【A視点】再び彼女の家に来た

・SideA


 次の日の夜、私は彼女の家に招かれた。


 以前訪れた際は護衛という名目で漫然と敷居をまたいでいたため、改めて今度お邪魔したいと思っていたのだ。

 積もる話もある。今はまったりと彼女との時間を愉しもう。


「ま、文字通り狭いとこだけどゆっくりしてって」


 目の前に、高そうな容器に入った緑茶が置かれる。

 飲食店勤務だからなのか。置く動作ひとつ取っても、様になっていると思うのは贔屓であろうか。


「ありがとう」


 少し空いた窓から室内に漂う夜風が、火照った体に心地良い。

 今日は日中真夏並みに暑かったから、夜でも多少の蒸し暑さを感じるほどだ。


「じゃ、さっそくですがご報告を」


 向かいに座った彼女が、事のあらましをかいつまんで話してくれた。


「……というわけなのでした。めでたしめでたし」


「…………」

「どしたー? 反応うすいぞー?」

「いや……なんだ、その、」


 とても返しに困っていた。

 口ぶりこそ淡々としていたが内容は想像以上に重く、かける言葉が見当たらない。胸の奥にずっしりと氷の塊が沈んでいるかのように。


「あー。うん、後味そんなにいいわけじゃないからめでたくはないか」


 私の煮え切らない態度を察したのか、彼女が慌てて場の雰囲気を切り替えようとする。白けた空気を産み出してしまった時の顔だ。


 何か言わねば。咄嗟に、総括のような感想を私は絞り出した。


「と、ともあれ。当事者を治す方針に持っていくのは良い落とし所だったのではないのか」

「現状それがベストだね。ただ、ちゃんと病院に行ってくれればいいんだけどね。受診率低いって聞くし。あの妹さんもこれから苦労するだろうけど」


 会話を引き出せたことに内心息をつく。


 例外はあれど、多くのストーカー加害者は得てして孤独を抱えている。幼少期の過酷な環境も加味するとさらに割合は高くなる。

 結果。被害者意識が根付くようになり、他害を正当化する認知の歪みが発生する。

 人は一度定めた価値観を他者に指摘されたところで、おいそれと直せる割合は少ない。自尊心があるからだ。強く否定されれば、却って意固地になる。


 自分は正しいのだという間違った言い分を辛抱強く聞き、理屈を持って少しづつ境界線を超えていたのだと理解させていく。それには途方も無い時間が必要だ。

 治すと軽く言ってしまったが、相手は心だ。物理で御せるものではない。

 果たして、件の客は悔い改められるだろうか。


「あの子もよく突き止めたよね。LINEで聞いたら逆にストーカーして、探偵込みで割り出したって言われたけど」

「……凄い執念だ」


 タイミングが良かったとはいえ。

 結果的に異例の早さで解決に繋がったのだから、深く感謝せねば。


「ちなみに、あたしやあの子に送ってたやつは客の私物なんだって。

なんで服やアクセなんだろって思ってたけど。真似っ子するときに成り代わるから、前に揃えた小物一式はもういらんってことで手放す理由もあったっぽい」


 つまり、その女性客はとっくの昔に自分を捨てていたということか?

 付き纏う対象の外見を模倣して、これが本当の自分なんだと思い込もうとする。一種の現実逃避だ。


「自分の生活を切り詰めてまでか。目的と手段が入れ替わってる気がするが……」

「そこもふくめて病気なんだよ。その特定するだけの努力を他に活かせていればねぇ」


 然るべき処置は決まった。これ以上外野が言えることは何もない。

 犯人の身の上話ごときで心を動かされてはいけないのに。どうしても、私にはその人が他人事とは思えなかった。


「他に何か聞きたいことはある?」

「無い、が……」


 今更、こんな心の整理みたいな心情を恋人へ吐露していいものなのか。私は迷っていた。

 しばし沈黙が続いて、じゃああたしから言っちゃうよーと彼女は人差し指を自分へと向けた。



「で。そういえばなんだけど、さ」


 彼女はふっと笑うと、思い悩む私に時間をくれるように語り始めた。


「ストーカーのこと。あたしは今回被害者側だったわけだし。さんざんキモがったけど、人のこと言えないなって」

「……何?」


 彼女も、今回の一件について思うところがあったのだろうか。一体どこを重ねたのだろうかと興味が傾いた。


「告った日とかさ。あれ、いきなりすぎたけど成就したから美しい思い出にはなってるわけよ。結果的にさ」

「あ、ああ」


 なぜ、今になってその話をするのだろう。


「でも、そうじゃなかったら? 友達だと思ってた人が実は前々から目を付けてて、自分に会うためにたびたび家に押しかけてて、酔った勢いで告られた。その状態で一泊させられた。

どう? めっちゃトラウマに聞こえるじゃない?」


「ええと……」

 肯定は口に出せなかった。

 が、対象を彼女ではなく別の人間に置き換えれば。

 確かに、そう感じるかもしれない。想像するとありえない、と否定の感情が先に来るからだ。


「そうなりゃ、あたしは単なるストーカー。初恋をこじらせた痛い奴。今回のストーカーは恋愛感情からではないけど、相手に執着するという意味では共通してるなって」

「……何が言いたいんだ?」


 自虐するなど、らしくない。

 言葉の裏を探ろうと心配そうな声調で訪ねると、変なこと言ってごめんねと彼女は手を握ってきた。


「ときどき、不安になるんだ。こんなに幸せでいいのかって」

「…………」


 握った手に力は込められていない。振りほどこうと思えば振りほどける強さだった。まるで、今の揺れる彼女の心を表しているかのように。


「結ばれるはずがないって思ってた。片思いって実らなきゃ、恋人どころか以前と同じ関係には二度と戻れないんだもの。分の悪い賭け」


 いつの間にか、彼女の瞳にはうっすらと光るものがあった。

 それは無理やり釣り上げた口元の側を伝っていく。血の代わりに流れる、熱い涙。傷つけているのは、彼女自身だ。


「自分の好きな人が自分を好きでいてくれるって、すっごい奇跡だなって。なんか、今でも夢みたいに思うんだ」

 心を裂いて溢れ出る雫を拭おうともせず、彼女は突き刺さっていた己が内の言葉を引き抜いていく。


「幸せなことだけ考えられればいいのに。思えばあのときのあたしはストーカー紛いだったなとか、痛かったなとか、叶わなかった未来がよぎることもあって。

なんで。こんなことあんたに言ってもどうしようもないのに。止まらないんだ。あたし、何がしたいんだろうね」


 かつて私も抱えた疑問だ。おそらく彼女は、今の自分の心が分からない。

 私がやるべきことは、無造作に引き抜かれて開いていくだけの傷口を止めることだ。



「夢じゃない」


 現実だ、私を見ろ。そう言い聞かせるように、私は向かいの彼女へと歩を進めると。

 半ば強引に彼女のおとがいを引いて、顔を覗き込んだ。


「っ……」

 重ねた。

 同意なしの乱暴な行為であったが、今は目を覚まさせてあげたかった。夢にも勝る強い記憶を刻みつけたかった。

 思えば最初のときは酒が入っていた状態だったから、それこそ夢の中の出来事に思えたのかもしれないが。


「…………」

 吐息が触れるほどの距離。目が合う。涙に濡れ光る瞳が、はっきり私を映し出す。

 一応聞いた。


「今、その気じゃないならまた日を改める」

 言い終わらないうちに、彼女は髪を横に強く振り乱した。

「やめないで」

 今はあんたのことだけ考えさせて。切羽詰まった口調で囁かれる。繋ぎ止めるような、懇願。


 返事の代わりに、再度唇を塞ぐ。

「…………」

 華奢な肩を抱き寄せる。身を委ねるように彼女の力が抜けて、背後のソファーへともたれかかった。


 数分が経過した。

 押し当てているだけの行為であったが、やがて胸元辺りに添えられた手が落ち着きなく服を引っ掻く。振りほどこうと彼女の頭も揺れた。苦しいのであろうか。

「は…………」

 唇を解放すると、荒い吐息が漏れた。頬を真っ赤に染めて、浅い呼吸を繰り返している。

 大丈夫か、と声を掛けると。


「あんたの、せいじゃない。あたしが、息の仕方、わからなくなった、だけ」

 途切れ途切れに彼女は言葉を接いでいる。

 とりあえず背中をさすってあげた。

 ありがと、とか細く声が届く。そのまま私は、彼女が息を整えるのを待った。


 少し経って、頬の赤みが薄れてきた彼女が自身の唇に指で触れた。私に視線を向けると。

「……柔らかかった」

 面と向かって言ってくるものだから、今更ながら己の行為を思い返して羞恥に頬が熱くなっていく。


「頭、ふわふわでさっきからずっとぼーっとなってて。腰、抜けてるし。何これ。どうなってんだ、あたし」

「……私のことばかり考えているからではないのか」

 少しからかってみたくなって、私は軽く彼女の額を小突く。うー、と彼女は子供のように頬を膨らませると。


「む」

 今度は彼女から顔が近づいてきて、再度唇が触れた。

 触ったというか、掠ったというか。さらっていく感じの接吻であった。


「……はじめて、だからね。これ」

「え」

 経験、なかったのか。今まで。意外だ。


「無いんですー。恥ずかしながらー。悪いか、このー」

 照れ隠しのように手が伸びてきて、両頬を軽く引っ張られる。

「てか、なんでそんなスムーズにいくの。みんな。歯とか当たりそうで怖くないの? 狙いを定めるのムズかったんだけど」

「射的みたいに言うな」


 これだけ綺麗な人なら慣れたものだと思っていたが、まさか。そんな初な人に。

「……まじだよ? あたしそんな軽くないから」

「信じる」


 確かに、先ほどの発言と合わせれば納得はいく。

 己が初めての人だという嬉しさと、もっと優しくしてやればよかったという相反する感情が渦となって押し寄せてくる。まともに顔が見れなくなってきた。


「むしろ。君はどこで覚えてきたのさ。そんなドラマじみたちゅーを」

「どこって」

 経験なんぞあるわけがない。記憶を頼りに見様見真似で動いているだけだ。

「……なんでそのへんハイスペなんですか」

 頬肉をつまんでいた片方の手が離れて、唇に軽く指を押し当てられた。


「ところで、なんか言いたいことあんじゃなかったっけ」

「そう、だった、な」

 彼女が思いの丈を告白したことで、言いやすくなったというべきか。もう隠さなくてもいいだろう。


「今回の犯人の詳細を聞いて思ったんだが」

「うん」

「重ねてしまって。他人事とは思えなかった」

「……どこが?」


 犯人は、容姿に劣等感を持っていると聞いた。だけど、愛されるための努力を続けていた。何もせず愛を渇望していたわけじゃない。

 なのに、誰一人として振り向いてくれることはなかった。

 結局、自分の人生は産まれた瞬間に決着が着いていたのだと。その人は奈落の底まで突き落とされたに違いない。

 積み上げた努力がまるごと無に帰したのだ。人生を全否定されたと嘆いてもおかしくない。


「あれは、私の可能性の一つだったかもしれないと。そう思ってしまったんだ」


 私も、何度己に絶望したか分からない。

 親は別け隔てなく接してくれたものの、世間は馬鹿者と醜い者には冷たい。世の常だ。


 世界から優しくされなかった者が、一方的に世界に優しいはずなどない。誰かが唱えだしたこの言葉は言い得て妙だと思う。

 愛とは満たされた者から産まれる余裕であり、端から器が空の者には生み出す以前の問題なのだ。


 やったことは許せることではないとはいえ、私は、この人のいびつさに共感できてしまった。

 自分なんて生涯誰にも相手にされるわけがないと割り切りながらも、どこかでそんな人が現れる日を待ち望んでいた。

 ……私の場合は加えて外見的努力もしていなかったのだから、その犯人以下であろうか。


「あなたの好意は一方的なんかじゃない。そのおかげで私は変われたんだ」


 私は彼女の手を取った。痛く思わない程度に、固く握りしめる。意思の強さを伝えるように。

「ありがとう。ずっと好きでいてくれて」

 きっと、彼女が隣にいなければ今の私はありえなかった。誰かを愛する優しささえ芽生えなかった。そのまま、心まで醜く捻じくれていただろう。


「…………」

 彼女は私を見つめ返してきた。

 その瞳にはいつもの輝きが戻っていた。仄暗い空へと射す強い光を放って。

「……なーんだ」

 いつもの軽い調子で、さらりと彼女は言う。

「ある意味、相思相愛だったんだ。あたしたちって」

「そうだ。奇跡なんかじゃない」


 もうその発言は忘れてよ、と笑い飛ばしながら握った手が上下に振られる。

「似た者同士? それとも、この場合お似合いって言えばいいのかな」

「……み、見た目を含まないのであれば」

「そこでへたれるなよ」


 歯並びのいい白い輝きをちらりと覗かせて、美しい顔がほころんだ。心からの笑顔だった。


 もろもろの行為で互いに熱が籠もっていたので、私達は涼むためベランダに出た。手にしたグラスを空へと掲げる。


「では、ひとまずの事件解決を祝って」

「うちらの今後も祝って」

 甲高い音が、深く静かな闇に消えていく。空には見事な輝きを放つ満月が掛かっていた。


 少し早い、月見の夜だった。

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