【A視点】やがて静かに訪れる夜明けに(前編)
・SideA
※時系列:大学卒業後
かつて、片付けの魔法なる言葉があった。
ときめくものだけ残しなさい。彼女と出会う前の私には、その言葉がさっぱり理解できなかった。
今ならミニマリストという言葉で表せる、必要最低限の物しか持たない生活を私は送っていた。
物があふれるなど、考えられない。時が経てば邪魔になるだけなのに、どうして貯め込んでいくのか。
私が娯楽にうつつを抜かしている暇はない。無駄なものをどこまでも切り捨てて、人の何倍も努力して結果を出さねば生き残れまい。
与えられた仕事のみを忠実にこなす機械であればどんなによかったことか。
気分にも体調にも左右されない。ヒューマンエラーも起こり得ない、効率化の最たるもの。
生活感のない無機質な部屋にいれば、機械にはなれずとも余計なものに気を取られない人間ではいられる。
贅沢は敵だ。お前は社会の歯車であれと気を引き締めてくれるから。
これまでもこの先も、その価値観は変わらないと思っていたのに。
「この部屋って、こんな広かったっけ」
「初めて来た日を思い出すな」
すっかり人のいた証が消え失せた、まっさらなフローリングの床を彼女と2人で見渡す。
薄暗い室内にぼんやりと伸びる外からの光が、そこはかとなく切なさを覚えた。
今日は警察学校への入校日前日であり、4年間お世話になったアパートを引き払う日でもあった。
学校側の指示は明日の夜8時までか、明後日の午前8時までに入校せよとのこと。
向こうへは着替え、洗面道具、勉強道具といった必要最低限の荷物しか持ち込むことはできない。
家財道具の多くは貸倉庫を借りて、そこへ保管しておくことにした。
思い出の品は処分に迷っていたところ、彼女が引き取って押入れにしまってくれると申し出てくれた。
「本当にいいのか? 結構な量だし、かさばるだろう」
「遠距離になるわけだから、せめてあんたの一部は傍に置いておきたいかなって」
捨てたくても捨てられないでしょ、とごもっともな指摘を受ける。
どうしても手放すには惜しいと愛着が湧いてしまったのだ。
大学生活のすべてを過ごしたこの部屋には、思い出が詰まりすぎている。
ときめかないもの、いわゆる心動かされない私物など、ほとんどなかった。
雑多な小物、趣向を凝らした家具、厳選を重ねた生活用品。その一つ一つが、手に取るたびに温かさを感じた。
余分で無駄と切り捨てていたものが、卒業する頃には部屋中にあふれていた。
彼女と出会って、私は少しずつ人間性を取り戻していったのかもしれない。
「じゃ、そろそろ移動する?」
「ああ」
今夜だけは、入社に備えて先に引っ越しを済ませていた彼女の新居へ寝泊まりすることとなった。
近隣のビジネスホテルでも良かったのだが、しばらく離れ離れになることを考えるとやはり寂しい気持ちはある。
明日の昼頃には現地へ向かわないといけないので、それまで目一杯恋人と過ごすことにしよう。
「長らくお世話になりました」
大家さんに頭を下げて、手続き漏れがないかを確認して。
最後にもう一度、二度とは戻らないであろうアパートへと深く頭を下げる。
「うし、行くべ」
片手には最低限の荷物を詰め込んだボストンバッグ、もう片手には彼女の柔らかい手を取って。
私たちは芽吹く季節が満ちた街中を歩きだした。
「どこも満開ですなー」
「良い行楽日和だ」
歩くたびに、見頃となった春の象徴に視線が吸い寄せられていく。
天を衝く、しなやかな枝を飾り立てる薄紅色の花弁。
一斉に咲き誇った桜の木々は、無限に広がる霞みがかった空によく映えて。
舞い上がる花びらが、見慣れた景色を幻想的に魅せてくれる。新しい門出を見送ってくれているかのように。
「ちょい待ってて」
彼女が足を止めて、太くたくましい幹へと近づく。何度目かの寄り道だ。
観光名所として定着しているのか、木にはぼんぼりが下がっている。花見客と思われるスマートフォンを取り出す人も目立つようになってきた。
道路の両側に植えられた桜並木が織りなす、優美なトンネルの下。
空を仰ぎ見る彼女へ、私は見入っていた。
穏やかな陽射しが白い彼女の頬を照らして、いっそう輝いて見える。
陽光を浴びた亜麻色の癖毛が波打って、ぬくい風にきらきらとなびく。
花吹雪が乱れ散る中に立ち尽くす姿は、こちらがシャッターを切りたくなるほどだ。
現にちらちらと、あまりにも絵になる彼女へ注目する通行人も見かけた。
「めっちゃ撮ってきた。あとでおすそ分けするよ」
これカメラ3つあるからすげー性能いいんだー、と最新機種に買い替えたばかりの彼女のスマートフォンを覗く。
画素数が多いのだろう。店頭に並べられている8Kテレビのごとく高精細で広視野角な写りは、とても素人が撮影した一枚とは思えない。
「すごいな、ここまで拡大してもぼけない精度なのか」
「でしょ。つかあんたも買い替えなよ。7年使ってたらバッテリーも逝ってるやろ」
「モバイルバッテリーに繋いでおかないとすぐに減る」
「それ点滴で延命してるようなもんじゃん。そろそろ引導を渡してあげなさい。わかんなかったら付き合うから」
「そのときはよろしく頼む」
お互い堪能したところで、また並んで歩きだす。
当たり前のように定着した、指を絡めるつなぎ方。心へと深く根付いた春に高揚感が沸き立っていく。
やはり四季の中では、この季節が一番好きだ。
何かを好きだと決められる感性も、なろうとしていた機械には持てないもの。
あの卒業式後に彼女から放たれた言葉の意味を、今ようやく理解した。
別れを惜しむように。私たちは花見も兼ねて住み慣れた街中を歩き回って、ようやく駅構内に到着した。
ずっと動いていたので、身体が汗ばんでいる。上着は不要だったかもしれない。
まったりとした気候に包まれた、鮮やかに色づいた街の雰囲気はとても居心地が良くて。
いつまでもここに留まっていなさいと、後ろ髪を引かれる想いからついつい道草を食いすぎてしまった。
明日からはまた、気を引き締める日々が始まる。立派な社会人になるため、市民の安全を任せられる立場となるために。
何をすることもなくゆっくり過ごすのも、今日で最後となるのもあるのか。
「…………」
無意識に、もたれかかった彼女の肩へと腕を回していた。2人掛けに腰掛けているので、今さら見られてどうということもあるまい。
流れてゆく景色は大きく開けて、ぱっと空の青さが目に飛び込んでくる。乗車中の電車は広い川を通過していた。
ここを過ぎれば、隣の県へと入る。故郷から物理的に離れたことにより、いよいよ新生活の実感が強まっていく。
川の沿域には数百本のソメイヨシノが整備されており、数キロにわたって見事なまばゆい樹勢を広げていた。
その下で咲く、黄金の絨毯となった菜の花畑も大変に美しい。
瑞々しく主張する、青と白と黄。今日見てきたどの絶景よりも、その華やかさは抜きん出ていた。
同県に居ながら一度も訪れることはなかったのに、こうして最後に格別の名所を眺める日が来ようとは。
いずれ隣の恋人と歩ける日が来るといいな。密かな願望を胸に、私は去りゆく風景を網膜に刻みつけた。
「おつかれー」
昼食と買い物を駅ビルで済ませたのもあるだろう。現在の彼女の住居に着く頃には、陽が傾き始めていた。
地平線から広がり始めた紅色がにじんで、雲がほのかに色づいている。
ひと月前よりもずいぶん日照時間が長くなった。
時刻はそろそろ4時に差し掛かろうとしているが、まだ夕方の陰りは感じさせないほど太陽は力強く照っている。
夏日を彷彿とさせる熱気をはらんだ風は、すっかり冷え切って心地いい爽快感が首元を吹き付けていった。
「アパートで和室か。珍しいな」
日当たりが良い物件を選んだのであろう。
窓から差し込む西日に照らされて、室内は暖房を点けずとも十分な暖かさがこもっていた。
畳の感触と落ち着きをもたらすい草の香りに、懐かしさがこみ上げてくる。
「和室の物件自体、需要がないのか探すのが大変でね。あっても一部屋だけだったり、入居率が悪いからって洋室に改修しちゃったりで」
「ライフスタイルの洋式化が主流なのもあるか」
近年の新築物件の大半は、洋室での生活を想定した作りだ。
若年層では、和室そのものに踏み入った経験がない人も少なくない。所有している家具に合わせるとなると、畳にベッドやクローゼットは似合わないからだ。
年数が経てば木部の日焼けによって洋室よりも古めかしさが増してしまうので、次の入居者の立場で考えれば躊躇してしまう。
敬遠されてしまうのは仕方がないと言えた。
「気に入った?」
「ここを帰る家にしたいほどには」
少し大げさな表現を加えると、ほんと畳好きだねーと肘で脇腹をつつかれる。
「なら良し。諦めず探した甲斐がありましたな」
デートの会場は好みに合わせたかったからね、と少し寂しそうな目で彼女が天井に首を向ける。
そう、すでに彼女に規則の説明はしてあるものの。
警察学校の生活は刑務所並みに自由がない。
届け出を提出すれば土日の外出は可能ではあるが、外泊は不可能。(実家・自宅を除く)
入校してから数ヶ月は、外出許可すら下りない。
携帯電話の利用も、入校ひと月めは教官室に保管され完全禁止。
規制が緩和されても平日は使用できない。なので、公衆電話の前に行列ができる。
学校生活も卒業まで耐えればいいというわけではなく、交番に配属後も寮での生活はしばらく続く。
異動先によっては、激務でなかなか連絡が取れない話もよく聞く。
最低数年は、まともに会えない覚悟は必要であった。
「会える日は、たくさん過ごそう」
「うん」
いつになるか分からない約束を交わして、お互いごろりと畳に寝そべる。座布団を枕代わりにして。
選んだ道をこれでよかったのかと振り返ることはしない。付き合う前から変更はない路線なのだから。
それに将来どちらかが倒れても支えていけるように、安定した仕事は必須だ。
「大学時代に一生分遊んでやることやりまくったと思ってたんだけど。欲は尽きないものですね。まーだ足りないって」
「瓶のふちいっぱいに水を溜め込んでも、やがては蒸発するだろう」
遠回しな表現に、ああ、と彼女が納得いったように拳を手のひらに打つ。
「男の恋は名前をつけて保存、女の恋は上書き保存なんて言うけど。実際は名前をつけて上書き保存だと思うんだよね」
向かい合った彼女が、耳にかかった私の髪を指で梳きながらつぶやく。
どんなに良い思い出を残したって、その記憶もやがては色褪せる。
時の流れは何よりも残酷だ。変わらない人の感情など存在しない。
一生ものの友情も、永遠の愛も。どれだけ素晴らしい言葉や贈り物に誓ったところで、補償はどこにもない。
その人との絆を大切にしたいと願い、積み重ねなければ。心に留まり続けることはできない。
円満な夫婦が長年連れ添っていられるのは、日々互いへの愛を更新しているからだ。
「…………」
すぐ目の前にいる恋人に焦点を合わせる。
きれいだな、と自然に声が出ていた。
「そりゃどーも」
言葉自体は素っ気ないが、声には温かさがこもっている。
もっと言ってもいいんだぜ、と白い歯をのぞかせ彼女は額を小突いた。
そんな動作ひとつひとつが愛らしい。何をなさってもお美しくあらせられますね、などと茶目っ気を混ぜてみた。
「いひひ」
口元を緩ませて、けたけたと無邪気な調子で彼女が笑う。
照れているのか、嬉しさを噛み締めているのか。表の顔は常に澄まして余裕の笑みを絶やさないぶん、こういった顔はごく親しい人にしか見せないのだと最近気づいた。
親しい人か。本当に、私は幸せ者だと思う。
私が語るまでもなく、彼女は外見的にも内面的にも魅力にあふれている。
だからこそ、不安の影が差してしまうのだ。
きっと私が思っている以上に、彼女に恋い焦がれて機会をうかがっている有象無象はごまんといるだろう。
明日からはまともに会えなくなるぶん、今だけでも深くつなぎ止めておきたい。
「どした?」
「いい、ですか」
にじみ出した黒い霧を払拭するように。手を伸ばして、両頬を固定する。
「やっとそういう流れになりましたねぇ」
彼女は待っていたかのように畳に散らかっていた髪を手櫛で整えると。合図のごとく静かに目を閉じた。
何もこれが今生の別れになるわけではない。そもそも遠距離恋愛自体は2年前の留学で経験している。
なのに。あの頃とは比較にならないほど、今は彼女を求める気持ちに収まりがつかない。
「ん…………」
膨れ上がりつつある寂寥感を、口づけで押さえつける。
色素の薄い髪の毛と肌を差し入る西日に透かして、ほの赤く色づく彼女へと。瑞々しく艶めく唇へ、誘われて。
昼と夜の境目は穏やかな静寂に包まれていて、永遠にも思えるような不思議な錯覚を呼び起こす。
このまま時が止まってくれればいいと思った。
こうして寝っ転がって、唇を重ねて。2人だけの世界で、いつまでも微睡んでいたい。
「っ、ん」
もう少し、深く。わずかに舌先を潜り込ませて、下唇をなぞる。
今はここまでにしよう。
もっとしたくなる衝動を抑えて、私は身体を引いた。
すんでのところで踏みとどまれた。心臓は激しく脈を打っていたが、このままタガが外れれば寝食も忘れて獣のようにまぐわいかねない。
何より、畳の上でそのまま事に及ぶのには抵抗があった。
「…………」
しないの? とでも言いたげに唇を尖らせて、不満そうに彼女が唸る。
寝る前にしよう。そうなだめて、少し乱れている前髪を梳いた。
するすると伝わる、なめらかな髪質が指に心地いい。
「そういうとこは真面目だなあ君」
「人の家に厄介になっている身だから」
「ま、いいけど。ちょうどお腹も空いてきた頃だし」
せっかくの旅立ち前夜だし出前にすっかー、との提案を受けて夕食は寿司に決定した。
到着までの間、2人でせっせと家事を進める。
彼女は洗濯物の取り込みを、私は風呂の準備を。
初めて訪れた住居で当たり前のように家事分担していることに、遠き未来の光景をフライングしているようで心の中で苦笑する。
長いな、今から。
永遠に思えた夕暮れ時もすっかり日が沈んで、辺り一面が深い紺色に包まれている。
ブルーモーメント、というらしい。たった数分だけしかお目にかかれない、神秘的な逢魔ヶ時。
外の空気を取り込みたくて、少しだけ窓を空けた。
陽はまた昇る。この幸せなひとときにも、やがては別れの朝が来る。
寝る時間すらも惜しい。今夜はずっと、彼女の傍に寄り添いたい。
涼しい風に吹かれて、宵の口を眺めつつ私は夜更かしの覚悟を決めた。
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