しかし数日後、それだけでは気が収まらない人物が、側近一人と護衛を従えて、白いウサギ亭へと馬車を走らせていた。
「それにしても、まさかターシャ嬢に他領の貴族の手が伸びていたとは。危うくジオグラルド殿下に顔向けできなくなるところだった」
「申し訳ございません。先代のこともありましたから、今度こそサツスキー家も終わりかと心の臓が止まる思いでした」
「念のために仕込んでおいた連絡手段が機能したのだ、謝罪の必要はあるまい。……しかし、今後も同じようなことが起きると考えると、少々不安だな」
「貴族はともかく平民の動きとなると、衛兵隊に任せる以外に方法はないですからな」
「今回は、ターシャ嬢を私が妾にするという方便で切り抜けたが、次はどうしたものか……」
「でしたら、いっそのこと本当にターシャ嬢を妾に囲うというのはいかがでしょうか」
「本当に?しかし、先代のこともあって、ターシャ嬢から怖がられているのではないか?」
「先代の場合は、段取りも無しに強引に事を進めたからいけなかったのです。しっかりと贈り物をして手順を踏んで誠実に求愛すれば、貴族の妾の地位を喜ばぬ平民の娘などおりません」
「そうか?ならば、今日はターシャ嬢への謝罪がてら、再発防止の意図も説明した上で、それとなくほのめかしてみるとしようか」
「見事な解決策かと思います」
当然、その人物――サツスキー男爵の勘違いから来る暴挙がそのまままかり通るはずもない。
古参の衛兵なら貴族の言葉がある程度理解している者もおり、貴族特有の装飾過多な言い回しの中に妾に召し上げようというサツスキー男爵の真意を耳ざとく聞き取った(もちろん盗聴である)。
その結果、贈り物を満載した荷馬車と共にサツスキー男爵が白いウサギ亭を訪問しようとした時には、任務を放棄した衛兵隊が裏通りを砦に見立てて行く手を阻み、完全武装で待ち構えていた。
この一触即発の騒動が収まるのは、第三王子改め公王となったジオグラルドの帰還まで待たれることになる。
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