第3話 黄金の草の刈り取り


 俺が住む街、ジュートノル。


 アドナイ王国の中では中規模の街らしいけど、ジュートノルを離れたことがない俺には街の大きさなんかは分からない。

 まあ、冒険者学校のある大通りには、昼間は絶えず人や馬車が行き交っていて活気があるから、それなりに栄えている街だとは思う。


 そして、俺のホームというべき場所は、同じ大通りの一角に建ち、ジュートノル一番の規模の宿屋として街の人間なら知らない者はいないほど有名だ。


「ただいま帰りました」


「遅いぞテイル!何を道草食っていた!」


 客専用の玄関ではなく、従業員用の裏口に回って中に入ると、まるで俺を待ち構えていたかのように仁王立ちする中年の男の姿があった。


「すいません旦那様。帰りに教官に呼び止められたもので」


「口答えをするな!仕事は待ってはくれんのだぞ!」


 この男の名はゴードン。

 この宿屋「白のたてがみ亭」の主人であり、俺の雇用主だ。

 金色の髪を撫でつけ、金持ちの客を接待するにふさわしい豪華な服を身に付けたその姿は、人気の宿屋の経営者らしい格好だと言える。

 ちなみにゴードンの最近の悩みは、急激に膨張してきたお腹と、反対に絶滅の危機にある頭頂部らしい。


「それよりテイル、あのことに関しては、しっかりと交渉してきたんだろうな?」


「あのこと?」


「バカもん!忘れたとは言わさんぞ!私がわざわざお前のために用立ててやった金貨一枚のことだ!冒険者にならずに途中で辞めるのだ、全額とは言わなくとも、半金くらいは回収できたんだろうな?」


「いえ、教官に聞いたんですけど、規約で決まっているとかで無理でした」


「ふざけるな!教官ごときに拒否されたからすごすごと引き下がっただと?バカも休み休みに言え!本来貴様ごときに主人の私が金を用立ててやる義理など小銅貨一枚ほどもないのだぞ!そもそも――」


「まあまあ旦那様、そのくらいにしてあげたらどうですか。厨房が人手が足りないってぼやいていましたよ」


「ターシャさん」


「タ、ターシャか」


 長い説教になりそうだと軽い覚悟を決めようとしたその時、仲裁の声をかけてくれたのは、俺の先輩で白のたてがみ亭の看板娘のターシャさんだった。


「いやしかしなターシャ、従業員の教育も主の立派な仕事でな……」


「まあまあ。もともとテイルの休みは今日一日という約束でしたし、さっきも言った通り人手が足りないんですから、旦那様が指示を出してくれないとお客様の夕食に間に合いませんよ」


「う、うむ、そういうことなら」


 緑がかった金髪が日光を浴びて、妖精のような可憐さを醸し出すターシャさん。

 その魅力に気圧されたか、さっきまで俺に浴びせていた罵声はどこへやら、毒気を抜かれた感じのゴードンは奥へと引っ込んでいった。


 普段はどの従業員にも厳しいゴードンだが、なぜかターシャさんの言うことだけはよく聞く。

 看板娘として、老若男女どの客からも評判がいいターシャさんの魅力のなせる業だと、従業員の間ではもっぱらの噂なんだが、真実は分からない。


「災難だったね、テイル。どうやら昨日の売り上げの勘定が合わなかったらしくてね、旦那様は朝からご機嫌斜めだったんだよ」


「助かりました、ターシャさん」


「いいのいいの。それにしても、旦那様もひどいわよね。テイルが冒険者学校入学のために用立てた金貨一枚は、元々は旦那様が預かっているテイルの給金から差し引いたお金なのにね」


「いえ、旦那様からお借りしたのは本当のことですから」


「テイル、そんな弱気なことを言っていると、これまでの給金を旦那様に誤魔化されちゃうわよ。よし、今度あたしが一緒に直談判してあげる!じゃないと、あの旦那様のことだから給金どころか、借金があるとか言い出しかねないわ!」


「あ、あの、そこまでしてもらわなくてもいいですから」


 むん、と腕まくりをしながら奥へ行こうとするターシャを何とかなだめていると、


「おいターシャ、本館にミラルド様ご一家が到着された。悪いが、急いで向かってくれ」


「あ、はい、ただいま」


 さっきとは打って変わって、宿屋の主人の貫禄で命じたゴードン。

 さすがに客とあってはと、腕まくりしていた袖を戻したターシャさんは、上級の客を迎えるための楚々とした歩き方で本館に向かおうと数歩進んだかと思うと、俺の方へ向き直った。


「あ、そうそう、今度、冒険者学校での話を聞かせてね。別に恩に着せるわけじゃないけれど、入学の時に旦那様に口添えした報酬と思えば安い物でしょ」


 そう言って、パチッとウインクをして去って行ったターシャさん。

 他の女性だとわざとらしく見える仕草も、ターシャさんにかかれば魅力をさらに引き立てるアクセントになるのは不思議でしょうがない。

 これも、持って生まれた才能というものなのか。俺と違って。


「おい、テイル!そこで何をぼさっとしている!手が空いているのならとっとと厨房を手伝わんか!」


「旦那様、今日は休暇をもらっているはずですが?」


 まだやり残したこともあるので本当はこう言いたいが、ターシャさんという後ろ盾を失った俺がそんな生意気を言おうものなら、たちまち預けてある給金から謂れのない罰金が引かれたあげくに、今日の夕食が俺の分だけ消え失せることになる。

 少なくとも、年季奉公が切れるその日までゴードンが俺の身元保証人であるという事実が揺るがないので、「かしこまりました」とだけ返事をする。


 だが、ただここで引き下がるだけというのも面白くない。


「さっさと仕事着に着替えて厨房に入れ!」と言ったゴードンが背を向けたのを確認した俺は、魔力を込めた言葉をささやくように唱えた。


『サイクロン』


 術者にだけ緑色に光って見える、小さな不可視の風の刃が直進。

 前方にいたゴードンの体に命中――する寸前で急激に上昇し、彼が命の次に大事にしている頭上の金色の雑草を数本、音もなく刈り取って空気に溶けた。


「ん?」


 風の刃の残滓を感じたんだろう、ゴードンが何もない辺りを見回した後、背後の床に落ちた髪の毛を見つけることもなく歩いていった。


 冒険者学校で何度も練習したとはいえ、初めての実戦で成功した興奮を、小さなガッツポーズだけで何とか抑えながら、俺の寝床がある、白のたてがみ亭別館の屋根裏部屋に続く階段に足を掛けた。


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