第171話 帰り着く道 下
ジュートノルの気候は、夏は暑すぎず冬は寒すぎず、人族にとっては比較的過ごしやすいと言われている。
個人的にはもうちょっと冬の厳しさがお手柔らかにと思わないでもないけど。
とはいえ、まだまだ朝にまで春の陽気が及んでいるとは言いづらく、ようやく朝日が照らし始めてもそこら中に朝露が光って容赦なく生き物の体温を奪っていく。
そんな無数の水滴をストリームで一カ所に集めて丘の下に魔法の力で放り投げ、冷気を少しでも遠ざけようと無駄な足掻きをしてみる。
昨日の日没間際からの焚火はもう消えていて、もう一度着火するかどうか迷った挙句、セレスさんが置いていったブランケットを体に巻き付けて俺に寄り掛かって小さく寝息を立てるリーナの血色を見る限り、その必要はなさそうだと判断して、少しづつその顔を覗かせる朝日をぼんやりと眺めた。
「おいおい、兄ちゃんたち、まさかこんなところで夜明かししたのか?」
「ああ。王都からの帰りなんだけど、途中で夜になってしまったから仕方なくここで夜を明かしたんだ。幸い、この辺は魔物に襲われる心配はないからな」
それから少しして。
日光がまぶしく照らす街道を外れてわざわざ声をかけてきたのは、戦士かスカウトと思える冒険者のいで立ちの男。
あちこちが煤で汚れたり腕に包帯を巻いているところからして、ひょっとしたら一緒に王都の南門を守った一人なのかもしれない。
そのせいか、男が俺達を見る目は不審じゃなく、こんなところで休んでいる若者を普通に心配しているように思えた。
「そうか。んじゃ、そっちのべっぴんさんが起きたら、とっとと家に帰った方がいいぞ。兄ちゃんも知ってるだろうが、王都はアンデッドが大量に沸いてえらい騒ぎになってるんだ。今はまだ安全だが、この辺もそのとばっちりを受けて、棲み処を追われた魔物がいつ流れてくるかわかったもんじゃねえぞ。いいな、さっさと帰れよ!」
「ああ、ありがとう」
俺の言葉に背を向けた男が街道に戻っていく。
そこには、他にもちらほらと旅人の姿が見え始めている。
その一方で、さすがに知らせが届いているのか、ジュートノルから王都に向かう人影は一向に現れない。
そのことにちょっとだけホッとしながら、リーナが目を覚ますのを待ち続けた。
その集団の正体は遠目にもわかった。
朝方の街道にも映える赤を基調とした装備に、炎をモチーフにした旗印を掲げる騎馬隊が先頭で威容を示している。
その馬蹄の音が聞こえたんだろうか、俺の肩に頭を預けていたリーナが目覚めた。
相変わらず、生気に乏しい眼差しだけど、少なくとも昨日みたいな死の気配を感じないだけましだ。
「テイル、おはよう」
「リーナ、おはよう」
朝の挨拶をしたっきり黙ったリーナに、俺も黙る。
ここに他の誰かがいたら話題の一つでも思いつくのかもしれないけど、無理やり絞り出す必要はないし、するつもりもない。
リーナと二人、アンデッドとの激しい戦闘の痕がうかがえる烈火騎士団の隊列を眺める。
傷だらけでも胸を張って進む騎馬の集団の中に一騎、将の威厳を保っている全身鎧はゼルディウスさんだろうか。
――あ、こっちを見て頷いた。やっぱりそうだ。
目立たないように小さく手を振ると、もう一度頷き返してくれて前に向き直った。
少なくとも、これでジュートノルに俺とリーナのことは伝わるだろう。
そう一安心して、また騎士団の隊列を眺めることに没頭した。
烈火騎士団の後に続くのは、やけに身なりのいい平服の集団だ。
特に武器も持ってなくて足を引きずるように歩く人も少なくないから、たぶん王都の役人たちなんだろう。
中には下級貴族と思えるような、とても旅をしているとは思えない身なりの人も見えるけど、誰もが薄汚れていて身分の差を気にする余裕も無さそうに必死に進んでいる。
そのうちの何人かが品定めをするようにこっちを見てくるけど、全員が俺に視線を合わせた直後にさっと目を逸らした。
――俺っていうか、俺の装備を見て、良からぬたくらみを諦めたって感じだな。
実際には、彼らが欲しがっているだろう食糧も水もろくに残っていないんだけどな。
そのしばらく後、十騎くらいの護衛に囲まれた豪華な馬車が視界に入った。ジオの乗る馬車だ。
明らかに速度の落ちた馬車の窓のカーテンがわずかに開けられたのが、鋭敏な視覚でわかった。
あのカーテンの隙間の向こうで、ジオがニヤニヤ笑いを堪えずにいると思うと癪だけど、ああして護衛に守られている中で文句を言いに行くわけにもいかない。
けっきょく、ジュートノルの方へと遠ざかっていく馬車を見送ることしかできなかった。
リーナも、俺と同じ目の動きをしていた。
徐々に道行く人が減り始め、いよいよ避難民の行列が終わりに差し掛かってきた頃。
避難民の最後尾についていた、服はよれよれで足取りもおぼつかない小汚いおっさんがこっちに気づいて、なぜか丘を上ってきた。
身をすくめたリーナを守るために前に出ると、
「よう、お前らこんなところにいたんだな……」
声で分かった。あと、後ろ腰に回っていてよく見えなかった腰の剣も。
小汚いおっさんはレナートさんだった。
つまり、服がよれよれなのは元々で、足取りがおぼつかないのはアンデッドとの戦いで頑張ったからで、小汚いのおっさんなのは俺の偏見だった。
そんな無礼な俺に気づかずにレナートさんは、
「なんでこんなとこで黄昏てんのか、大体想像は付くがな。アンデッド共のせいで数日後には魔物の分布が激変するだろうから、適当なとこで帰って来いよ」
そう忠告しながら数日分の携帯食料と水を手渡してくれたレナートさんは、またフラフラの足取りで丘を降りていった。
「あれが冒険者ギルドのグランドマスターだって言っても、知らない人は誰も信じないんだろうな」
「そうね。でも、かっこいいと思うわ」
独り言のつもりで呟いた感想に、意外にもリーナが返してきた。
激戦の痕を感じさせるレナートさんの背中を見て、思うところがあったんだろう。
その瞳は、小さくなっていく煤けた背中をいつまでも追っていた。
街道に近づけば危険だと分かっているんだろう、遠くに聞こえる獣の鳴き声以外、何もない草原の夜。
その代わりに焚火一つしかないせいで、無数の生活の明かりが灯るジュートノルよりも星空が煌いて見える。
「夜の空って、こんなに綺麗だったのね。少し怖い……」
昨日とは違って、いつまでも起きているリーナがそう言って、それでも仰ぎ見る視線を外さない。
その目に映っているのは星々の輝きか、それとも漆黒の視界に投影した記憶の残滓なのか、どっちなんだろう。
やがて視線を街道に戻したリーナは、
「でも、私達が帰る場所は、あの道の先にしかないのよね」
その言葉で、リーナが見ていたのは夜空じゃなくて、その向こう側にある王都だと気づいた。
「テイル、付き合ってくれてありがとう。おかげで心の整理がついたわ。明日、夜明けと一緒に出発しましょう。こんなところで油を売っていた分を取り戻さないとね」
「踏ん切りはついたのか?」
聞くべきじゃないと分かってはいても、いざ面と向かってみるとつい言ってしまう禁句もある。
果たして俺の余計な一言は、リーナに困ったような笑顔を浮かべさせてしまった。
「ついた、といったら嘘になるわ。けれど、今日丸一日かけて街道を歩く人たちを見て思ったの。あの中には、私と同じように大切な人を失った人が何人もいる。それでも前を向いてジュートノルへと必死に歩いていた。それで、私はこんなところで立ち止まって何をしているの?ってね」
「別に、他人に合わせる必要はないんだぞ?」
「ううん。王都があんなことになってしまった以上、この先アドナイ王国に住む全ての人にとって、とても厳しい時代がやってくるのは間違いないわ。それこそ、貴族とか平民とか言っていられないほどの過酷な時代がね」
そう言ってのけるリーナの眼には、言葉に説得力を与えるだけの力強さが、確かに戻り始めていた。
「お父様を亡くした悲しみは未だにこの胸を締め付けているけれど、だからといって前を向くことと矛盾するわけじゃあない。もし矛盾があったとしても、ジオ様を裏切ってまで家を守ろうとしたお父様なら、きっとわかってくれるわ」
「そうか、そうだな」
俺が予想した形とは少し違ったけど、リーナはリーナなりに気持ちに折り合いをつけたみたいだ。
今はまだいつも通りとは行かないけど、それでもジュートノルに戻ればこれまでと変わらないリーナを見せてくれるだろう。
「そうと決まったら、すぐに寝ましょう。明日早くに出発すれば、昼頃にはジュートノルに着けるはずだから」
「ああ。でも、街どころか建物の中ですらないから、さすがにどっちかが見張りをしておかないとな。とりあえず俺が先に見張る。これでも体力はあり余っているからな」
「それならお願い。正直、ここ数日熟睡できていなかったから」
「ああ、任せろ。おやすみ、リーナ」
「おやすみなさい、テイル」
心の中の張り詰めていたものが緩んだ証拠だろう、急激に眠そうな表情になったリーナは俺の提案に反対の声一つ上げることなく、そのまま焚火の側で横になった。
――まあ、エンシェントノービスになっても眠気への抵抗力が強くなったわけじゃないんだけどな。
それでも、ここは男の意地を見せとかないとと思っての発言だった。後悔はしていない。
とはいえ、これから交代までどうやって睡魔と戦おうか。
そんな考えに没頭し始めたのが、油断だった。
「テイル」
誰かと考える間もなく無条件で振り向いた俺に、
「ありがとう。あなたを好きになって良かった」
夢としか思えないリーナの言葉と一緒に、唇に微かで熱い感触が残った。
思考停止から立ち直った頃にはもう、俺に背を向けて寝ころんだリーナから安らかな寝息がしていた。
その夜も、結局一睡もできなかった。
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