【A視点】ルーキーポリス・ホリデー(後編)

 続・SideA


『ご乗車、ありがとうございまーす』

 目的の駅へと着いて、ホームへと降り立つ。


 雨こそ降っていないものの、空は白く濁っている。予報通りだ。

 分厚い雲に蓋をされ、太陽が遮られた天から吹き付ける風の涼しさは6月とは思えない。


 にも関わらず車内は冷房が効きすぎていたため、十分に冷やされた身にはまだぬるいと感じてしまう。


 改札を過ぎたところで、彼女のLINEにメッセージを送った。

 いま駅についたところと。彼女からはお茶用意して待ってるわー、と返ってきた。


 待ち合わせであれば駅で会うほうが効率がいいのだろうが、わざわざ自宅に直接赴くことを指定した。安全性という名の、過保護な視点から。


 彼女は綺麗な方だ。

 文頭に『とびきり』『たいへん』といった副詞を真顔でつけてしまうほどには。


 ゆえに、他人の視線が行き交う場所に極力単独では待たせたくない。

 私が駅前で何時間突っ立ってようが声をかけるのは警察くらいのものだが、彼女の場合は比較にならない。


『じろじろ見られて鬱陶しい』といった美人の悩みが自意識過剰でもなんでもないことを、十分すぎるほど隣で学ばされてきた。


 面倒な女と思われていないか、それだけが気がかりである。



 彼女の住むアパートは駅からさほど離れていない。線路沿いにまっすぐ歩いていけば、似たような集合住宅がいくつも見えてくる。


 狭い路地を抜けると開けた通りに出て、ベーシックな色合いの二階建てアパートが見えてきた。

 外壁の塗装は真新しく、築年数を感じさせない外観だ。


 傍の並木は葉桜へと移ろぎ、柵に絡まったつるからは紫色の大きな花がいくつも咲いている。

 角張った特長的な花びらから、これはクレマチスだろうか。



「いらっしゃい」

 インターホンを押すと、すぐに鍵が開いた。爽やかな香りとともに、久方ぶりの恋人に出迎えられる。


「あ……」

 久しぶり、そう言おうとしたのに。

 夏服に着替えた彼女に思考が奪われて、当たり前の台詞が喉につかえてしまう。


「どったん?」

「え、っと、その、格好」


 いやらしいものを目の前にしたような言い方になってしまった。露出はほとんどないのに。


 彼女が身にまとっていたのはノースリーブのニットトップスと、足首まで広がるハイウエストのフレアスカート。

 結い上げてあらわになった涼しい首元が、夏らしく爽やかな印象を際立たさせている。


 飾らないシンプルな生地でも、抜群のスタイルと器量を併せ持つ人が着れば絵になってしまうのだから。つくづく美人というのは一種の才能だと思う。


「ああこれ? おろしたんだ。似合う?」

「とて、とても」

「やったぜ」


 野球ボールでも振りかぶるようにガッツポーズを終えた彼女が、『髪切った?』と自身の首元を指差した。

 女子は髪を短くすることが規則となっているため、その説明も加えて頷く。


「伸ばせないんだね」

「逮捕術の訓練時とか、長いと絡まるだろうし」

「なる、向こうでも柔道やるんだっけ」


 一瞬誰だかわかんなかったよ、と彼女が顔を近づけた。

 私の顔と胸から下に目線を動かして、ほうほうと頭が上下に揺れる。

 思わず顔を覆った。


「……今、お見苦しい状態でして」

 彼女の家に立ち寄ったのは、置いていった化粧道具を使いたかったこともある。


 校内なら仕方ないと割り切れるものの、すっぴんで表を歩き回るわけにはいかない。

 夏だというのにマスクが恋しくなった。思い切って買えばよかったかもしれない。


「ごめん。スーツ姿かっこよかったから、つい」

 さらっと聞き返したくなる台詞を吐いて、どうぞあがれと彼女が内側に手のひらを向ける。

 話したいことはいろいろあったが、まずは顔面工事を整えてからだ。


 靴を脱ぎ、玄関マットへ立ったところで彼女が控えめに肩を叩いた。


「これだけはおねだりしてもいいかい」


 進路を断つように、彼女が両腕をいっぱいに広げた。

 意図の察しはすぐにつく。

 大学時代に互いの家を訪れた際にやっていた、手土産代わりの挨拶だ。


「もちろん」


 懐かしさと、愛しさがこみ上げて。

 衝動の赴くままに、彼女の腕の中へと距離を詰める。

 すぐさま上半身が強く密着して、衣類の真新しい匂いが濃くなった。

 おろしたてだけあって、頬に受ける肌触りもなめらかだ。


 薄い布越しに、人の柔らかさと温かさが伝わってくる。

 じわじわと重なった端から広がって、脳から一切の雑念が吹き飛ばされていく。

 代わりに埋まる感情は、とめどなく湧き上がる多幸感だ。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 一時的な訪問であっても、かける言葉は変わらない。

 彼女の住む場所が、今は私の帰る家なのだから。


 数ヶ月ぶりの空白を埋めるように、しばし二人で抱擁を交わす。

 梅雨の蒸し暑さも遠い電車の走行音も肉体から離れて、彼女から受ける五感のみが取り残された。


 御姿、香り、体温、鼓動。

 狂おしいほどに焦がれたすべてが今、すぐ傍にある。


「よく頑張っているね」

 至上の幸せを噛みしめる最中、労る言葉が静かに降り注ぐ。

 背中へと触れていた指は、いつの間にか頭上へと下りていた。


「つらいこと、苦しいこと、たくさんあったんだろうね」

「うん」

「たぶん、もう辞めちゃった人もいるよね」

「……うん」

「すごいよ、あんたは。えらい。とってもえらい」


 台詞の内容は至って易しく、子供にかけても通用するような言葉。

 多くを語らない声だからこそ、ストレートな優しさとなって乾いた心に潤いを与えていく。


 社会の荒波に揉まれなくてはならない。

 大人を演じ続けてふりが上手くならなければならない。

 愛の鞭だと言い聞かせて耐えていた日々に、ようやく訪れた安らぎの時間はあまりにも甘すぎる飴玉だ。


 どこまでも受け入れる慈悲深さに、塗り固めた仮面はあっけなく溶解していく。

 単純に言えば私は涙ぐみかけていた。恋人を汚してはなるまいと、必死で決壊をせき止める。


「今日は、いっぱい楽しもうね」

「ああ」


 短く目的を交わして、まだ抱擁の姿勢はほどかずに。

 足がしびれて感覚がなくなってくるまで、私達は玄関先で抱き合っていた。



 淹れたてのお茶を頂き、丹念に化粧を施したところで外へと向かう。


 相変わらずの冴えない曇り空であったが、その分気温は控えめで過ごしやすい。

 流れる風も涼しく、歩き回ることに向いている気候だ。休日も相まって、それなりに人の姿も見かける。


 久しぶりとなるデート先は、駅のターミナルビル。

 昼食と、ある贈り物を兼ねて。


 並んで談笑しつつ、穏やかな散歩を満喫するつもりだった。

 駅が近づくにつれて、彼女との会話が耳を滑っていく己がいた。


「……悪い、もう一度」

「だからー、部署にいた全員の腹筋を破壊した話。社長が”今日はもう会社には戻らない”って伝えて、退社した直後に社長宛の電話がかかってきてね。取った同期が”社長は本日帰らぬ人となりました”なんてぶっこいたもんだから、青ざめながらみんな吹き出してさ」


 思い出し笑いがぶり返したのか、喋ってる途中に説明は笑声に遮られた。


 口を押さえて必死に吹き出すのをこらえている動作も、彼女がすれば様になる。

 喜怒哀楽、どんな表情に移り変わってもこの人はまず『美しい』が前提にあるのだ。


 だからこそ、なのか。さっきから行き交う人のほとんどの視線が隣に注がれている気がしてならない。


 気のせいではない。ときにはまじまじと、ときにはあの子超かわいいー、と称賛の小声を添えて。

 見えてしまう。聞こえてしまう。有象無象の注目を鋭敏に感じ取ってしまう。

 遠距離恋愛中の今は、特に。


 そして、そのたびに。

 これは自意識過剰の範囲だろうが、”美人が隣にいると大変だねえ”と憐憫と嘲笑の目を向けられている気がしてならないのだ。


 いくら塗りたくってごまかそうが、持って生まれた天然美人には敵わない。それは幼少期から嫌というほど味わっている。


 付き合ってからはさんざん己を蝕んだ劣等感が薄れたと思っていたのに、今度は独占欲が顔を出すようになってきた。


 自分の恋人はこんなにも魅力的なのだと、数多の視線を浴びることを誇りに思う。

 だけど多くの注目を集めるということは、それだけ知らず知らずのうちに射止められた人もいるということだ。


 これが彼氏であれば女性のみが警戒対象となるが、同性であれば男女両方に気を張らなくてはならない。


 気づけば会話のキャッチボールも忘れて、一番意識を向けるべき恋人の声を聞き流していた。


「おーい、聞いてたかー」

「……ごめん」


 目の前で手を振られて、やっと思考の渦から意識が這い出していく。

 最低だ。

 くだらない嫉妬に心乱されて、せっかくのデートをおろそかにするなど。


 上の空にもほどがある態度をさすがに不審に思ったのか、『なんかあった?』と彼女が訝しげな目で私を見上げる。


「気になって、しまって」

「なにが?」

「とても見られているから」


 割り切れない己の弱さを恥じ、辿々しく声に出す。

 彼女はそんなこと? とでも言いたげに軽くふーんと流すと、絡めていた指を離した。


「な」

 腕へと彼女の手が回されて、同時に柔らかい感触を覚える。


 むき出しの肩と、引き締まった腕の白さがまぶしい。

 脇の下あたりに指が絡んで、押し当てられた弾力感がいっそう強くなる。


 彼女は私の腕を組んでいた。

 ダイレクトに感じ取ってしまう胸部の感触に、一気に血流が上昇していく。


「も、もっと目立つだろう、それ」

「見せつけてやればいいじゃん。最初の頃、あんたそう言ったでしょ」


 言った、とは思うが。あれは指を絡める範囲だったはず。


 街中で堂々と腕を組まれ、胸を押し当てられても平然としていられる免疫など持ち合わせているわけがない。

 目的地に着く前にこちらが羞恥で蒸発してしまいそうだ。


「胸を張りなさい。君はあたしが選んだ人なんだから」


 私の狼狽ぶりにも臆することなく、彼女は組んだ二の腕に頬を擦り寄せる。

 満面の笑みをたたえてこちらを上目遣いで見つめるものだから、火照る脳髄に加え動悸も追加された。


 もはや生殺与奪はこの人に握られているといっても過言ではない。

 心臓を鷲掴みにされた身であるのだからその通りか。

 客観的に見た私は、そうとう気色悪い面を晒しているに違いない。


「…………悪い、嬉しくはあるのだが恥ずかしい」

 人の目を気にしながら生きてきた身としては、そうそう気にせず生きるという価値観に切り替えることはまだできない。


 仲のいい女友達を超えたスキンシップに察した人も現れたのか、いくらか彼女への注目は逸れた気がする。

 ただし代わりに、私達に向ける好奇の目が増えたが。


「いいんだよ、恥ずかしくて。それが正常な反応だしね」

 常日頃から見られているであろう彼女としては、もう他人の視線はカトンボがうろついているくらいにしか思わなくなってしまったらしい。


「好きな人しか見えないってのも、それはそれでやばいから」

「いや、周囲にびくびくして相手までないがしろにしてしまうよりはずっといいよ」


 恋人と、それ以外で完璧に分断している。

 愛にためらいがない真っ直ぐな彼女は、潔く思う。

 それはすべて、内面からあふれる自信の現れだ。


 私ももう少し、胸を張り自信を持つべきなのだろう。

 今日はその内向的な一面から脱却するべく、恋人らしく振る舞うと決めたのだ。



 目的の駅ビルへと到着し、案内板を頼りにエスカレーターを上っていく。


 向かった店は、ブライダルリング専門店。

 彼女は雑貨店に売ってるような安物でいいと言ってくれたが、そんな粗末な物を贈るわけにはいかない。


「あ、ここって宝石ついてないやつも売ってるんだ」

 桁が違う、手頃な値札がついた指輪のコーナーを眺めて彼女が安堵の息を漏らす。


 見た目こそ高価な石付きの指輪と遜色ない出来栄えなものの、材質で費用を抑えているらしい。

 高すぎて手が出ないという人のために、数万で買える見栄えがいい商品も揃えているのだとか。


「あたしも出すよ」

「申し訳ないが、アクセサリーのたぐいは禁止されていて」

「じゃなくて、プレゼント。こっちも働いてる身なんだし、買ってもらった指輪じゃなくて二人で選んで出し合った指輪、のほうがいいかなって」


 いきなり(サイズ確認も兼ねて)指輪を贈るといった提案に引かなかったことにほっとする。


 事の発端は先月交わした通話による。

 飲み会中、彼女は別部署の先輩社員から交際の申込みを受けた。

 当然丁重に断ったが、相手が告白に踏み切った経緯が”指輪をしていないから”というものだった。


『結婚指輪してる新卒が採用されるわけないのにねー』


 彼女はそう笑い飛ばしていたが、こちらとしては気が気ではない。


 あれだけ美しい人が入社すれば、誰だって目をつける。分かっていたことだった。

 だけど、心に棲まわった不安は抜けてくれない。

 離れているからこそ、つなぎとめるための錨でありたい。


 初めて私は、交際を仄めかす象徴を欲しいと思った。

 かつて彼女が、私に口づけの痕を肌に遺してと頼んだように。


 そんな私の心情を察したように、彼女は虫除けのリングを買ってつけると提案してくれた。

 であれば、こちらが出さないわけにはいかない。いずれ迎えに行く者の努めとして、誓いをこめて贈りたいと願ったのだ。



 会計を済ませて、私達は手頃な飲食店へ入った。

 なるべく人目につかないテーブルを選び、席につく。


「見た目ダイヤなのに、材質はプラチナなんだ。そんで3万以内ってコスパいいね」

 二人で選び、二人で買った指輪を眺めて。

 彼女が大切そうに箱を胸に抱いた。


 幅が広く、派手すぎず、しかし存在感もある。

 宝石の両脇にレールが施されているため、保護機能も高い。

 サイズ直しやメッセージ刻印も可能なすぐれものでもある。


 婚約指輪と結婚指輪の違いがいまいちよく分からなかったが、今日ようやく理解した。


 私達の場合は婚姻が認められていないため、”予約”となるが。正式に承認されるその日まで、愛の印を指へと預け続ける。

 物理的に主張できる物でもって、贈った相手が特別であることを知らしめたい。


 そのためには、今よりもっと立派な人間になる必要がある。

 改めて燃え始めた仕事への意欲を胸に、私は彼女の左手を取った。


「あなたが信頼を持ってこの指を預けてくれたように。その想いに応え、最後までやり遂げることを誓います」


 まるで結婚式のような口上を述べて、指輪を薬指へとはめていく。


「あはは、あんた今スーツだから様になってる」

「ち、中途半端な気持ちでは贈りたくなくて」

「そいや、今って6月だっけ。だいーぶフライングしたジューンブライドだね」


 宝石が全周に敷き詰められたこの指輪は、石の輝きが途切れないことから『永遠の愛』を意味する『エタニティリング』というのだそう。


 銀に光る左手をかざして、彼女の瞳にも光が宿る。

 感嘆の声を漏らしつつ、ときおり陶然と瞳を細めて。


「そっちもいい?」

 お冷の水を一杯呷ると、今度は私の手を取った。

 左手をしばらく撫でくりまわして、彼女の口元へと寄せられる。


「あたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」

 意味深な言葉をつぶやき、薬指へと彼女の唇が降りた。

 軽くリップ音が鳴って、左手が解放される。


 ガラガラの店内とはいえ、大胆な行動に周囲を見回してしまった。

 いや、この場で指輪をはめた私が言えたことでもないのか。


「どういう意味なんだ?」

「人事を尽くして天命を待つ、って意味が近いのかね」


 努力は必ず報われるとは限らないとは、そこから来ているのかもしれない。

 昇進も、結婚相手も、最後はタイミング次第なのだから。


 新たな誓いの証を二人で見つめ、自然と笑みがこぼれていく。

 ようやく、心からデートを楽しめているのだと。そう実感した。



 その後、予報外れの大雨に見舞われ思いも寄らない場所で雨宿りする羽目になるのだが、それはまた別の話である。

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