第162話 別離の言葉


 ファーストエイドは治癒魔法の初歩だ。

 具体的には、かすり傷くらいなら立ちどころに治し、重傷でも出血を止めるくらいのことはできる。

 他にも、体の不調から来る痛みを緩和したり、二日酔いの時間を短くしたりと、意外と使い勝手が良かったりするけど、あくまで魔法は魔法、教会や冒険者ギルドの利権もあって、世間にはあまり知られていない。

 なら重症には役に立たないかというと、そんなこともない。

 例えば、治癒術士が近くにいない状況で致命傷を負った奴にファーストエイドをかけると、出血を抑えることができて一命をとりとめることだってざらにある。


 だけど、高位の治癒魔法ならともかく、ファーストエイドじゃどうしたって限界はある。

 そう、目の前のアレクさんのような。


「アレクさんは手遅れだ。間に合わなくてごめん」


「どうして!?もう血は止まったのに!!」


「血を流しすぎているんだ」


 自分で言うのもなんだけど、俺のファーストエイドは初級の域を超えている。

 大抵の傷はすぐに治せるくらいに強力だし、ヒールスタイルなら王都の一区画を丸ごと覆える広域治癒を行使できる。

 でも、魔力で失った血は補えない。

 もしかしたら、高位の治癒魔法にはそういった効果のものもあるのかもしれないけど、俺は知らないし使えない。

 割れた水瓶を補修することはできても、一度零れてしまった水を注ぎ直すことは、俺にはできない。

 そのことが、ただただ悔しい。


「そんな顔をなさらないでください、テイル様」


 もう喋るだけでも辛いだろうに、そんな素振りを見せずに、アレクさんは言った。


「明らかに危険があると分かっていながら、愚かにもこの場に留まった私に非があるのです。こうして駆けつけてくださったテイル様に感謝こそすれ、恨むことなどあろうはずがございません」


「アレクさん……」


「違うわ!アレクは何度も逃げようと言っていたのに、わ、わたしが、わたしが我が儘を言ったから……」


「主の願いを叶えるのは家臣の務め。そして、主の危機を取り除くのもまた家臣の務めです。この両輪を果たしてこそ家臣足りえるのに、私はそれを怠ってしまいました。もはや姫様の従者を名乗る資格はありません」


「そんなことない!みんな――お父様もお母様も側仕えもわがままなわたしからみんな離れていったのに、アレクだけは残ってくれたわ。。なのに、わたしはそんなアレクの言葉も聞かずに……」


 慟哭するティアに向けるアレクさんの眼は、どこまでも優しい。

 すでに従者としての礼儀を守ることもできず横たわり、死を待つばかりの体になっているのに、決して言葉も態度も崩れることがない。


「ですが、そんな失態演じた私をテイル様が救ってくださるようです。それも、このアンデッドの巣窟と化した王都を命がけでやってきて」


「アレク?」


「姫様、どうやらお別れの時がやってきたようです」


 そこで一旦言葉を切ったアレクさんは、俺に目を向けてきた。

 その眼は、死がもうすぐそこまで迫っている怪我人とは思えないほどに、強く真っ直ぐだった。


「テイル様、姫様をお願いいたします。あなたなら姫様を担いで安全な場所まで逃れることも可能でしょう。いえ、その確信があるからこそ、今この場にいるのだと愚考いたします」


「……そんな確信があったら、アレクさんが怪我する前に間に合ってるよ」


「ふふ、それは言わぬが花というものでしょう。ですが、この王都を去ってからの姫様の新たな暮らしをお支えできないのは、確かに心残りではあります」


「アレクさんのようにとは行かないかもしれないけど、ティアのことは任せてほしい」


「それを聞いて安心いたしました。これで心置きなく神の元へ行けます」


 ジオの思いも含めてそう言うと、青白いアレクさんの顔に笑みが浮かんだ。


「そうと決まれば、すぐにここを離れてください。不死神軍が完全に王都を掌握すれば、建物という建物を調べて生き残りの捜索を始めることでしょう。その時やってくるのは、私を襲ったはぐれ死霊騎士などではなく、死霊術士の支配を受けた軍そのものとなります。そうなれば、もはや蟻の這い出る隙間もなくなるのは明白です。さあお早く」


「いやよ!!」


 そう叫んだのはティア。

 新しく涙をあふれさせながら血に汚れることも厭わずにアレクさんにしがみつくと、すがるような眼で俺を見た。


「テイルだったらわたしとアレクを背負って、ジオお兄様のところまで行けるわよね!?だって、アレクは生きているのよ!このわたしが命令しているんだからもちろんできるわよね!?」


「姫様!!」


「ひぅっ!!」


 その時響いた叱る声に、一瞬誰のものかわからなかった。

 だけど、そんなセリフを吐くのはこの場でたった一人しかいない。

 そのアレクさんは、今まで見たこともないくらいに厳しい目でティアを睨んでいた。


「テイル様はわざわざここまで姫様を助けに来てくださった上に、ジオグラルド殿下の元までお連れくださるというのです。そしてその帰路は、単独行ですら険しいものになることは火を見るより明らかです。それを押して姫様をお守りくださるテイル様に足手まといを加えることがどれほど無謀か、姫様にお分かりにならないはずがないと確信しております」


 傷のせいだろう、決して叫ぶことはないアレクさんの語り口だけど、ティアの反論を許さないほど厳しく、文字通り命を懸けた忠言だった。


「アレク、アレク……」


「誠に勝手ながら、これにてお暇を頂きます。姫様、どうかお元気で」


 主従の会話に名残は尽きない。

 俺も、できれば二人が納得いくまで別れを惜しんでほしかったけど、閉じた書庫の扉の向こうからかすかに聞こえてきた複数の足音のせいで、そうも言っていられなくなった。


「どうやら、招かれざる客がまたやってきたようですね。テイル様、姫様を連れてお早く」


「アレクさん……!?」


 これに驚かずに何に驚けというのか。

 俺の視線で敵の存在に気づいたんだろう、さっきまで虫の息で腕一本動かすのもつらいはずのアレクさんが、まるで幽鬼のようにゆらりと立ち上がったのだ。


「この場は私が何とか致します。その隙に、この書庫の秘密の通路から脱出してください。少なくとも、第三王子宮の外までは安全に行けるはずです」


 そう言ったアレクさんがよろよろと司書棚の一角に歩み寄ってその中の一冊を手で押すと、隣の棚が勝手にスライドして人一人は優に通れそうな穴がぽっかりと姿を現した。


「でも、アレクさんは……」


 確かに脱出の目途は立った。

 だけど、すぐそこまで迫っている死霊騎士になぶり殺しにされると分かっていて、アレクさんを放って逃げることは、俺にはできそうにもない。

 そんな心境も見抜かれていたんだろう、アレクさんは俺を見据えて言った。


「ご心配なく。私には王族の家臣に支給されている、いざという時のための自決術式があります。これを用いれば死霊術の虜になる恐れもなく、上手くすれば周囲の敵を巻き込んで死ぬこともできます」


「それは……」


「これは姫様の足手まといにならないだけでなく、最後の武勲を上げる機会でもあるのです。テイル様、どうか私の手柄を横取りするようなことをなさらないでください」


 もちろん、アレクさんの本心のわけがない。

 だけど、俺の心の負担を少しでも減らそうという気遣いを見せてくれているのに、これ以上時間を無駄にはできない。


「……短い間でしたけど、お世話になりました。この恩はティアに返そうと思います」


「それでけっこうです。テイル様、どうか姫様のことを、私に代わってよろしくお願いします」


 アレクさんの別離の言葉に頷いて、会話の意味を知ろうとしないかのように呆けているティアを腰から抱き上げる。


「テイル!?アレク、アレク!!」


「姫様、どうか生きて、生きて、生き抜いてください。それだけが私の望みです」


 そう言ったアレクさんが歩き出す足音を聞いて、秘密通路の奥へと駆け出す。


 後ろは振り返らない。

 すでに別れは済ませたし、アレクさんの後姿を見るのは俺の背中越しに見ているティア一人だけで十分だから。


「アレクーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


 あっという間に書庫から遠ざかる。

 やや遅れて聞こえてきたのは、大きな爆発音。

 それがアレクさんが引き起こしたものだってことは疑いようもない。


 自分を生かすために捨て身の特攻をかけたアレクさんに向けて絶叫するティアの涙を拭う方法を、今の俺には見つけることができなかった。

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