第175話 SS 白いウサギ亭のとある日常 上
金の亡者であるゴードンから解放され生まれ変わった、白のたてがみ亭改め白いウサギ亭。
店主も含めて従業員三人という小さな宿屋兼食事処なのだが、再出発の噂は瞬く間にジュートノル中を駆け巡った。
それもそのはず、看板娘のターシャは貴族の愛妾に差し出されるほどの器量よしで、未婚既婚に関わらず大半の男が顔を拝みに行ったことがあるというほどの有名人だ。
これまでは、色々と黒い噂があったゴードンの眼があったため滅多なことは起きなかったが、ある意味でフリーとなったターシャを、密かに狙っていた男たちが放っておくはずもない。
だが、彼らは知らない。
ゴードンという主がいなくなったからといって、高嶺の花に手が届くようになったわけではないことを。
そして、客として話しかけるくらいならまだしも、いらぬちょっかいをかければどんな目に遭うのかということも。
「いらっしゃいませ!」
「ようターシャちゃん、今日もキレイだね」
「またまたトムさん、おだててもサービスなんてしませんよ」
「へいへい、とりあえず、いつもの頼むよ」
「ダンさーん!日替わりスープセット一つお願いしまーす!」
「あいよ!」
今日も白いウサギ亭には、ターシャの笑顔とそれに応じるダンの調理場の音が響き渡る。
そして、食堂を動き回るターシャを目で追う、ランチの常連客達。
その誰もが看板娘の笑顔の前に、緩み切った表情のままで料理や酒を口に運んでいる。
だが、ここは治安のいい大通りから一本外れた下町。
そこにある食事処となれば、トラブルの一つや二つは日常茶飯事だ。
「いらっしゃいませー!ご新規さんですね!」
「ヒック!おおういっ、ねーちゃん酒だ!とりあえずビール三杯!」
入ってきたのは、昼間だというのに明らかに泥酔している中年の男。
格好から察するに余所者だろうか。
「ごめんなさいお客さん、今手が離せないからちょっと待っててね」
「ああん!俺の言うことが聞けねえってか?」
店の雰囲気も考えずに喚く酔っ払いに、ターシャも戸惑いを隠せない。
と、そこへ、
「ターシャちゃん、席空いてるかい?」
「いいわよ、適当なところに座って、ブリックさん」
「あいよ」
そう言いながら厨房に引っ込んだターシャに返事をしたのは、平服ながら引き締まった体つきの男。
男は、迷いなく食堂の通路を進んだかと思うと、なぜか今もわけの分からないことをブツブツ言っている酔っ払いの隣に座ろうとして、ふいに足をもつれさせた。
「おっと足が滑った」
「ガフウッ!?」
そのままよろめいた平服の男が体をぶつけたかと思うと、急に酔っ払いが大人しくなった。
「すまねえなダンナ、ぶつかったりして……、あー、これダメだな。完全に潰れてやがる。おい誰か、手を貸してくれ。このダンナを近くの井戸端まで運ぶぞ」
「なに?しょうがねえな」
平服の男の呼びかけに、妙に手早く応じた数人の常連客が、気絶した酔っ払いを店の外へと運んでいく。
そして、常連客達が少しして戻ってきて、平服の男が自分のテーブルに一枚の銀貨を置いたところに、タイミングよくターシャが厨房から顔を出して、
「あれ?さっきのご新規さんは?」
「ああ、あのダンナだったら、気分が悪くなったとか言って、ビール代だけおいて帰っていったぜ。ほら、金がそこにおいてあるだろ」
「ホントだ。ちゃんと相手してあげられなくって、悪いことしちゃったかな?」
「大丈夫だって。さっき俺達でそこまで送って行ったんだが、必ずまた来るって言ってたから」
「そう?それならいいんだけど。ブリックさん、今ダンさんが大急ぎで作ってるから、もうちょっとだけ待っててね。いつものでいいんでしょ?」
「ああ。こちとら非番だからゆっくりやってくれていいぜ」
「ありがと!」
今日も、白いウサギ亭は平和である。
別のある日のこと。
「ウチに来れば給料は十倍、豪華なドレスもアクセサリーも選び放題、加えて縁談は一流どころから殺到間違いなし!ターシャちゃんの美貌と人気があればジュートノル屈指どころか名実ともにナンバーワンも絶対いけるって!なあ、オレの店に来るだろ?」
昼下がりの白いウサギ亭。
いつもとは違う耳障りな声が店の外まで響いているが、声の主はいかにも夜の商売といった感じの、派手な服装をした若い男。
この若い男の名は、ディッケルノ。ジュートノルの年頃の娘なら誰もが知っている遊び人であると同時に、本人もその手の店をいくつも経営している金持ちである。
また、ディッケルノの父親はジュートノルでも名の知れた富豪で、息子の犯罪紛いの強引なやり口を各所に圧力をかけて揉み消しているともっぱらの噂である。
「そんなの、いきなり言われても困ります。他のお客さんにも迷惑ですし……」
「そんなの関係ないって!ウチに来れば太客を選び放題だし、こんなボロ店に来るようなザコは全部追い払ってやるよ!なんだったらオレのオヤジに頼んで、貴族の客も呼んでやっても――」
困り顔でやんわりと拒絶するターシャを見て何を勘違いしたのか、次々と暴言を吐き続けるディッケルノ。
さすがにこうなると、客あっての商売でも、店主のダンも黙ってはいられない。
「お客さん、さっきから注文もせずにずいぶんな言い様だな。悪いがそろそろ時間なんでね、帰ってくれないか?」
「な、なんだお前!?オレはターシャちゃんと話してんだ!これ以上邪魔するとオヤジが黙ってないぞ!」
「ずいぶんと威勢がいいが、そういうのは周りを見てからにした方がいいぞ」
料理人にしては迫力があり過ぎる外見のダンにやや怯んだものの、それでもやめる気配のないディッケルノ。
しかし、ダンの忠告で、他の客全員から殺気を向けられていることを知り、
「ア、アハハハ……、じゃ、じゃあターシャちゃん、考えておいて!明日また来るからね!」
さすがに多勢に無勢と気づいたらしく、そそくさと逃げるように出て行くディッケルノ。
元凶が出て行ったので殺気は収まったが、それでも尖った空気は残ったままだ。
「おっと、一つ、仕事が残っているのを思い出したぞ」
そんな中、なぜか店中に聞こえるように独り言を言って、テーブルの上のランチの残りを急いで食べて席を立ったのは、衛兵の装備をつけた年配の男。
すると、まるで年輩の男に追従するように、他の衛兵達もランチの残りを掻き込み始めた。
「ターシャちゃん、俺達、数日は来られないと思うから、ダンさんに仕込みの数を減らすように言っておいてくれないか?」
「それはいいですけど……」
「悪いな、仕事が忙しくなると思うから。じゃあ、また今度」
そう言いながら背を向けた年長の衛兵が、先に行った仲間の後に続く。
その様子を厨房越しに見て見て、ダンが小さく息を吐いた。
数日後の白いウサギ亭。
そこでは、常連客同士でこんな会話が繰り広げられていた。
「おい聞いたか。あのいけすかねえディッケルノの店に、衛兵隊が一斉捜査に入ったらしいぜ」
「一斉って、全部の店にか?」
「ああ。あそこは噂だけなら完全に真っ黒だったからな。実際に手入れが入ったら、それこそ死刑になるくらいの罪が山のように出てくるんじゃねえか?。今頃衛兵隊の詰め所の牢屋は、ディッケルノを始めとした店の連中で一杯だろうぜ」
「だがよ、ディッケルノは父親のおかげで、これまでなんとかなっていたんだろ?その父親は息子の一大事になにしてんだよ?」
「そこなんだがな……、どうやらその父親の方もヤバいことになってるらしいんだ」
「ヤバい?息子を取り返すために圧力をかけまくってるのか?」
「逆だよ逆。なんでも役所のお偉いさんが出て来て、取り調べを受けているらしいぜ」
「取り調べ!?ディッケルノの父親って、すっげえ金持ちって話だろ?役人は賄賂を贈ってるはずだろ」
「それがよ、そういう役人はこの間一斉に粛清されたから、お得意の賄賂も効果がなかったんだと。むしろ、息子の道連れになって財産全部没収されるかもしれないらしいぜ」
「……おい、お前衛兵のくせに、やけに喋るじゃねえか。そこまでばらしていいのかよ?ていうか仕事はどうした?」
「今日は夜番だからいいんだよ。まあ、今回はどこからも口止めはされてねえからな。むしろ、どんどん噂を広めて、後ろ暗いことをやってる奴らを大人しくさせたいって、上の意向らしい」
「マジかよ」
「まあ、それも俺の推測だけどな」
「おい」
その常連客の会話を、聞くとはなしに聞いていたターシャ。
その後、皿を片づけて厨房に引っ込んだ時に、やや食い気味にダンに、
「ねえねえ、聞いたダンさん。あのお客さん、衛兵隊に捕まっちゃったんだって!」
「聞こえたよ。あれだけ大声で喋られたら、耳を塞いでいても聞こえる」
「これで、しつこく勧誘してくることもなくなるかな?」
「だろうな。人の不幸を喜ぶようでなんだが、ターシャにとっては運もタイミングもよかったな」
「そうね。ホント、偶然よね」
「まったくだ」
今日も、白いウサギ亭は平和である。
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