【A視点】大晦日の姫始め(前編)

・SideA


 私達は新年に向けて準備をしていた。

 実家にいた頃はせいぜい、玄関にしめ飾り程度で年を越していた。


 だが、今年は恋人と過ごす初めての新年。

 最初は特別な思い出にしたいと、日本人の3割ほどしか知らないような古来の伝統行事に倣ってみることにしたのだ。


「叩けば埃が出るって言うけどさ。すみずみまで掃除すると分かるね」


 うっすら汗ばんだ額をぬぐって、彼女が大きく膨らんだゴミ袋の口を結んだ。

 同意しつつ、私も汚れを落とした雑巾を固く絞る。


 私は住んでから1年未満、彼女はまだひと月程度。

 大掃除程度すぐ終わると踏んでいたのだが、なんだかんだでお互いの家を行き来していたらまる2日ほどかかってしまった。


 しかし、億劫でも掃除の習慣を叩き込むのは大事だ。


 親にしてもらって当たり前だったことが、いざ独立すると身についていなかったなんて人はごまんといる。

 だからゴミ屋敷なんてものが生まれてしまうのだから。


 1日目は不要なものの整理整頓、2日目は担当箇所の掃除。

 普段おろそかになりがちな窓・洗面所・キッチン周りは念入りに掃除して、気持ちよく1年を迎えられるように。


 なお、大掃除は最低でも大晦日の前々日までに終わらせるのが原則らしい。

 正月飾りも同様とのこと。


 理由は年神様を迎えるための神聖な準備であるため、前日や当日に出すことは軽んじているとみなされるためなのだとか。


「とりあえず、ゴミ出しはこれで全部かな」

 思った以上の量となった古雑誌をビニール紐でしっかりまとめて、重そうに彼女が玄関へと運んでいく。


「こっちもそろそろ」

 エアコン本体の水拭きを終えれば、ひとまず掃除リストのチェックは完了となる。


 あらかじめ担当場所・掃除箇所をリストアップしておくと、目に見える形で進行度が分かる。

 終わりの見える掃除は捗るというものだ。


 一通り家から汚れを祓ったら、簡単ではあるが飾り付けを。


 門松……は賃貸である以上大きいものは置けないので、安く買えるミニチュアサイズのものを。

 玄関の下駄箱の上にそっと飾って、それっぽさを演出することに。


 百均で買ってきた餅花と椿(造花)を花瓶に挿して隣に添えたところ、より正月らしさが深まったと思う。


 達成感からスマートフォンを構えた。

 映え写真、と呼ばれる一瞬を収めたくなる人たちの気持ちも分かる。


「実家から凧揚げ送られてきたんだけど。飾れってことかいな」

「ああ、いいかも」


 見た感じ、正月飾りを意識した凧のようだ。

 カーテンに吊り下げるか迷ったが、壁に貼り付けることにした。ありがたい贈り物である。


 鏡餅はあいにくと神棚も床の間も仏壇もないので、キッチンへ。

 鏡開きに備えて、小槌も隣へ添えておくことに。


 最後にしめ縄、というか玉飾りを玄関のドアにぶらさげる。

 ひとまず飾り付けはこんなところであろうか。

 これらの飾り物は小正月に神社に納めると焼いてくれるようで、忘れないように手帳に書き留めておく。


「おつー」

 買い物から彼女が帰ってきたタイミングで、なんとなくハイタッチを交わす。

 飾り付け中、彼女は食材の買い出しに出かけていたのだ。


「何年ぶりだろ。こんなガチの正月準備したの」

「慣例と分かっていても、実際に行動に移すのは時間がかかるものだな」

「あんたがいなかったら、多分餅だけ食ってだらけてたと思うわ」


 だからけっこうわくわくしてるよ、と彼女はスマートフォンを掲げた。

 自身の家の飾り模様を見せてくれる。

 撮り方か加工が上手いのか、モデルハウスのような写りにセンスを感じた。


「でも年賀状は書かんけどね」

「LINEで事足りる時代だからな……」

「うちの親が毎年筆ぐ○めで作ってた時代が懐かしいよ」

 友人知人に住所を気軽に聞けなくなった風潮もあるだろうが。


「あと、最近のスーパーってほんと先手商売だよね」

 肘にぶら下がったエコバッグを眺めて、彼女が恨み節を吐いた。


「三つ葉やかまぼこが高騰するのは知ってたけどさ、正月価格にクリスマスからちゃっかり値上がってんの。だからってそれ以前から備えたら賞味期限持たないし。こすっからい商売してんなと思うわ」


「ドラッグストアだと、案外値上げしなかったりする」

 実際、親はそこを狙い目に蕎麦やうどんもまとめて買っていた。


「その情報買い物前に聞きたかったわ」

 来年からはそーする、と彼女は落とした肩を上げてキッチンへと向かっていった。



 それから数日が経過して、いよいよ今年最後の日がやってきた。


 今日は彼女の家で。

 解禁したこたつに足と手を突っ込んで、朝からのろのろと総集編のドラマを見ている彼女の背中に声をかける。


「じゃあ、ちょっと走ってくる」

「いってらー」

 ここのところは朝が厳しい冷え込みというのもあり、私はランニングの日課を陽が高くなってからにしていた。


「掃き納めと、年の湯と、年越しそばと、年取り膳だっけ。大晦日にやることって」

「そう。全部を律儀にやる必要もないけど」

「この中だと昼間からやれそうなのは掃き納めかなあ。夜はお寿司取るし、お蕎麦は紅白やる頃に作ればいいし。除夜の鐘はライブ配信してるの観ればいいし」


「よろしく。本当に簡単な掃き掃除で大丈夫だから」

 ランニングウェアに着替えて、踵を返そうとすると。


「あ、ちょい待ち」

 呼び止められて、振り返ると彼女が手招きをしていた。

 察したので近づき、屈むと。


「はい。今度こそいってらっしゃい」

 額に唇を受ける。

 やる気を高めるおまじないみたいなものだ。


 幸せを受けたときの高揚感は、走り出したくなる気持ちと似ている。

 いつもより捗りそうだと私は緩む口元をこらえながら、玄関先へと向かった。



 今日は少し、ペースアップをしてみよう。

 ストップウォッチをぶら下げフォームを意識して、軽やかに地面を蹴っていく。


 走る途中で、またあの公園に差し掛かった。

 数日前、彼女と猫を見た場所であった。

 なんとなく気になって、ベンチを覗き込んでみる。


 いた。

 むきだしの枝を伸ばす桜の下。

 きなこ餅とあんころ餅のごとく、猫が二匹丸まって短い日照時間の温かさに包まれていた。

 彼女は近所の飼い猫と言っていたが、本当にそうなのであろうか?


 疑問に思っていると、いくつもの賑やかな声が公園に近づいてきた。

 小さい子供のものだ。冬休みだから遊びに来たのだろうか。

 私を横切って、ふと立ち止まる。


「お姉さん、あげに来た人?」

 小学生くらいの男女数人が、ベンチを指差した。

 手に持ったパックには、ぶつ切りのマグロの刺し身が置いてある。

 この子たちも餌付けにきたのであろうか。


「ううん、ただの通りすがりだよ」

 告げると、軽くお辞儀をして子供たちは猫のもとへ走っていった。


 縞模様の黒い子はひゅっと身を隠してしまったが、茶色の子は相変わらず香箱座りで目を細めて、じっと餌を待っている。

 子供の一人がきゃーさわれるーとはしゃぎながら、背中を撫で始めた。


 確かに、外で触れる猫は貴重である。

 くしゅっと猫がくしゃみを飛ばして、またきゃーと黄色い声が上がる。


 帰ったら彼女に報告するか。

 忘れないように胸の内に留めて、私は再び町中を駆け抜けていった。


「ただいま」

 返ってくる声はない。

 書き置きもないため、外出しているということはなさそうだ。


 アパート前の落ち葉はすっかり払われて綺麗になっていた。

 そこまで長い間外出していたわけでもないので、丁寧で早い仕事ぶりには感心する。



 客間に入ると、テーブルに突っ伏している彼女の背中が見えた。


 広げた新聞紙にうつ伏せになって、テレビも点けっぱなし。寝落ちと言ってもいい状態であった。

 テレビを消して、彼女の背中を軽くさする。こたつで寝ていては風邪を引くと。


「…………」

 微動だにしない。

 夜ふかしするため今のうちに寝ておこうということなのであろうが、せめてベッドに行ってほしかった。


 ぬくぬくと眠る彼女をこたつから離すのは忍びなかったが、風邪をひかれては困る。

 とりあえず抱えて、ベッドまで運んだ。

 電気あんかも入れたので、まあまあ温かいであろう。


 それにしても。

 ここまで眠りが深いなんてことはあったであろうか。揺すっても引きずっても何の反応もないとは。

 正月準備や試験勉強やらで疲労が蓄積していたのもありそうだが。


 掛け布団を肩まで掛けて、額を指でそっと撫でる。

 相変わらず息は安らかで、まぶたは固く閉ざされている。

 普段ならなかなかお目にかかれない寝顔に、つい引き寄せられていってしまう。


 そのまま、額へと唇を軽く寄せて。

 遅れて無意識にしてしまったことに勢いよく顔を上げた。


「(……何をしているんだ、私は)」


 今なら何をしても起きないのでは、とよぎったよこしまな考えを払いのける。


 よりにもよって大晦日に煩悩をたぎらせるなど。

 それも寝ている相手に向けて。なんたる不届き者であろうか。


 心の中で己を叱咤し、私は伸ばした手を引っ込めた。

 このまま美しい寝顔に見惚れていては、どうにかなりそうだったからだ。


「…………?」


 腰を上げようとすると、何かに引っ張られる感覚があった。

 振り返ると、彼女が服のすそをつまんでいた。


「遠慮しなくてもいいのに」


 寝起きとは思えないほどはっきりとした声で、彼女は見透かしたように囁いた。

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