【B視点】久しく待ちにし

・SideB


 5月に入り、世間は待ちに待ったGWを迎えた。


 チャンネルを回せばずーっとGW特集。帰省ラッシュだのおすすめのアウトドアスポットだの、東京のどこどこのお店が繁盛しているだの。


 その熱狂ぶりは、家でだらだらとテレビを眺めているだけでも雰囲気は味わえる。 

 今日も朝からなんとなく流して、画面越しの旅気分に浸っていたところだ。


 あたしのGWかい? 行ったところでどこもすげー混んでるし暑いし、ずっと引きこもってるだけだよ。


 親とは向こうから来てくれて積もる話も終わったし、あとはひたすら一本の連絡を心待ちにするだけ。

 おみやげとしてくれた五家宝をもそもそかじりながら。

 うむ、このきな粉の香ばしさが懐かしいね。


 あいつ、元気でやってるかな。

 ひと月前に警察学校へ旅立った恋人を想い、まぶたを閉じる。


 大丈夫、忘れてない。

 闇のなかに浮かび上がった微笑みはまだ、くっきりとあたしの記憶に灼きついている。

 儚さと凛々しさをたたえた、出発時のあいつの顔を。


 物理的な記録はかすれてしまった。あいつから一晩中刻みつけられた証は、今は身体のどこにも残っちゃいない。


 や、ひとつだけあったか。

 目を開けて、無意識に組んでいた指をほどいた。


 薄く血管が通っているのがわかる手首にはほんのりと、赤い痕が見える。

 ここだけ遺っているのは、あたしが定期的に吸って更新してるからなんだけどね。


 会社では腕時計を巻いてごまかしているけど、うっかりつけ忘れた日があって事務員の女の子に見られた日はまじびびった。

『虫刺されですか?』ってウ○クール持ってこようとするもんで。


 社会人になってまだひと月だけど、おととい泊まりに来た両親とその話題だけで2時間酒の肴にできた程度には馴染んでいることに気付かされる。


 積み重ねた時間はあいつとのほうが長いのに。スマホに保存した写真を眺めればすぐに思い出せるのに。


 仕事の忙しさの中で、あんなに楽しかった日々も薄れていっているのが切ない。

 それが大人になることだと分かっていても。


 早く、来ないかなあ。

 障子の隙間、光の差す窓の外に視線を向ける。夏日並みの陽射しで照りつける空の青さがまぶしくて、さざめく葉桜の枝に目が行く。


 あんなに咲き誇っていた薄紅色の面影は、もうどこにもない。

 桜は花が散れば見向きもされなくなるけど、新緑が萌える今の時期もけっこう好き。


 涼し気な木陰の下、風に煽られて昼下がりをぼーっと過ごしてみたくなる。

 川沿いなんかだと最高だね。夏場だと自殺行為だけど。あと毛虫もぼとぼと落ちてくるから景観最悪だけど。


 にしても、自然界は何があっても四季に合わせて姿を変えられるからすごいぜ。

 あたしなんて未だに、あいつと離れてから時が止まっているような感覚なのに。


「…………」

 そしてまた、癒える肉体にあらがうように手首の痕を吸う。


 あいつが最初につけたぶんはとっくに消えて、あたしが上書きしているだけだ。単なる自傷行為と変わらない。

 だけど色あせていくのが怖くて、ここだけは薄れないようにと執着する感情は止めようがない。止められるのは、あいつだけだ。


 また、つけてほしい。今度はもっと、強く。

 倒錯した欲を抱きつつ、夕飯と風呂の準備に取り掛かる。


 タイムリミットは5時半、ちょうどあいつが休憩に入る頃だ。

 休息時間の範囲は午後9時までとけっこう長く、いつ来るか分からない。いつ来てもいいように夕飯とシャワーは済ませておくかね。


 それから7時半をまわった頃のこと。

 あたしはお茶をちびちび啜っていた。何かしてないと落ち着かなくて、お腹たっぽんたっぽんのくせにもう3杯くらいおかわりしている。


 点けていたテレビは音を絞っているため、ほとんど内容が頭に入ってこない。字幕で内容を把握している感じだ。

 無意識にまた、湯呑みに口をつけたときのことだった。


「お」


 テーブルが不規則に震えだした。

 ずっと聞きたかった、知らせの音色に心が跳ねる。

 続いて肩から膝から腕へと衝動が弾んで、引ったくるようにスマホを鷲掴む。


 やっと、つながった。

 止まっていた秒針がかちりと、頭の中でふたたび刻み始めていく。


 急いで通話ボタンをスワイプした。向こうは公衆電話だから、出られなかったなんてしくじりは許されないのだ。


「もしもし」

『久しぶり』


 懐かしき声が鼓膜へと触れて、じんわり熱を落としていく。つむじからつま先まで、ぬるま湯を浴びたように。


 スマホを持つ手には汗がすでににじみ始めていて、すべり落ちないようにいっそう強く握りしめる。


『携帯、入校ひと月過ぎたから土日だけ使えるようになった。LINEとかも大丈夫』

「わかった」


 公衆電話の使用はいつでも可能だけど、入校してすぐは先輩方が優先で掛けられなかったことを謝られる。

 調べてあたしも分かったことだけど、そうらしいね。

 毎日たくさんの列ができるから、時間切れのときもあるし通話自体は数分までと決まってるみたいだし。


 いっぱい話したいことはある。

 けどそれはまた、会う日までの辛抱だ。


『それと、6月半ばに中間試験がある。外出は下旬からかな』

「あ、そっか。テストあるんだっけ。厳しいんだよね」

『そう。規則上消灯時間を超えた勉強は認められていないから、休日に当てるしかなくて……すまない』

「だいじょーぶ。平日はほとんどできないもんね。しゃーないよ」


 ひと月経ったから外出許可自体は出ているものの、遊べばそのぶんテストに響く。

 平日は過密スケジュールだし、そりゃみんな休日は猛勉強したいわな。一教科でも赤点だと退学案件みたいだし。


『何か聞きたいことは?』

「外泊がダメってことは知ってるけど、外出もなんか細かいルールあんだっけ」

『無いと祈りたいが……班の誰かに規律違反があれば、連帯責任で外禁になる。成績が悪い場合も同様。当直の場合も出られない』

「まじか。やらかした奴めっちゃ恨まれそうだね」


 実際にやらかしたある先輩は、同期からも教官からもねちねち圧を掛けられ自主退学に追い込まれたらしい。


 警察学校と言えど、入校した時点で彼らは生徒ではなく警察官の端くれなのだから。ルールに厳しいのも当然っちゃ当然か。


『それと服装は私服が禁止で、スーツ固定。場所・相手・飲酒の有無といった細かい申告書が必須。門限は午後10時まで。こんなところかな』

「りょーかい。詳しい日程が決まったらまた詳しく教えてね」


 にしても声、だいぶ枯れてるなあ。

 電話の向こうはざわついていて、ノイズの中聞き取るのもやっとだ。

 大声を上げることに慣れないといけないから、毎日腹から出してるんだろうね。


『……悪い、そろそろ』

 あいつが申し訳無さそうに声をしぼませた。掠れている声と合わさって、とてもしょげているみたいに聞こえる。


 毎日教官に怒鳴られながら、慣れない集団生活を過ごさなきゃなんないんだもんね。

 勉強も訓練もいっさい手を抜けないし。

 ストレス、そうとう抱えているだろうな。


「つらいときは、LINEにありったけ吐き出しちゃって。愚痴でもなんでも、今のあんたが知れるならあたしは構わないから」

『……ありがたい申し出だが、それは極力避けたいんだ。ログまで抜き打ちでチェックされるから』

「ありゃ」


 プライバシーもへったくれもありませんな。そりゃ破局率高いわけだよ。

 でしたら、会うときに思いっきり受け止めてあげましょう。あいつもけっこう溜め込んじゃうタイプだからね。


『今日、繋がって良かった。声が聞けて嬉しかった』

 次に会うときはたくさん話すことを約束して、受話器の向こうで控えめな笑い声が届く。


 しぼり出したような精一杯の感謝の声に名残惜しさを覚えて、ぎゅっと下唇を噛みしめる。


 しばしの安息も、まもなく終わり。

 現場を見ずとも、あいつの後ろには同じ想いを抱えた生徒たちが並んでいるだろう。

 この電話は一人だけのものではないのだから。


 お元気で。頑張って。

 もう十分その言葉通りにやっているのだから、気安い励ましの言葉は掛けられない。


 また、いつでも掛けてらっしゃい。待ってるからね。

 月並みなエールを贈って、おやすみの挨拶を交わして。

 あたしはスマホから耳を離そうとした。


 と。



『好きだよ』



 え。

 …………え。


 どんなに雑音がかき消そうとしても。

 そのフレーズは確かに、はっきりと耳に届いた。


 静止した銅像のごとく。通話が切れて、機械音を吐き出し続けるスマホをあたしはしばらく耳に当てていた。


「あ、ああああー」


 そういうとこだぞ、この天然たらし。ちくしょう。好き。

 近所迷惑にならない程度に奇声をぼやきながら、あたしは寝室の布団にダイブした。


 顔をシーツにうずめて、手足をばたばた、思いっきり宙を漕ぐ。

 いい歳してなにやってんだって冷静になりそうになるけど、一度火がついた乙女回路は灼ききるのにしばらく時間がかかりそうだった。


「…………」

 傍から見たら新手の筋トレみたいな悶えタイムが終わって、賢者モードになったあたしは押入れへと向かった。


 中にはきっちりと、たくさんのダンボールが押し込んである。

 アパートを退去時に引き取った、あいつの、あいつとの思い出の品の数々がここには収められている。


 そのうちのひとつ、少し色あせた低反発枕を引っ張り出した。

 付き合って最初の冬にあいつが買った、クリスマスプレゼント。

 あたしのとこに泊まる際は必ず頭を預けて、気持ちよさそうに寝てたっけ。


 今はこれ以上品質が劣化しないように、お店の商品のようにビニール素材で包装して丁重に保管している。


 すまぬ。許せ、今夜だけ。


 あたしは枕を胸に抱えると、シーツの上に寝っ転がった。

 これが本当の抱きまくらだよね。


 まだ8時前なのに電気を消して、毛布を頭から被る。

 今日はもう、このまま寝てしまおう。

 この脳内麻薬が分泌しているうちに、夢の世界に突入してしまいたい。

 文字通りの夢気分だから。今。


 もちもちの柔らかさを腕の中に感じつつ、沈んでいく意識の中であいつとの日々が脳裏によみがえる。

 泊まりに来た日は、真夏でもこうしてくっついて寝てたなあ。


 耳元でわんわん飛びやがる蚊から逃れるため、くそ暑い中毛布被って2人で耐えて、そのうちギブして電気つけて駆除するまで寝らんなくて……

 なんで今その記憶チョイスしたあたし。


 ふふっと思い出し笑いが漏れて、半分夢の中にいるからかあいつの腕の中にいるような錯覚に陥る。

 ぼんやりとした気配が人の形に輪郭を帯びて、あたしのすぐ傍へと写し出される。


 夢……もう夢なんだよねこれ。

 引き締まった二本の腕と、少し熱く感じる体温と、嗅ぎ慣れてしまったあいつの香り。 


 這い出した鮮烈な記憶があたしを包み込んで、安らぎの心地へと誘っていく。

 嗅覚がやけに鋭いのは、枕を抱いているからだろうね。


 願わくば、朝までこのひとときが醒めませんように。


 胎児のように身体を折り曲げ、大切な人の枕を抱いて。

 パートナーとの夢心地に浸りながら、GWの夜は更けていった。

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