【A視点】事後の朝

・SideA


 遠くで降りしきる雨の音がする。


 天候が悪い日は、なんとなく起きる前から予感がある。

 どこか肌寒くて、陽が差さないせいか空気が積もり淀んでいて。

 日課であるジョギングは、雨の日はお休みだ。


 今日は特に防寒対策をせねばと、眠気を訴える重いまぶたを擦って目を覚ますと。


「はよっす」

「…………」


 聞き慣れた声が、すぐ隣から聞こえた。

 毛布の中に人の気配はないので、つまり。


「おはよう……?」

 ベッドの横、私の顔を覗き込むように膝をついて、彼女が側にいた。

 今日はねぼすけだねーと忍び笑って、こちらの頬をつんつんとつついている。


「何故そこに?」

「寝顔見てた」

 朝から私の顔なぞ見て嬉しそうにしているのは、世界中でもこの人だけであろう。


「さっきシャワー借りた。ありがと」

「ああ……」


 ねぼすけと言ったものの、時刻はまだ6時を少し回る前だ。

 髪のセットや化粧に私の数倍は時間がかかることを考えると、いったいどれくらい前から起きていたのか。


 素顔でも十分すぎるほど人目を引く容姿でありながら、彼女はなかなかその状態での寝顔を見せてくれるほど無防備になったりはしない。残念だ。


 そこは、乙女の意地というやつなのであろうか。



「今日は1限から?」

「ああ」

「じゃあ、軽くだけど朝用意しとこっか? その間シャワー浴びてきなよ」

「ありがとう。悪いな」

「べつに。誘った流れで着所寝になっちゃったわけだし。これくらいさせてちょうだいな」


 いつもの平坦な声調だったので普通に聞き流していたが、誘ったと言葉にされたことで昨日の記憶がうっすらと蘇っていく。


 これまでの単なるお泊りとは違う。

 朝帰りとは、つまりそういうことであり。

 この先、もっとこの機会は増えていくわけで。


「なんだい」

 悶々とその場に立ち尽くす私に向かって、眠気さましてらっしゃいと彼女が軽く背中を叩く。

 一夜明ければ日常へと切り替えられる淡々とした姿勢が、今は頼もしく感じる。


 まだ、そういった意味での関係を結んでいないとはいえ。

 欲をさらけ出ししとねを共にしたところで、すぐに関係は変わるものではない。

 情事と日常は地続きなのだから。


 だけど確実に、進展はしている。

 生活の一部に新たな時間が組み込まれていくことに、私は嬉しさを覚えていた。



 湯を浴びて強制的に体温を上げたことで、ようやく眠気は薄れてきた。

 湯冷めしてはいけないので、少々暑いが防寒対策を施していく。

 重ね着と、貼るタイプのカイロを忘れずに。


 カーテンに遮られた窓を見やる。

 小雨であることを期待したが……こじ開けたカーテンの向こう側は薄暗い。


 大雨と言うほどではないが、絶え間なく降り注ぐ雨音が止む気配はない。

 洗い流されたかのように、綺麗さっぱり散らされた枯れ葉がアスファルトへと広がっている。


 雨天を見たのは約2週間ぶりではあるから、自然にとっては恵みの雨であるのだろうが。


 テレビのDボタンから見れる天気予報では、この地域は夜まで雨のマークが続いている。


「さっむ。今日10度もいかないんかい」

 手をすり合わせて、とても億劫そうな声色で彼女がテレビを睨みつけた。


 カイロいるか、と勧めたら背中と腰と腹と両足に装着しているので大丈夫だと自慢気に主張された。

 寒がりであることは知っていたが、そこまで貼っていると低温やけどが心配になる。


「ご飯できてるよ」

「じゃあ、頂こうかな」


 食欲をそそる朝食の香りが漂う。

 こんがり焼けたトーストと、カリカリのベーコンに添えられた半熟目玉焼きの黄身の色がまぶしい。

 箸休めのキュウリの浅漬け、三つ葉の爽やかな緑が映えるかきたま汁といった組み合わせも良い献立だと思う。


「……あれ?」

 食卓に並んだ、湯気を立てる二人分の朝食に首を傾げる。


「まだ食べてなかったのか」

 私より早く起きているはずだから、おそらく2時間近くは経過している。

 食パンや買い置きのカップスープとかであったら勝手に頂いてもいいと、前に言っておいたのだが。


「一緒に食べたかったからね」

 テーブルを挟んで言われてしまうと、それ以上は何も返せなくなってしまった。


 誰かと一緒にご飯を食べるということは、やっぱり心が温かくなるものだから。

 今日みたいな天気の日は、特に。



「さぼりたい」

 キュウリをかじりながら、不意に彼女がぼそりと漏らした。

 急に何を言うんだ。


「こういう日ってさ。おふとんにずーっとくるまっていたくなんない? 外がくっそ寒い中自分だけぬくぬくだらだらしてるの」

「ん……まあ」


 小学生の頃だったか。

 珍しく雪の積もった日に朝から熱を出して、こたつに籠もり教育番組を流しながらうとうとしていた記憶がある。


 風邪でろくに味もしなかったろうに、親の用意してくれたお粥がやけに美味しく感じて。

 みんなが授業を受けている間、自分だけが温かい空間に守られている優越感があるからだろうか。


 空から剥がれ落ちる綿みたいな雪を物珍しげに眺めて、冷たい窓ガラスに額と手を貼りつかせて、親から横になってなさいと叱り飛ばされる。

 今になって、昨日のことのように思い出すとは。


「二人でふとんの中でべたべたしてるの、なんかいいなって」

 まさか本当にサボるということはしないだろうが。

 こちらをじっと見つめながら言う辺り、いつかやってみたいとのニュアンスを感じた。


 堕落した淫蕩生活に引きずり込まれそうな提案ではある。

 が、そんな一日も悪くはないかなと思いかけている自分もいる。


「休みの日にな」

「そのうちねー」


 夜の営みがもっと進んでいけば、そうなる日は遠くない気がした。



 食べ終わった食器を手分けして片付けて、朝の支度を整えていく。

 彼女も家のことがほったらかしでそろそろ出なければということで、玄関まで見送ることに。


「うわ出たくねー」


 極寒であろう白い空が広がる外を一瞥して、彼女が身を縮こまらせた。

 家まではすぐの距離とはいえ、雨の日は自転車や原付通勤の人にとっては雨具越しに濡れて帰るようなものだ。

 顔をしかめるのも分かる。


「気をつけて」

 見送る側としてはそうとしか言えない。

 せめて出る前に体温をおすそ分けするべく両手を強く握って、控えめに手を振る。


「あ」

 靴を履いて、何か気がついたように彼女がこちらへと振り返った。


「どうかしたか?」

「忘れ物をね」


 そう言ってる割には焦るそぶりがない。


 取ってこいと命令するわけでもなく、自分から取りに行くわけでもなく、手を後ろに組んで身体を揺らしている。

 鼻歌まで漏らして。


 何がしたいんだ、と口を開こうとすると。


「ちょっとかがんでくれる? 15度くらいで」

 手招きする彼女を不思議に思って、とりあえず言われた通りに会釈すると。


「ん」

 首へと腕が回される。

 ふわりと彼女の髪の毛が頬をかすめて、額に柔らかいものが落とされた。


「つまり、いってらっしゃいのお守り的な」

 あははと誤魔化すように笑って、これを日課にしているご夫婦はご利益があるのだと科学的根拠がよく分からない話を彼女は始めた。


 するほどの仲なのだから家庭は円満なのだろうし、つまるところおまじないみたいなものなのか。

 毎日にちょっとしたやる気を出させるための。


「ありがとう。これで乗り切れる気がする」

 そこは断言しろよーと笑い飛ばす彼女に向かって、今度はこちらから返した。

 額に。


「…………」

 不意打ちだったため、じわじわと顔が紅潮しつつある彼女へと頭を下げる。


「じゃあ。頑張って」

「……やっぱ帰りたくない」

「駄目です。またのお越しをお待ちしておりますので」


 しぶしぶといった様子で、何度もこちらを振り返りながら彼女は玄関を後にした。


 さて、こちらもそろそろ出る準備をせねば。

 外は生憎の冴えない雨模様であるが、不思議と心は晴れ渡っている。

 今まで彼女を見送ったときも、ここまで気分が高揚することはなかったはずだが。


 案外、本当に効果があるのかもしれない。

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