Remember-02 空っぽ二人/拾ったり拾われたり
『君も、記憶が無いのか……?』
ガラスの中で、女の子は戸惑いの声を口にして俺を見つめる。思っていたのとは少し違う反応だったが、でも落ち込んだ様子からは立ち直っているので結果オーライだと信じてる。
……実を言うと、「え、本当に!? 私たち似たもの同士ね!」的なこう、明るい反応を期待していたんだけどなぁ。
「いや、記憶が無いって言っても全部忘れた訳じゃない。言葉は分かる。あれが扉でこれがガラスとか、そういう単語も分かってる」
『それに関しては私も分かっているんだが……』
「それもそうか……あ、それに名前だって覚えてる」
記憶が無いのは、自分が今までどんな事をしてきたのかという部分。つまり、体験してきたことがスッポリと抜け落ちてしまっているだけ。
しかし、それ以外は多分覚えている。ひょっとすると忘れていることに気がついていないだけで、本当はもっと色々忘れているのかもしれないが、今はそんなことを気にしても仕方ない。
抜け落ちた部分はきっと、ひょんなことから思い出せると思う。確証も根拠もないけれど。
『名前を覚えているのか?』
「ん? ああ。絶対にこれが俺の名前だーって断言は出来ないんだけど」
記憶には残っているが本当に自分の名前なのかと聞かれると、少し自信がない。でも記憶にある名前はこれだけだから、多分これが自分の名前。
「
『大丈夫なのか? 目線を逸らせて、何だが自信なさげだが』
「えっと、まあ、うん」
『…………』
ガラスの中からジットリした疑いの視線を向けられる。
……やめてくれ、ただでさえ湿っぽい場所なのに余計ジトジトしてきた。名前は単語として憶えていても、今までの自分のことを何も思い出せないから、これが本当に自分の名前という確証がないのだ。
『でも、キリュウ? ユウマ? どっちが名前……いや、名前が二つあるのか?』
「ゑっ、いや……どうなんだろう。確かに言われてみたら……」
記憶に残ってた名前をそのまま口にしたので疑問に思いもしなかったが、言われてみれば名前っぽい単語が二つある。
“桐生”と“悠真”……どっちだ? それとも俺には名前が二つもあるのか?
「……どっちだろう。なあ、桐生と悠真、どっちが呼びやすい?」
『呼びやすいかだって? うーん……キリュウ、きりゅー。ユウマ、ゆーま……ユウマ、かな。そっちの方が呼びやすい』
「じゃあ、俺の名前はユウマだ。そう呼んでくれ」
『そ、そんな安易に決めて良いのか』
うん、簡単で分かりやすい。良い名前だ。何だか心の不安感も少しだけ薄れた気がする。名前を持つことってやっぱり大切なことだ。
それに“桐生 悠真”という単語が自分の名前なら、自分がどう使おうと勝手に手を加えようと問題ないだろう。自分の物なのだし、勝手に使っても誰かに怒られることはない。
『じゃあ、とりあえずよろしく、ユウマ。私も名乗りたいところだが……』
「えっと、君は名前を思い出せないのか?」
『そう、なんだ……私は本当に何も覚えていなくて……』
「本当に何も? その、聞きそびれたけどガラスの中に居ることについても分からない?」
『…………うん』
そう申し訳なさそうに頷くと、女の子はまたしても頭を抱えて唸り始めた。俺とは違って自分自身のことを完全に忘れているらしく、思い出そうと頑張っている様子だが一筋縄ではいかなそうだ。
俺としてもできれば名前を思い出すか、あるいは仮の名前を持って欲しい所。彼女のことを呼ぶ時に“君”とか“彼女”とか、どうしても曖昧な呼び方をすることになってしまう。
「まあ……ゆっくり思い出せば良いんじゃないかな。焦る気持ちは分かるけど、焦ったら逆に思い出せないんじゃないか?」
『……ユウマ、待ってくれ』
「いや、だからそんな無理しなくても……」
『違う、違うんだ』
「……違う?」
ガラスの中の女の子は、頭を抱えたままピクリとも動かない。まるで周囲に警戒しているような、まるで怯えているような。
失礼ながらも、彼女を見てか弱い小動物を思い浮かべてしまったり。でも笑い飛ばせるような雰囲気ではない。
「どうかしたのか? もしかして体調が悪いのか……?」
『ユウマ、外に何かが……何かを感じる。空気が小刻みに震えるような……飛来物の音が……』
「? 急に何を言って――」
――いるんだ? と、最後まで尋ねる暇もなかった。
俺のほぼ真横の壁から木材が叩き割られる轟音や破片と共に、得体の知れない“何か”が雪崩れ込んだ。
「ッ!? 壁が……!?」
壁の木材が崩れる乾いた音と共に飛び散る砂埃や木の破片。巻き込まれたテーブルは宙で回転しながらバラバラに砕けた。
「――ガァアアアアッ――!」
……ほんの一瞬。おぞましい唸り声を発しながら、砂煙と共に黒い丸太のような残像が壁を突き破って家の中に飛び込み、そのまま野外へ同じく壁を突き抜けていったような――
『なんだ今の……ここに居たら駄目だ! 早く逃げるんだ!』
「ッ、でも君が!」
『早く! 今一番危ないのは狙われている君だ!』
「クソッ……! 待ってろ、よく分からないが撒いたらまた戻ってくる!」
俺は扉を殴り開き、後ろ髪を引かれながらも逃げ出した。
迷いと後悔が逃げ足を引っ張る。それを“絶対に戻る”という決意で振り払う。
得体の知れない存在に追いかけられるのは嫌だが、彼女の安全のために襲撃者の気を引きたいという二つの気持ちが、頭の中でぐちゃぐちゃと混ざっていく。
本当にこれで良かったのかとか、もしかしたらあの子が襲われているかもしれないとか。そういう一切の不安を振り払って、俺は彼女の言葉に従った。
(逃げ出せたのは良いけどッ、霧のせいでどこを目指して逃げればいいのか分からない……!)
霧のせいで熱いのか冷たいのか分からない喉で息継ぎをしながら、あの怪物に追いつかれないように全速力で走って、走って、走り抜けて――
『――おい! 大丈夫か!?』
「おわぁッ!? えっ、な、えっと、何? 何で声、えっ何こわ」
『なんか本気で困惑してる反応が……えっと、ここはどこだ……ポケットだ! 多分だが上着のポケットの中!』
パシ、パシ、と上着のポケットを上から両手で叩くように探る。右ポケットの中からいつの間にか、あの家からちょろまかしていたガラス板が一枚出てきた。
あー……このガラスを拾い上げて、少女の寝息が聞こえて、それに注意が逸れてそのままポケットに――って感じかぁ。
……いや、そんなことよりも。
透明なガラスの中。そんな片手サイズのガラスの中に、クッキリと、さっきの少女の姿が手のひらサイズに映し出されていた。
「い、いつの間にポケットに……!? いやそもそもどうやって?」
『私にも分からないけど、君がこうしてガラスを持っていたお陰らしい』
「仕組みがぜんっぜんわからん……あッ! さっきの怪物は!?」
誰の手も借りず我に返ったのは褒められるべきだ。
……足音、無し。
唸る声、無し。
得体の知れない存在から追われてると思い込んでいるだけで、実は何も――と、気が緩んだ直後。
「――――ガァアアアアアア!」
「……ッ!」
頭の真後ろからあの震えるように響く鳴き声が
目の前には恐ろしく鋭い目と、テカテカと濡れている鋭く攻撃的な牙が視界いっぱいに――それも、喰らい付こうと牙で囲まれた口を開いて――生臭さを嗅ぎ取れそうな距離にまで迫っていた。
「うわ――ッ!?」
……驚いて無理に後ろを振り返ったからだろう。俺は体はバランスを崩して尻から地面に転んでしまう――が、どうやらそれが幸いしたらしい。
俺の頭に狙いを定めていた岩のような異形は、ガチン、と牙を噛み合わせる音を立てて頭上を飛び越し、俺の進行方向の先へ土煙を立てて滑り込んだ。
『なんだあの生き物は……』
「……トカゲ?」
俺とガラスの少女は異形の姿を見て、思わずそれにそっくりな生き物の名前を口にする。
緑や黒の鱗がびっしりと生えた丸太のように太い四本足。同じく鱗に包まれた、先端になればなるほど細くなっている鞭のように揺れる尻尾。恐竜みたいに無駄のない顔の骨格はトカゲのように思えた。
『
「あの後ろ足で跳んできたのか……」
……もっとも、俺の記憶にあるトカゲというのは、岩盤のような岩が鎧のように張り付いていたり、全長がさっきの廃墟で見たテーブルと同じ大きさではなかった筈だし、後ろ足がバッタのように飛び跳ねるのに適したものではない筈だが。
「グルルルルゥ……ガウウウウッ!!」
「ッ、マズイ」
『何か武器になる物は持ってないのか!? 護身の道具とか!』
「…………いや、流石に持ってない」
仮に持っていたとしても、ポケットサイズの武器であの怪物から身を守れるとは思えない。なら、何か武器として扱える物は周囲に落ちてないだろうか。
出来ればあのトカゲを一撃で叩き潰せるような――例えば、大きな鈍器が欲しい。しかし、そんなものは当然この場に落ちていない。さっきの廃墟に戻れば一つぐらいはありそうだが、そんな引き返す余裕はもうないだろう。
この場で落ちているのは色のない石ころとか少し大きめな岩とか、それぐらい。
(……こんなのでどうするんだ)
石ころは論外。こいつをどこに何をすればあの怪物を倒せるんだ?
それなら岩一択なのに違いないが、あのトカゲは鱗に覆われて更に岩盤のような分厚い鎧まで身に着けているのだ。殴って割れるのは間違いなくこっちの岩だろう。
……それじゃあ、この岩をあのトカゲの大口に突っ込むとか? あの牙はこんな物を容易く噛み砕くに違いない。
ついでに、その噛み砕かれる岩のイメージが自分の頭にすり替わって――うわっ、何を縁起でもない事を考えてるんだ俺は! こんなの却下だ却下ッ!
「グルルゥゥゥゥ……」
鳴き声、というよりは喉に空気が通る音が俺を威圧する。
ヌメリのある牙を見せて唸るそれは、殺人鬼が目の前でチェーンソーを威圧的に鳴らすような、そんな恐怖心を植え付けてくる。
(どうすれば……助かるんだ……?)
地面に縫い付けられたみたいに足が動かない。脳裏に浮かぶのは腕か頭をあの怪物に喰われている自分のイメージだった。
助からない。俺にはこの状況を切り抜ける方法も道具もない。
きっと自分はこのまま死ぬ。見知らぬ霧の中を彷徨ったことも、彼女を見つけたことも、ここまで必死に逃げたことも。みんなみんな、今までやってきた行動は全部“無意味”になるだろう。
「…………ッ」
……そんなことは嫌だ。必死にやってきたことが全部無意味に終わるだなんて、そんなことはお断りだ。
そんなことを言っている状況じゃないのは分かっているが、それでも自分が死ぬことよりも自分に意味が無くなることの方がずっと嫌なことに思えた。
「それだけは死んでもお断りだ……意味が無いだなんて、俺は死んでも認めない……認めたくない……」
今まで達観したように希薄だった感情が、初めて力強く灯った。どうやらこれだけは自分にとって譲れないものだったらしい。
それならせめて、死ぬ前にできることをやってから死なないと。例えば、この少女だけは傷付かないように守り抜くとか。俺が死んでも誰かが代わりに彼女を見つけ出して受け継いでくれたら、こんな俺にもきっと意味があるように思えた。
そんな覚悟を決めている一方、じわじわと距離を詰めてくるトカゲの怪物は、今にも飛びついて俺の顔を噛み砕こうと大口を開けて――――
「――――横に避けて!」
突然、背後からそんな声が投げかけられる。
その声は恐怖で空っぽだった頭に響いて、情けない思考を頭の中から吹き飛ばした。
「……!」
頭の隅々に熱が戻る。それから何をすれば良いのかを初めから理解していたみたいに、俺は聞こえた声へ忠実に従った。受け身も忘れて身体を投げ出す。
――それと同時に、トカゲの様な怪物は一瞬で火だるまと化した。
冷たい空気の中、熱風が目に当たって何度も瞬きをしてしまう。その微かな痛みが、理解できなくともこの突然の出来事が現実なのだと訴えかけてくる。
「な、なんだ今のは……一体何が起こったんだ……?」
『ただの火じゃない、まるで燃料を浴びせたみたいに……今のは一体どこからだ!?』
怪物の苦しむ咆哮を聞きながら、俺は火だるまになっているその姿をポカンと見つめてしまった。
一体何が起きたんだ……? いや、そもそも今の声は――――
「――――ほら! 止まってないでついて来て!」
振り返ったその時、ついさっき聞いたばかりの凜とした声が耳元に聞こえて、それとほぼ同時に俺の左手は何者かに強く握られていた。
声主はどうやら凄い速度で駆け寄って来てすぐ近くで無理矢理減速したらしい。咄嗟に振り返ろうとしたが、凄まじい勢いで砂埃を浴びせられて何者か見ることはできなかった。
「どうせまだ殺せてないんだから、逃げなきゃ喰われるわよ!」
「え――う、うわぁあ!?」
疑問を口にする暇もなく、俺の左手はグングンと体を置き去りにしかねない速度で引かれて行く。俺も最初は足元がもたついたが、すぐに手を引かれる速度に追いつくことができた。
『うわぁっ!? ゆ、ユウマ、大丈夫なのか!?』
「っと、悪い! 俺は大丈夫だが――」
走りながら振り回していた右手を胸元に持ってくると、さっきまで振り回されていたガラスの中の少女が少し目を回しながら心配してくれた。
俺の方は問題ないし、怪我の一つもない。どちらかと言えば目を回している彼女の方が大丈夫なのだろうか?
そして、今こうして俺の手を引いている人物の正体を見ようと思ったが、後ろ姿な上に霧が濃くてはっきりと見えない。
手の引かれ方からして身長は小さい。それとさっきからなびいている髪の長さからして、恐らく女性……いや、少女?
『ッ! 背後について来てる! 怪物に追いつかれるぞ!』
「チッ……! そういうところ、妙にしつこい――!」
背後を見る余裕のない俺に変わって、ガラスの中の少女が注意を呼びかける。
それを聞いた少女は小さく舌を打って、俺と繋いでいる手とは反対の手を自身の首元に近づけ、まるで何かを切り裂くように――
(!? なんだこの光……!?)
突然、俺の手を引く少女の体から光が滲み出した。その燐光はまるで炎のように全身へ広がり、少女の体を包み込んでしまう。
その光景を見て慌てて手を放しそうになったが、それ以上に少女は力強く手を握りしめてくるので、離そうにも離せなかった。
「…………ッ」
……不意に、心臓を直接殴られたみたいな重い衝撃を感じた。
何故だろう、何故なのか分からないけれど全身の肌がビリビリするような奇妙な感覚と、見覚えのない既視感が――
「
燐光に包まれたその女性は、力強い言葉と共に人差し指を使って何かを宙に描き、唱えるようにまた言葉を発した。
その軌跡は光の線になって残留したかと思うと集まって一つの光球になり、ついさっき飛んで来た光のようにトカゲの怪物へと勢い良く飛来する――!
「――――クガァアアアア!?」
光の物体がまるで矢の様にトカゲの怪物に命中すると、信じられない事にトカゲの怪物は何かの冗談みたいに派手に転倒した。
走っても飛びかかってもバランスを崩すことがなかったあの怪物が、何もないところで自分の足につまづいて派手に転がる姿には目を疑った。
「なんだ、あれは……」
「今のうち! この先に廃墟があるからそこに逃げるわよ!」
「あ――ちょっちょっ、急に緩急付けると転びそうになるんだが!?」
少女の声に答えながら振り返ると、さっきまで体を包んでいた燐光はすっかりと消えていた。体勢を崩したトカゲの怪物を置き去りにして、さっきと変わらない速さで俺の手を引いて駆けていく。
『ユウマ、この人……いや、この
「――――」
……ガラスの少女に返事をすることなく、俺は手を引く少女にただついていく。情けない話だが、俺は呆気を取られていた。
それはさっきのトカゲの怪物が派手に転倒した事ではなくて、先程俺の手を引く少女が振り返った時に見えた顔。その顔が、俺が予想していたよりもずっと幼いものだったのだから――――
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