【B視点】やがて静かに訪れる夜明けに(後編)◆

 警察学校に通う生徒の破局率はきわめて高い。

 警察官の親がいる友人からは、以前そう聞いた。


 恋は二の次で、仕事を学びに通っているのだから。

 校内恋愛は原則禁止で常に監視の目があるっぽいから、そういう過ちを心配しなくていい点はありがたいけどさ。


 浴槽内でぶくぶくと。カニのように泡を吹きながら、あたしは膝を抱えて物思いに耽っていた。

 あいつが寂しい思いをしていないかって想像するだけで、胸が締め付けられそうになる。


 なにせ連絡手段は公衆電話しかないんだって。

 公衆電話からスマホに掛けると高額みたいだし、テレホンカードにつぎ込む生徒もいるとか。この令和にだよ。


 さらに公衆電話は折り返しができない。一方通行な連絡だ。

 いつ掛けてくるか分からないから、出られない時もあるかもしれない。


 そしたらまた改めて、相手の都合も一致した時間につながれる日を信じてトライするしかない。分が悪い電話ガチャだ。

 昔のトレンディドラマって、こんな感じだったのかねえ。


 警察官の常識は、市民の非常識。

 過酷な仕事であることを理解して、支えていかなきゃならない。


 休みの日はめいっぱい尽くす。

 急な用事が入っても、笑顔で送り出す。それが長く付き合っていく上での心得なのだそう。

 会いたくて会いたくて震えてはいらんないのだ。


 そんなわけで。最後の日に二人でやれることを考えた末にたどり着いたのが、思い出づくりだった。ようはいちゃいちゃしてるだけだけど。


 ひとつ屋根の下で、一緒の布団で。忘れられない夜を過ごそう。

 一晩中求め合って、時間の許す限り愛を伝えよう。

 出発の明日、心からの応援を届けられるように。


 決意表明とばかりに、あたしはざばっと湯船から上がった。

 ぶっちゃけのぼせる一歩手前だった。首まで浸かんなってあいつに説教できた立場じゃねえやろぼけー。



「あがった」

「うーい」


 ドライヤーの音が止まって、あいつが居間へ戻ってきた。


 入浴でほんのり色づいた頬には艶があって、化粧水で抜かりなくケアしてたんだなってわかる。

 乾かしたての髪はしっとりと流れ落ちて、肩甲骨あたりまで伸びていた。


 括るようになった姿を見慣れていたから、こうして髪を下ろすとけっこう印象が変わる。

 メンズライクなトレーナー姿ということも相まって、缶ビールがよく似合うラフなお姉さんっぽい雰囲気だ。この子はお酒あんま飲まないけどさ。


「暑かったわけだ」

 あいつがなんとなく流していたニュース番組に注目する。


 今日の最高気温は26℃と、初夏並みの暑さでしたね。各地で半袖の人を見かけた他、冷たい飲食物をあつかうお店が繁盛しておりました。

 そう淡々とニュースキャスターが告げている。


 右上のテロップは『花よりアイス? お花見会場にあらわれたアイスクリームトラックが大繁盛』と表示されていた。


「午後から一気に上がったよね。桜が狂い咲きしてんじゃねって思うくらい」

「5月ならわかるが、これだとますます春物と秋物が売れなくなってくるな」


 春が好きなあいつと秋が好きなあたしは、同時に肩を落とす。

 ここ数年はずっとこうだけどさ。そりゃ、4月から冷やし中華を始めるお店も出てくるわけだ。


「あ、なんか観たいのある?」

 リモコンを取って、番組一覧の場面へ切り替えると。


「ここって……」

 あいつがリモコンへと注目した。

 腕を伸ばして、あるひとつのボタンを指す。

「ああ、BS? いまこの時間って古いドラマか通販番組しかなくない」


 そう思ってリモコンを渡す。あいつは番組欄の画面を選択して、とある旅番組のところで指を止めた。

 へえ、こういうの好きになったんだ。


「おぬしも猫の沼に堕ちましたか」

「誰かさんのおかげで」

「早く飼えるようになりたいねぇ」


 一緒にソファーに腰掛ける。

 和室にソファーってミスマッチとか言われるけど、座面の低いローソファだから脚付きよりも畳を痛める心配が少ない。

 何より、二人で使いたくて選んだからね。


 そうして世界各地で暮らす猫の一日をたどるだけの、なんとものどかで優雅な映像が流れる。


 猫ってほんと、丸一日眺めていても飽きないよね。どっかの国では、丸一日焚き火の薪が燃えるだけの番組を作って高視聴率を得たらしいけどね。

 みんな、癒やしに飢えてるんだろうな。


「…………」

 ふと、ヘアオイルの香りがふわりと下りてきた。

 艶めく黒い髪が、首元をかすめ肩へとかかる。爽やかなあんずの匂いを吸い込んで、風呂上がりの火照りが残る大きい手を取った。


「眠い?」

「いや、仮眠は取った……」

 歯切れ悪く答えると、あいつは意味ありげにちらりとあたしに視線を向けた。それも一瞬だけで、ふたたびテレビへと注目する。


 ちょうど、丸々超えた老猫が飼い主らしきおじいちゃんのお膝元で前足をふみふみしているところだった。


「ここ?」

 無地のスカートルームウェアに包まれた膝を指差すと、控えめに頭が縦に揺れた。


「甘えたいならそう言えっつーの」

 体勢を崩しやすいように、ソファーの端っこまで移動する。あいつ足が長いから、これくらい間隔空けないと伸ばしてリラックスできなさそうだし。


 失礼する、と頭を軽く下げたあいつがおずおずと体重を預けてきた。

 同じタイミングで画面の向こうの猫も丸まっているものだから、ちょっと吹き出しそうになる。


 おさまりきらなかった後ろ足が、ずるっと垂れているのがたまんないよね。こっちの黒猫はお上品に足を折り畳んでいるけど。


「猫飼ってたときさ、あんま膝には来なかったんだよね」

「そうなのか」

「固くて狭くて枕には向かないって思ったんだろうね。親のほうにばっか丸まってた」


 だから、ってわけでもないけど。もっと甘えてきていいんだよってスキンシップが控えめな相方に対して思ってしまう。

 べたべたするの、ガラじゃなかったはずなのになー。人の好みは変化するものですね。


「引き締まってはいるが、固くはないと思う」

 あいつが腿に頬をくっつけたままつぶやいた。


 ナチュラルに人の身体について述べるものだから、どうリアクションを取っていいかわからず言葉がつかえてしまう。


 そら、ね。やることやってるわけだしね。腿も枕にするどころかいろいろやってきたしね。

 今夜もまあ、触るどころでは済まないだろうし。


「これからも利用したきゃ申し出てね」

「ああ」

 愛しい重みを膝に感じつつ、後頭部へと手を置いた。少しひんやりとする。


 軽く梳くと、絡まることなくするりと指先から滑り落ちていった。

 よきよき。ヘアケアはばっちり続いているようですね。


 ぼへーっと眺めているうちに番組は終わってしまった。

 猫の日常って癒やし以外の何物でもないけど、最近はうるうるしちゃうことも増えた。


 親猫の後ろを健気についてくる子猫とかずーっと寝ている老猫とかもう、ね。無性に切なくなってくる。

 過酷な環境で精一杯生きている姿が涙を誘うんだろうな。


 そしてこの子も明日から、過酷な環境に身を置くのか。

 警察学校って学校とは名ばかりで、軍隊並に厳しいところって聞いてるもんな。


 すでに潤み始めた目を拭う。あいつにはテレビ見てたら泣けてきたとだけ説明した。

 この番組感動要素あったか? と首をかしげるあいつを横目に、あたしは隣の和室に布団を敷き始めた。


 荷物も預かるから2Kにしたけど、意外と家賃は安いし和室の物件数もそこそこあって狙い目だったね。

 築年数も経っているやつが多いのはしゃーなしとして。



 ぴしっとシワを伸ばしたシーツの上に、マイクロファイバータオルを敷いていく。

 めくれて下のシーツを汚すことがないように、大きめのタイプですっぽりと覆って。


 ティッシュ箱とフィンガードームとローションも、布団の横に抜かりなく。


「準備はよろしいですよ」


 かしこまって口に出すと、指先から体温が上がっていくのを感じた。


 風呂上がりの緩んだ空気から、互いの間に緊張感が張り詰めていく。

 触るのも、触られるのも。何度重ねても慣れないね。


「電気消すね」

 昔ながらの天井に張り付いた照明器具、そこから垂れ下がる紐に手を伸ばす。


 暗い寝室には、布団を照らすわずかな明かりだけが残された。

 ふふふ、この日のために行灯のスタンドライトを買っておいたのだよ。


「風流だな」

「こういうのは雰囲気が大事だからね」


 夜の闇に浮かび上がる、妖しげな光に当てられて。

 すでに情事の火が点いていたあたしたちは、崩れ落ちるように布団の上へと寝っ転がった。


 熱い。

 あいつの腕の中に絡め取られて、苦しさを感じるほどに強く抱きしめられる。


 もっと力をこめたっていい。言葉よりも熱く、身体へと教え込んでほしい。

 愛も欲もぜんぶ吐き出して、心の奥まで、深く。


 しばらく会えないという寂しさが、計り知れない独占欲となって膨れ上がっていく。


「ずっとこうしていてもいい」

「いいよ。寝かさないでね」


 体温と鼓動を直に感じ取りながら、もっと近づきたくてあたしは顔を寄せた。

 まだ感触の消えない唇へ上書きをするように。


「ん、む」

 人の熱がぶつかって、またたく間に埋め尽くされていく。

 触れ合っているだけでは物足りなくなって、口唇の間から舌を突き出した。


 あいつはすぐに応えてくれた。少し潜り込んだあたしの舌を押し出すように、熱い吐息と、熱い舌先を感じる。

 互いの熱が重なり混ざり合って、やがて厭らしい水音が立ち始めた。


「は、む、んんぅ」

 息を継ぐ苦しさよりも、この子と交わってひとつになりたい。


 とどまることを知らない焦燥感に突き動かされて、あたしは舌を伸ばし温い感触を絡め取る。

 あいつも負けじと這わせてきて、主導権の奪い合いが始まる。


「ん、は、ちゅ、っく……」

 飽きることなく唇に吸い付いて、はしたない音とともに絡ませ合って。

 舌先まで吸い上げるように、ゆるゆるとほどいていく。


 伝うぬるい銀糸が垂れる前に、また、深くまで重なり合う。

 ときおり漏れる、甲高い喘ぎ声は自分のものじゃないみたい。


 恥ずかしすぎる奏に耳が溶けていきそうだ。紛らわすように、あたしはより激しい接吻をねだり続けた。


「っふ、じゅ、うぅぅっ」

 どれだけ重ねても、つながりたい欲望は尽きることがない。


 汗とか唾液で口周りがべたべたになっても、軽くティッシュでぬぐったあとは懲りずに唇をすり合わせていく。

 盛りのついた獣かうちらは。


 むろん、口づけ程度のお戯れで終わるわけがない。

 あいつは接吻を続けながら、器用にトップスを首元までまくり上げた。


 就寝前だからブラウス一枚に覆われただけの胸元へと、大きく熱い手のひらが吸い付いてくる。


「くあぁ、うう」

 感触を堪能するべく。下から乳房がすくい上げられて、ゆっくり両手で揉みほぐされる。

 鍵盤でも弾くように、込める力に強弱をつけて。


 慎ましい大きさのあいつには、蒸れるほど膨らんだ胸の触り心地が面白いみたい。


 なので行為中はキス並みにいじってたりする。このむっつりさんめ。

 でか乳憎しから親の仇みたいな目で睨まれるよかはマシだけどさ。


「んー、んんー」


 刺激が先端へと集中して、一気に肩が跳ねる。

 揉まれるよりも、先っぽあたりを愛撫するほうがあたしの反応がいいから。幾度となく身体を重ねるうちに知られてしまった。


 敏感な頂には触れず、周辺のふくらみをくるくると。指先で優しく円を描く。

 フェザータッチで送られてくるもどかしさが、すっかり開発され尽くしたあたしには耐えられそうにない。

 たらたらと口端から垂れる唾液に溺れそうになりながら、何度も肩をすぼめる。


「んぐっ、ふぁ、うぅぅっ……」

 悪戯な指は懲りることなく、刺激を受け続けて尖りきった場所へと。

 触れるか触れないか程度の指圧で、また執拗に撫で回していく。


 かたつむりの行進並にスローな動きで指の腹を擦りつけていくのが、なんともねちっこくて鳥肌がおさまらない。

 まったく、いつ覚えてきたんだか。


「っ、ぷ、ぁ……」


 胸へのくすぐったさに身悶えしているさなか。好き放題かき回していた舌がおとなしくなって、最後まですり合わせながら引き抜かれていく。

 聞かせて、と小声でささやかれた。荒そうな息から、あいつも苦しさを覚えてきたのかな。


「あ……」

 唇が解放されて新鮮な酸素を取り込むと、深夜のひんやりとした空気が喉に張り付いた。

 一人分の熱が引いた温度差に、御しきれない不安が背中を這い上がってくる。


 もう十分すぎるくらい味わったのに。震えそうになる喉を、かろうじて唇を噛んで押しとどめる。


 この覆い尽くす空虚感は、今日一日中ずっと心の中に巣食っていた。

 吹き出しかけた感情を、あいつに密着することで必死に押さえつけてたんだ。


「いか、ないで」

 キスをやめてほしくない意味だと受け取ってもらえるように。首を起こして、あたしは無理やり唇を奪った。

 両手を伸ばして、あいつの後頭部をがっちり抑え込む。


 行くなって。ずっとここにいてって。思ってたって口にしちゃいけない。

 わがままであいつの決意を曇らせちゃいけない。

 笑顔で送り出して、笑顔で迎える。そんないい女でいなきゃいけないんだ。


「……どうした?」

 あたしのしがみつくような口づけを受け止めて。

 ようやく唇が離れていくと、あいつが心配そうな面持ちで頬へと指を添える。


 ああ、いくらごまかそうとしたって駄目だ。身体はいつだって正直なんだから。

 胸と喉が、絞られているみたいに窮屈で苦しい。火を近づけられているような熱さも感じる。


 頬を伝ったひと筋の痕に気づいて、あいつが拭う。

 それだけの気遣いで簡単に感情の振れ幅が大きく揺らいで、熱い雫となってあふれ出す。


「つけて」

 あいつの昂ぶった気分が萎えないように。

 傍にいてほしいという叶わない想いを胸に閉じ込めて、情事中の今だからこそできるお願い事を口にする。


「見えないとこにいっぱいつけて。しばらく消えないくらい吸って。会えない間、少しでもあんたを薄れさせたくないから、つけて」


 分かってる。物理的に証を遺したところで、なんの意味もないことを。

 どれだけつけたところで、傷は傷。いずれは薄れて、肌から消え去っていく。


 それでも、欲しかった。身体の隅々まで、埋め尽くしてほしかった。

 あたしを好きにしていいのは、この子だけなんだって再認識するために。


「わかった」

 枕を握りしめていた手が引き剥がされて、力強く指が絡まり握りしめられる。


 こう言って、あいつが約束を破らなかったことはない。

 揺るがぬ絶対的な一言があるから、すべてを委ねたくなってしまうのだ。



 あれから、何時間経った?

 ぼんやり霞む頭では、余計なことを考えられない。もろもろの体液と潤滑油でべとべとになった体の芯へと、今も熱が灯され続けているのがわかるくらい。


 ただ、与えられる愛を受け止めて、喉から嬌声を絞り出す。原始的な欲望に身を投げだして、何もかもを相手へ預ける。

 尽きることのない愛撫に、あたしは何度も意識が飛んでいた。


「や、また、う、あぁぁっ」


 足の先から、じわじわと。はじけそうになるあの感覚が這い上がってくる。

 大学時代から回数を重ねてコツを掴んだあいつの指技は大したもので、最近は一晩で何度も昇天させられることも増えてきた。

 たぶん今はあたし以上に、やつのほうが身体を知り尽くしてると思う。


「…………」


 頭が真っ白になる直前。あたしは何度目かになる名前を読んだ。

 すっかり掠れて、涙声に濡れて。あたしの声なのか自分でもわからなくなる。


 その主は返事の代わりに、脇腹へと吸い付いた。

 聞き慣れてしまった吸着音が響いて、また今夜の証が刻まれていく。


 男女の交わりであれば出すもん出したら終わりだろうけど、女同士の場合は際限がない。

 しようと思えば何戦でもできるし、体力の許す限り好きなだけ交わっていられる。


 自分で満足できているのかと以前不安そうにあいつから聞かれた際に、あたしは迷わず頷いた。

 心から愛する人からされるから、気持ちいいんだって。


「もっと、して」

 ろれつの回らなくなっている舌を動かし、なんとか人の言葉を絞り出す。

 波が引かないうちに、また指が動き出した。ぐんと顎が仰け反って、食いしばった歯ががたがたと鳴る。


 器用にかき回しながら、へそのあたりへあいつの唇が下りてくる。

 上と下からピンポイントに刺激を受けて耐えきれるわけがない。余韻を感じる間もなく、お腹の下へと支配の波紋が響き渡っていく。


「か、は…………ぁ……っ」

 押し寄せた波の到来に腿が跳ねて、意識が刈り取られていく。

 気絶する暇も与えず、指の腹が上り詰めた場所を撫でて現実へと引き戻される。


 もっと、もっと。

 溶けてなくなるくらい、存分に求めてほしい。

 あいつしか知らない場所へ、痕を遺して肌を染め上げてほしい。


 沈んでは浮き上がり、飛んでは引きずり降ろされ。

 主導権を完全に握られたあたしはあいつに翻弄されながら、刻まれていく音を聞いていた。

 何度果てても、その音だけはずっと耳の奥に響いていた。



「はっ……はぁ……あぁ……」


 やがてあいつの体力が尽きて、あたしも反応らしきものを返せなくなった頃。

 障子の向こうの空はすっかり白み始めて、室内よりもぼんやり明るくなっていた。


 まもなく朝陽が顔を出し、一日の始まりを告げるというのに。

 あたしたちは折り重なったまま一歩も動けず、べたべたの身体をくっつけ荒い呼吸を繰り返していた。

 まじで、一晩中やってたのか。うちら。


「入校……何時までだっけ」

 迫りくる眠気でまぶたを開けていることも億劫になり、あたしは手探りであいつの後頭部へと手を当てた。

 撫でようとしたんだけど、眠すぎてまともに動かない。ずるずると力なく滑り落ちていく。


「今日のうちなら午後8時まで」

「そ」


 じゃあ、まだまだ休めるね。遠ざかる意識のなかつぶやくと、おやすみと聞こえてきた。あたしの名前を添えて。

 首筋にかかり始めた寝息を感じつつ、今度こそあたしも夢の世界へと沈んでいった。

 ほんと、よく頑張ってくれました。



 それから時計の針が何周かして、天高く太陽が昇った頃。


「それでは、行ってまいります」


 昨日の激しさが夢の中の出来事に思えるくらいだ。シャワーを浴びてきっちり身だしなみを整えたあいつが、ボストンバッグを片手に玄関へと立つ。


 腰が抜けたせいか、壁にもたれるのがやっとのあたしとは裏腹に。しゃんと背筋を伸ばして。


「行ってらっしゃい。いつでも待ってるよ」


 覚悟を胸に口にした。あたしはこれから、待つ側の人間になるんだと。


 次に声が聞けるのは、ひと月後。

 会えるのは……最低でも夏頃。


 自覚すると、急に目の前に立つあいつが遠くにいるように錯覚した。

 反射的に腕を伸ばした瞬間、身体がよろめいた。

 慌てたあいつに受け止められて、立つのがきついなら座ってていいからと玄関に正座させられる。


「さ、さすがにやりすぎたな……」

「いいんだよ。今までで一番すごいのが欲しかったから」


 服の下には、無数の痕が浮かび上がっている。朝シャンしたときにここまでやったかと注文つけたこっちがびっくりした。

 しばらくはお風呂入るときに思い出しそうだ。忘れられない夜になったことは間違いない。


「絶対に投げ出さない」

 毅然とした態度で、あいつが向き直る。

 必ず立派な警察官になってみせるよと、うっすら笑みを浮かべて。


「そんときゃ、一緒に住みましょうか」

「それを目標に頑張るよ」


 ハイタッチではなく、拳をくっつけて。

 必ず思い描いた未来が来ると信じて、あたしたちは誓う。


 あたしはうまく笑えているだろうか。

 声が掠れて震えていないだろうか。


 湧き上がってくる余計な感情を押し留めて、あたしは今できる最高の笑顔を引き出していく。

 胸を張って、前を向いて。

 新天地に向かう恋人へと、しっかり目を合わせる。


「また会う日まで、あたしも頑張るから」

「無理はしないように」


 最後にもう一度、力強く抱き寄せられて。額に唇が落とされる。

 大学時代にやってた、いってらっしゃいの合図だ。

 あたしも前髪をかき分けて、同じように顔を寄せた。


 踵を返すと、あいつは確かな足取りでアパートを後にした。

 ベランダに向かって、遠ざかる背中を見送る。

 あたしがいることは気づいているだろうに、あいつはただの一度も振り返らずまっすぐ目的地を目指していった。


 春の景色に埋もれて、影すら完全に視界から見えなくなって。

 力が抜けて、あたしはへなへなとベランダの手すりに覆いかぶさった。


 ああ、行っちゃったなあ。

 でも、笑顔で見送れて良かった。


 胸を撫で下ろして、それから拭き掃除が十分でなかった手すりに思いっきり寄りかかってしまったことにうわあとなる。

 やべえ黒ずんでるのに気づかなかったよ。


 洗面所に駆け込んで、ついた汚れを大慌てで洗い流す。服と手と指を。


「(……あれ?)」


 手首の一箇所だけが洗っても落ちない。というか汚れというよりもっと前からついていたシミみたいで、じんわりと映っている。


 え、まさか。

 まだ眠気の残るまぶたをこすって、確信めいたそこに焦点を当てると。


 昨日あいつにつけられた痕と同じものが、白い手首に浮かび上がっていた。


「……ばか」


 見えないとこにつけて、って言ったのに。

 刻まれた痕のなかで、唯一届く場所へと。あたしは吸い寄せられるがままに口付けていた。


 いずれ他のしるしが消えても、ここだけはこうしている限りは残っていてくれるだろうか。

 それを想定して、あいつはわざわざ目につくとこに遺していったのだろうか。


 さっき、化粧したばっかなのに。

 まばたきをすると、涙がぼろぼろこぼれ出した。

 喉が不規則にひくついて、年甲斐もなくしゃくり上げる。いくら目元を抑えても、胸の痛みはなかなか引いてくれなかった。


「わ、」

 ちょうど窓から風が舞い込んで、あたしの前髪を吹き上げた。

 涙までもさらっていく強く暖かい春風に、しっかりせんかと背中を叩かれている気分になる。

 別れの季節でもあるけど、出会いの季節でもあるのだから。


 代わりに。アパートのすぐ傍に植えられた桜の木から、はらはらと。枝が揺れて、花びらが晴天へと舞い上げられた。


 音もなく地に落ちていく様は、美しくも儚い。ひっそりと散る姿は、桜が静かに泣いているようにも見えて。

 しばしの間、あたしは舞い散る幻想的な光景に見とれていた。



 やがて風が止んで、静かに息を吐いた。

 胸にはまだ痛みが残っていたけど、一陣の風が駆け抜けた後は雨上がりの晴れやかな気分が広がりつつあった。


 また会う日まで頑張るって約束したんだ。

 それまで仕事もプライベートも磨くことを怠らず、あいつが好きでいてくれた自分で居続けよう。


 洗濯物を干し終わったあと、あたしは久々にひとっ走りしてくることに決めた。

 こんなに天気のいい日なんだから、外に出なきゃもったいないってあいつなら言いそうだから。


 ちょっと今の足腰ではおぼつかない走りになりそうだけど、ま、そんときゃ歩いたっていい。筋肉痛に適度な有酸素運動は大事だから。


 穏やかな陽光を背に大きく伸びをすると、今から駆け出したくなる衝動を抑えてあたしは部屋へ戻っていった。

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