Remember-01 空っぽ二人/ボーイ・ミーツ・グラス

――何か、夢を見ていた気がする。色々と曖昧で、あまり良い気分のしない夢を。


 まるで脳を酒にでも浸されたみたいな、そんなぼんやりとした意識の中。その中で感じていたのは、体が石みたいに重かったこと。白い光で目が痛かったこと。

 ……それと、今まで大切にしていた物を失くしてしまったような、そんな喪失感だった。


「……! ッ、ゲホッ……」


 熱を帯びた息を吐き出すと、目の前で砂や軽石が音を立てずに転がった。

 少しの間、その砂埃をぼんやりと眺めていたが間もなく我に返り、自分が今置かれている状況を頭がゆっくりと把握し始める。


(……此処は、一体)


 どうやら、俺は地面で寝ていた――というよりは倒れていたらしい。

 だけど、いつから倒れていたのか、そもそもどうして倒れていたのか。何もかもが分からない。

 分かっていることは“自分はいつの間にかこの場所で倒れていた”ということだけ。


(痛ッ、体が……なんでこんな……)


 背中や腕の骨をミシミシと軋ませて、首を手で押さえながら立ち上がる。

――一瞬。首の表面に鋭い痛みを感じた気がしたけれど、血も出てないし傷一つ無かった。どうやら怪我をして行き倒れていた訳ではなさそうだ。


 ……それで、ここは一体どこなのだろうか。

 周囲を見回してみると、色の無い――なにもかも綺麗さっぱりに漂白してしまったような――不気味な荒れ地が広がっている。

 まるで雲の中に居るみたいに濃い霧がゆっくりと周囲を流れているせいで、遠くの様子は全く分からない。ついでにその霧のせいで、手や顔みたいな素肌が晒されている部分が冷たく痛い。


(本当に何処だ……?)


 これは現実なのか? 何となく空を見上げると、真っ白な空に黒い太陽のようなものが昇っていて、尚のこと現実だと思えない。

 まるで悪い夢のようだ……が、頬をつねるよりも前に、手や首の冷覚と痛覚が現実だと訴えかけてくる。


(寒い……何処か霧をやり過ごせる場所を探さないと……)


 気分はまるで遭難者だ。仮にこれが現実味のある夢だとしても、このまま責め苦を受け続けるのは嫌なので何処か身を隠せる場所を探して歩き始める。


(……さっきまで倒れていたのに、体が不思議と軽い)


 軽すぎてほんの少し浮いている錯覚を覚えるのは少し奇妙だったが、今は動きやすいことが有難い。

 あまりに軽いから、うっかり幽体離脱して体を置いてけぼりにしてないか振り返って確認してしまう程だ。疑問は少し残るが、とにかく今は早くこの場から移動するべきだろう。


 しばらくの宛てもなく歩いていると、人工物のような影が現れた。長方形と三角形が組み合わさったような影。

 それが木造の小屋だと分かったのは、その建造物に手が届く距離にまで近づいてからだった。どうやら思っていたよりも霧が濃いらしい。


(助かった。人の気配は全くしないけど……とりあえず今は避難させてもらうか)


 何の変哲もない木製の民家を前にして安堵する。本当に変哲もない建物だが、あえて特徴を言えば農村とかで見当たりそうな、そんな飾り気のなさを感じられた。

 玄関と思われる扉に付けられた鉄輪を引いてみるとあっさりと開いてくれた。錆び付いているが、少なくとも戸としての役割は果たしてくれている。


(察しはついていたけど、これは)


 室内にはアンティークなテーブルとか妙に手の込んだ装飾品の多い椅子とか、ガラス張りの食器棚なんかが並んでいる。少なくとも誰かがここに住んでことが分かる。

 ……そのどれもが例外なく傷み、壊れてさえいなければ。そしてこの中も真っ白でなければ、ここの家主が帰ってくるのを待ちながら一休みすることができたのだが。


(この部屋も真っ白だ……本当にどうなってるんだ……?)


 自分の肉体、服装以外の物全てに色が無いことに強い違和感と嫌悪感がつきまとう。まるで真っ白な世界の中、色を持つ自分は異端者として拒まれている様な、そんな不快感。

 出来ればこの白い世界に長居はしなくない。だけど、またあの霧の中を歩き回るのだと考えると……あー、本当にどうしたものか――


『…………ぅ』

「え――」


 不意に。自分が吐いたため息に混ざって、小さな何かが聞こえた。耳元で羽虫が飛ぶ程度の音だが、間違いなく聞こえた。


「お、おい。誰か、居るのか」

『すぅ……』


 また聞こえた。今度は確かに息遣いの様な声。人間の声なのか知らない動物の声なのかは分からないが、この家の何処かから聞こえてくる。

 妙な緊張感を感じて足も呼吸も止めてその音を探る。この家の家主なのか、空き家をねぐらにしている動物か。場合によってはまたあの霧の中へ逃げ出す必要がある。


『……すぅ…………ぅ、う……うぅん』

(……! 声、だよな……今のは)


 小さく聞こえる息遣いの中に呻き声の様な声が混ざっていることに気がついて、この声は人間のものに違いないと確信する。

 だけど、この声は一体何処からするのだろうか。俺は慎重に足を二、三歩進めてみると、パキッと乾いた音が靴の下から鳴った。


「……ガラス?」


 粉々になった透明な破片を足で払い退けながら呟く。

 透明で気がつかなかったが、よく見ると他にもガラス片が散らばっている。それに、テーブルの上に置かれているケースの中には、まるで書物みたいに板ガラスが収められていた。


(この家は何か、ガラスを使った工芸品でも作っていたのか……?)


 手のひらサイズの長方形に整えられたガラスをテーブルから拾い上げて色々と考察する。

 ……いや、そんなことよりもあの声の主だ。テーブルから目を背けて、食器棚に目線を向けて――果たして、その答えはとても簡単に見つかった。


「……何だ、これ」


 どうりで人影が見つからない訳だ。声はその食器棚から――いや、正確にはから聞こえていた。

 それに……なんだ、ガラスに反射して見えるテーブルに、誰かが突っ伏している。振り返ってテーブルを直接見てもそこには誰も居ないが、ガラスに反射しているテーブルには確かに誰かが居た。


(女の子がガラスの中に見える……それに、この子には色がある……?)


 色々謎があるけれど、それよりも先に目を引いたのは色の有無。色の無い世界でこの少女の暖色が目に優しい。

 そんな共通点を見つけておいて見て見ぬフリをするなんてことはできない……だけど。


(ガラスの中の世界に居る? それとも現実に居るけど直視だと見えないだけか? 何が何なのやら……)

『すぅ……ん……すぅ……』


 呆気を取られて色々考えてしまう頭を振り回して仕切り直す。今はそんな考察なんてしなくていい。変わった服装で身を包んでいる少女は、未だに寝息を小さく開いた口から漏らしている。

 ついさっきまで濃霧の中を必死に歩いて疲れた自分とは正反対にとても心地良さそうだ。


「……うらやましいな、心地良さそうで」


 あまりに心地良さそうなものだから、呑気な雰囲気が俺にも移ってしまった。

 ぽつりとそんな小言を口にしながら、戸を叩くみたいに食器棚のガラスを指先で叩いて音を鳴らした。それでもなお、ガラスの中の少女は可愛らしく寝息をたてている。


「もしもーし、寝てるところ悪いけど起きてくれ」

『むぅ、うぅ……ん、ん?』


 ガラスの表面に傷つけないように注意しながら、人差し指で小突く。

 ノックが響いたのか、あるいは俺の声が聞こえたのか。ガラスの中の少女は上半身をテーブルから起こすと眠そうに瞼を擦った。どうやら本当に心地よく眠っていたらしく、ガラスの中で少女は呑気にあくびを両手で隠していた。


「おーい、こっちだこっち。聞こえているよな?」

『うぅん、あれ……えっと、君は……』


 俺の声は問題なくガラスの中の世界にも届いているらしい。テーブルと椅子を微動だにさせず起き上がった女の子は、食器棚のそばへのそのそと歩いて来てくれた。

 

「寝ぼけてるところごめん。色々聞きたいことがあるんだ」


 なんでガラスの中に居るのとか、なんでこんなところで寝てたのとか。その辺りも凄く気になる。だけど余計な疑問をグッと飲み下して冷静に尋ねる。

 少し変わっているが、中身は普通の人と変わらない筈だ。ちょっとガラスの中に居るってだけで、彼女自身は普通の女の子だと思う……何だろうなぁ普通って。


 とにかく、俺の分からないことについても答えてくれるかもしれない。だからここで何らかのヘマをして――例えば、変に驚かせたり機嫌を損ねてしまうような――この機会を逃すような真似だけは避けたい。


『いや、待ってくれ。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ待ってくれないか』

「あ、ああ。どうぞ。こっちこそ急に聞いて悪い」


 意気込んでいたところで女の子が両手を上げてストップをかける。

 どうやら女の子は急に尋ねられて驚いているらしい。まあ、それもそうだよな。寝起きに知らない人がいたらそうなるか。俺から目を背けると、女の子は眉間にシワを寄せて目を閉じ、頭を抱えながらブツブツと呟き始めた。

 ……内容は分からない。小声だし、たまに聞こえる内容も断片的で読み取れない。しかし、そんな呟きも間もなくして、最後には一言にまとまったのだった。


『……私は、一体誰なんだ』


 女の子はまるで自分の呟いた言葉に驚いたような顔をしていた。相当焦っているのか、頬には一筋の汗が伝っているのが見える。


『君が私を見つけてくれたのだろう。君が私を起こしてくれたんだろう? もし知っているのなら教えてくれ! 私は……私は誰なんだ!? 私は一体、何者なんだ……!?』

「まさかこっちが質問されるとは……」


 女の子は声を荒げて、ガラスの内側から表面に手を付けて懸命に俺に尋ねてくる。どうやら気が動転しているらしく、ガラスの中にいなければ俺の肩を掴んできそうな勢いだ。


「……ごめん。俺は偶然見つけただけで、何も分からない」

『そう、なのか……ああ、こちらこそすまなかった。自分のことが何も思い出せなくて……それで、慌ててしまった』


 意外にもすぐに落ち着きを取り戻したらしく、女の子は申し訳なさそうな、あるいは残念そうな表情をして落ち着いた声で謝る。

 ……本当に何も分からないので仕方ないのだが、この子の悲しそうな表情を見ているとなんだか期待を裏切ってしまった気がして、申し訳なさで胸がいっぱいになる。


『君はさっき私に何か聞こうとしていたが、そういう訳なんだ……ごめんよ。私はこの通り何も分からないんだ。この色の無い変な場所も、この建物も、私が誰なのかも……だから君の質問に答えられるとは思えない』

「そっか……」


 見た目よりもずっと落ち着いた口調で、女の子はしゅんとした表情をして申し訳なさそうに話す。

 確かに聞きたいことが聞けないのは少し困ったが、そんなことで落ち込まれたりするのはもっと困るというか……


「実を言うとさ、俺もそうなんだ」


 霧で湿った髪の毛を掻いて、彼女が少しでも元気になれば良いなと思って話を切り出す。

 ……実を言うと、彼女に対して決して小さくない親近感を覚えていたりする。思わぬ共通点を見つけたような、そんな感じ。


『何? 俺もって……君も慌てているのか?』

「いや、そっちじゃない。そっちじゃなくて――」


 自分でも気がつかないうちに逸らしてしまっていた視線を少女に向け直す。

 ……フワフワとした夕暮れのような色の髪。整った顔つきは不安のためなのか、今は暗い印象を覚える。

 そんな彼女を見て、ほんのちょっとだけでもこの子の不安を和らげることができれば良いな、なんて呑気なことを考えて、


「俺も、自分が今まで何をしていたのか、記憶が無いんだ」


 できるだけ人の良さそうな表情を浮かべて、「奇遇だなぁ」なんて呑気な一言を付け加えて少女に告白した。


 ……さて、この場にいる二人とも現状も、自分自身が何者なのかも理解できていないこの状況。

 これから一体、俺は……いや、俺たちはどうすれば良いのやら――

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