第24話 帰ってきたジュートノル


「ここは……」


 時間はすでに夜明け前。

 遠く地平線の向こうにうっすらと光の白線が現れ始めている。

 それが見える以上、すでに俺の体も森の中にはない。

 というより、この光景は見慣れ過ぎていて、街の外にいるというのに妙な安心感すらある。


 今俺は、ジュートノルの街から程近い、馴染みの森の外周部にいた。


 時間や記憶をすっ飛ばした覚えはない。

 今も俺の立場は遭難者のはずなんだけど、慣れ親しんだ森の外周部に立っている以上、果たしてその認識が正しいのか自信はない。

 ただ俺がやったのは、外の空気が流れてきている気がする方向へ、何となく歩いただけだ。


 そう、その「歩く」ことにすら、苦労した。


 まず、足元が安定しなかった。

 踏みしめる力が強すぎて、時々地面を陥没させてしまって重心がずれていたと気づいたのは、森の外に出る直前のことだ。おかげで、走るのが怖すぎて行程のほとんどを歩かざるを得なくなった。


 森の障害物にも苦労した。

 といっても、石ころや木の根っこに足を取られたというのじゃない。その逆だ。

 強すぎる脚力があらゆる障害物を蹴破り吹き飛ばし、逆に何に気をつけないといけないのか分からなくなった。むしろ、これまで培った森歩きのスキルが全く役に立たず、余計な気苦労ばかりが積み重なったくらいだ。


 とにかく自分の体に馴れない。

 そんな中でも、この先のことを考えないといけない。

 そっちの方がはるかに問題だからだ。


「はあ……」


 思わずため息が出てしまうほどに、気が重い。

 一番に思い浮かぶのは、雇い主のゴードンの顔だ。


 リーナに誘われて、岩と苔のダンジョンに潜った時には、日暮れまでには帰るつもりだった。

 しかし、トラップで閉じ込められ、その後たった一人で最奥の神殿に転移したりと、一体何日経ったのか想像もつかない。

 今が、予想の最短の翌日の朝ならまだ言い訳も立つんだけど、それ以上の日数がかかっているとしたら、ゴードンの顔色は赤一色。俺の将来は黒一色になる。

 これまで以上に肩身の狭い思いをしながら、下っ端雑用として生きていくことになるだろう。


 次に、冒険者のジョルクさんの顔だ。

 ノービスの力を持ったまま冒険者学校を退学した、俺の監視をしていたジョルクさん。

 いわば刑の執行を待ってもらっていたようなものなんだけど、ダンジョンの一件でそれもどうなるか分からない。

 下手をすれば、ノービスの力を冒険者ギルドに取り上げられることも十分あり得る。

 一生ゴードンの奴隷同然の身になる上に、ノービスの力もなくなる。

 笑うに笑えない予想だった。


 最後に、リーナ達、冒険者学校の元同期の顔だ。

 俺が生きていると知られれば、喜んでくれる奴はきっといるだろう。

 だけどそれ以上に、俺の存在を疎ましく思う奴が圧倒的に多いのはまず間違いない。

 なにせ、冒険者ではない俺一人を置き去りにして、全員がダンジョンを脱出してしまった。

 どんな理由があったとしても、民間人を見捨てた冒険者というのは、非常に外聞が悪い。今後の依頼にも悪影響が出ることだろう。

 下手をすれば、この件を冒険者ギルドが問題視して、何らかの処分を下す可能性だってある。

 少なくとも、冒険者学校で学んだ冒険者ギルドの印象は、そんな感じだった。


 特に気になるのは、レオンだ。

 他の元同期とは違って、あいつは悪意を持って俺を見捨てた。

 その事実が俺の口から語られたりすれば、レオンの冒険者人生はまず間違いなく終了する。

 そうなる前に俺の口を……、レオンならやりかねない。


「……このまま逃げるか?」


 それも一つの手だ。

 ジュートノルで待っているのは、いっそこの森の中で暮らした方がまだマシと思えるくらい、頭の痛い問題ばかりだ。

 それなら、たとえ根無し草の身になったとしても、新天地を求めてジュートノルに別れを告げた方が、よっぽど先の希望があるように思えてくる。


「……でもな」


 もちろん、未練だってある。

 ターシャさんやダンさん、それにジョルクさんとか、俺に優しくしてくれた人もいた。

 そんな人達に行方不明のまま、別れも告げずにジュートノルを去ることに心苦しさがないわけがない。

 だけど、俺の生存を知らせたとして、もし公になれば、俺には確実に追手がかかるし、みんなに迷惑をかけることにもなりかねない。


 ……もうすぐ夜が明ける。

 旅人や狩人が本格的に動き出す時間になれば、目撃されて街に知らされる危険が高まる。


 結局出した結論は、帰還か撤退のどちらでもなく、とりあえず街の近くまで行って様子を窺うという、愚にもつかない妥協案だった。






 そんな迷いが、少しの時間で済んだことが良かったのか悪かったのか。


 最初に異変に知らせてきたのは、嗅覚だった。

 血の匂い、それも人族のものだ。


「っ!?」


 少しは慣れてきた歩みを小走りに変えて、先を急ぐ。

 やがて見えてきたのは、街道から少し離れた平原に倒れている旅人の血に塗れた姿と――


 キチキチキチ


 そこに群がる一匹のアリだった。


 ……もちろん、普通のサイズのアリじゃない。

 人族の半分ほどのサイズはあろうかという、巨大アリだ。


「この、離れろっ!!」


 バガアアアン!!


 気づいた時には、近くに転がっていたこぶし大の石を手のひらですくい上げ、ろくに狙いも定めないままに巨大アリに向けて放っていた。

 衝動的な俺の投石に反応できなかったのか、石は食事中だった巨大アリの胸部に命中、頭と胴と腹、そして六本の足がバラバラに散らばった。


「はあ、はあ……」


 早まる鼓動を何とか抑えつつ倒れている男に近づくが、一目で絶命しているとわかり、一瞬だけ冥福を祈って素通りする。

 本当なら、街に人を呼びに行って遺体を回収したいところなんだけど、急速に首をもたげてきている悪い予感を打ち消す方が先だ。


 そのために、もう一つの遺体――死骸となった巨大アリに近づく。

 巨大でも昆虫なのでまだ可動部分が蠢いているが、体の中心である胸部を破壊したのが功を奏して、直接触らない限りは危険はない。

 それに、触れる必要はない。俺が知りたいのは、この巨大アリの正体だ。


 だが、凶悪な顎を含めた頭部の形状、そして特徴的な腹部の縞模様を確認し、僅かな希望は打ち砕かれた。


「……ソルジャーアント」


 魔物が棲む森からここまで一匹たりとも出くわしてない上に、ジュートノルから出てきたと思われる犠牲者。

 そしてなにより、「一匹いたら百匹は潜んでいると思え」と言われた、冒険者学校の講習での記憶。


 どうやら、生と死の境をさまよいながらもなんとか地上に帰ってきた俺に、神様は更なる試練を与えるつもりのようだ。

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