第165話 脱出行 下
足が重い。
平坦な石畳の上を歩いているはずなのに、まるで泥の海の中を進んでいるような感覚が纏わりついて離れない。
それでも前を向かないと、足を進めないと、手を動かさないと。
襲い掛かってくるアンデッドの心臓に向かって剣を刺し込まないと。
ドサ
絶対に生き残れない。
スピードスタイルの高速移動で、行きはほとんど見逃すような形で通り過ぎてしまった、王宮と南門を繋ぐ大通りの中間地点。
強いて言うなら、ここからが本番だ程度には認識して気を引き締め直した部分はあった。
同時に、帰りにここまで戻って来れればある程度の安全の目安になると。
だけどやっぱり、予測は予測でしかなく、実際の戦いでは役に立たないことがほとんどで、今回もそうだった。
オオオオ!!
中間地点のランドマークになっている、戦士神のモニュメント。
その影から躍り出てきたのは、軽鎧と制式槍で装備を揃えた四体のアンデッド。
元は衛兵だったと思われるそいつらの動きは連携が取れていて、さらにその後列に現れた同じ数の弓兵が俺に狙いを定めている。
いつもならスピードスタイルで一気に加速、弓兵の狙いを外した上で槍兵に突撃して陣形を乱すところだ。
だけど、今はその手は使えない。もうそんな余力は残っていない。
カィン カィン
放たれた四本の矢のうち二本は大きく外れ、残りの二本は幸か不幸かライトアーマーの装甲が阻む。
冒険者学校での知識によると、衛兵隊の戦い方は基本的に一つなんだそうだ。
前衛を槍兵で固めて槍衾で敵を遠ざけ、後衛の弓兵(ボウガンも含む)で攻撃する。これだけだ。
魔導士なんて気の利いた兵種はいない。
弓兵と違って、誰でも習得できるスキルじゃないからどこの軍隊でも人気が高く、街の治安維持が主な仕事の衛兵隊じゃ出番がない。
まあこれは、身分もジョブも関係ないアンデッドの群れの中にたまたま魔導士が含まれていない――そんな賭けに出ただけの話なんだけど。
どうやら俺の運はまだ尽きてはいなかったみたいだ。
そう思い込みながら、すっかり鈍った剣を振るった。
残りの行程は三分の一。
ここで一つ問題が発生した――というよりも、気づかないようにしていた問題が表面化したと言った方が正しい。
背中の感覚が、ずいぶんさっきから無い。
それどころか、なんだか嫌な臭いが漂ってきている気がする。
最初に背中に攻撃を食らったのは、復路の序盤の頃。
人族っていうのは案外背中の感覚が鈍いものらしく、どうやっても見ることができない死角に突き立ったものがただの矢なのか、それとも何らかの魔法の痕跡なのかがわからなかった。
本当なら治療してから先に進みたいところだったけど、あいにく今の俺には背中を任せられる仲間がいない。
動きには支障がなかったから、多少の痛みと違和感には目を瞑ろうと考えたのが、素人の浅はかさだったんだろう。
――背負うんじゃなくて抱き抱えておいてよかった。
ロープと左腕で支えるティアを見て、心底そう思う。
仮に、背面からの攻撃への対処法があったとして、今の背中の状態じゃ、途中でティアを振り落としていたら気づかなかったかもしれない。
考えるだけでゾッとする状況だ。
逆に言えば、そんな事態もあり得ると認めてしまうほど、背中の状態は悪い。
ひょっとしたら致命傷かも――
と、右足が何かに躓いて姿勢を崩す。
沼に足を突っ込んでいるような感覚の中、すんでのところで左足を前に出して踏みとどまる。
ティアにも怪我がないことを確認して一安心したところで元凶を見て、あり得ないほどに腫れ上がっているのにまるで痛みを感じない自分の右足に血の気が引いた。
……可能性があるとしたら、さっきの衛兵アンデッドの槍だろう。
すっかり慣れてしまった、アンデッド退治法の一つである心臓の破壊を黒の剣の一刺しずつで手際よく仕留め、まだ矢を番えていない弓兵に意識をやった時、一体の手から零れ落ちた槍の穂先が脚部装甲の隙間を掠めていった。
その時は特に血も流れていなかったから、服の袖を引きちぎって包帯代わりに巻いておいた。
どうやら、それが素人判断だったらしい。
とは言っても、あの時にはとっくの昔に魔力が尽きてファーストエイドどころじゃなかったから、あれ以上手の施しようがなかったのも事実だ。
突き詰めれば俺の不注意としか言いようがないんだけど、進む以外の選択肢がない以上、この足が腐り落ちたとしても、這ってでも南門に向かうしかない。
とりあえずは体重を支えてくれている右足に感謝しながら、これまで以上に鈍くなった速度で一歩を踏み出した。
いよいよアンデッドの襲撃も散発的になってきて、同時に南門の象徴である楼もはっきりと見えてくる位置まで帰ってきた。
ここまでくれば、不死神軍の組織だった攻撃が来ることはまずない。
精々が、死霊術の支配を逃れた野良アンデッドが数体ウロウロしているくらいだろう。
これが往路だったら一瞬で駆け抜けてしまえる距離だ。
だけど、そのわずかな距離が危険で、遠い。
感覚がなくなっていた右足はさっきから使い物にならなくなって、代わりに黒の剣をショートソードからレイピアの長さに変えて、杖代わりに使うことでギリギリ進めている。
当然、今襲われれば、それが雑魚アンデッドだったとしても不覚を取って、ティアを巻き添えに無残な最期を迎えることだろう。
さっきは這ってでもとは思ったけど、この瓦礫だらけの大通りでそんな真似ができるわけもないし、そもそもティアを抱えたままじゃどうやったって不可能だ。
あまり考えたくはないけど、次に体勢を崩したら二度と起き上がれない、そんな気さえする。
そんな弱気になっていた自分に気づかなかった時点で、避けられはしなかったんだろう。
風切り音を聞いた時には回避する暇は失われていた。
精々できたのは、左脇に抱えていたティアを黒の剣を離した両手で抱きしめながらうつ伏せに倒れ込むことくらいだった。
ドスドスドス
ライトアーマーが弾く金属音よりも、腕や足や腹に突き刺さりながら肉を引き裂く矢じりの音の方が全身に響く。
その矢の雨が降ってきた方向に思うように動かなくなった首を酷使して見ると、整然と並んだ死霊騎士の一団がこっちに向かってきているのが分かった。
――あ、ダメだ。これは死ぬ。
満身創痍の割には素早く冷静に判断できた自分を褒めながら、最後の最後のために取っておいた魔力でファーストエイドを行使。
ただしその対象は俺じゃなく、意識を失っているだけのティアだ。
「……ん、んうう、テイル?」
「ティア、悪いんだけど、自力でロープを切ってくれないか。魔法チョチョイとできるだろ?」
「う、うん。『エアロカッター』――って、テイル!?全身傷だらけじゃない……!!」
まだ意識がはっきりしていなかったんだろう、何の疑問も持たずに俺の言う通りにしたティアは、自慢の魔法で簡単にロープを切ると俺の体の下から這い出して、ようやく事態に気づいた。
「悪いけど、道案内はここまでだ。ほら、あそこに見えるのが南門の楼だ。あそこまで走ればジオが待っている。ティアを助けるように命令したジオがな」
「それならテイルも!!」
「俺は……その、あれだ、すぐそこまで来ているあいつらを何とかする仕事が残っているからな。なあに、ちょっとだけ足止めしてティアが逃げる時間を稼ぐだけだから楽勝だ」
――実際は満身創痍で感覚のない傷も数知れず。
せめて悔いの残らない最期をと思って気丈に振舞う。
まあ、文字通りの箱入りの御姫様のティアならこれでごまかせるだろ。
「うそっ!!そんな傷だらけの体でどうにかできるわけないじゃない!」
「あっ、バカ!!」
ドォン!!
言った時には遅かった。
どこに隠し持っていたのか、いつの間にかに例の豪奢なワンドを手にしたティアが短い詠唱で火球を出現させ、止める間もなく最前列の死霊騎士の頭を派手な音と一緒に消し飛ばしていた。
「わたしだって戦えるわ!!テイルのお荷物になんかならないんだから!!」
それがどれだけ恐ろしいことか知りもせずに、威勢のいい啖呵を切ったティアを怒鳴りつけようとして、そんな暇はないと思い直した。
――こうなったら迎え撃って、――ダメだ。俺一人ですらままならない状況で、ティアと即席のコンビを組んでどうにかなるはずがない。
なら、イチかバチかスピードスタイルにチェンジして逃げられるだけ逃げるしか……
とっくの昔に却下した案を、いまさら再考しているあたり、精神的にも追い詰められているのは自覚している。
それでも夜の荒野で狼の群れから助かろうという絶望的な可能性に最後の望みを託そうとしたその時、その幻聴としか思えない声が聞こえた。
「烈火騎士団参上!!アンデッド共、覚悟しろ!!」
やっぱりというか当然というか、かつてない不調をきたしていた耳が初めて拾った音は、ほぼ同時に俺とティアの横を騎馬で駆け抜けていった、烈火騎士団の鮮烈な赤の鎧姿。
聞き間違いでなければ、あれはゼルディウスさんだ。
さすがは騎士団長の養子だけあって、騎馬を巧みに操りながら死霊騎士の部隊に切り込んだゼルディウスさんは、瞬く間に陣形を崩していく。
それに続いて、徒歩の烈火騎士団が陣形の穴を突いて次々と死霊騎士を討ち取る光景が、霞む目に映った。
……はあ、ちょっと最後は締まらなかったけど、なんとかジオとの約束を果たせたな。
「テイル?テイル、テイル!!誰か!!テイルを――」
自分じゃちょっと気を抜いただけのつもりだったけど、どうやらかなり前から体力の限界を迎えていたらしい。
不意にグラついた姿勢を元に戻そうとして失敗、そのまま石畳に倒れ込んだ。
身体が動かないにしては、ティアの俺の名前を叫ぶ声がやけにはっきり聞こえていたけど、それもすぐに止んだ。
あとは、何も見えない聞こえない暗闇がすべてを支配していた。
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