【A視点】そして彼女が来た
・SideA
母親が実家へと帰って数時間後。
日も暮れて、そろそろ夕飯の準備に取り掛かろうと思っていた矢先のことだった。
彼女から突然の連絡があり、私は今日の予定が全部吹っ飛ぶほどの衝撃を受けた。
明らかに只事ではない。
尾けられてて、今家には帰れない。助けて。
掠れた声からは、尋常ではないほどに怯えている様子が感じ取れた。
一体、何があった。
スマートフォンと窓の外を交互に眺めながら、私は続報を待っていた。もう1時間もこの調子である。
はっきり言って焦るだけ時間の無駄ではあるが、他の何かに気を回せるほどの余裕などなかった。
今すぐにでも駆けつけに行きたかった。が、仮に駅で待ち合わせしようものなら、いつ件の付き纏い犯が身を潜めているか分からない。
多少時間はかかるがタクシーでそちらに向かうと彼女が言ったので、言葉通りに従うことにする。
「…………」
とても落ち着かない。
今日ほど自家用車を持っていないことを悔やんだ日は無いであろう。待つだけしかできないこの時間が、こんなにも歯がゆいなんて。
そうだ、泊まるのであれば最低限風呂の支度くらいはせねば。
当たり前の手順に今頃辿り着き、胸ポケットにスマートフォンを忍ばせつつ私は浴槽を洗い始めた。
洗い流して湯をセットし始めた頃、通知音が鳴った。手の水気を拭き取るのもそこそこに、急いで液晶に目を通す。
『もう着くから』
映し出された6文字に心臓が早鐘を打つ。どうか無事でいてほしい。
すぐ近くまで来ているということが分かれば、居ても立っても居られなくなった。
そっと靴に足を通し、玄関を静かに出る。
多少の肌寒さを感じる暗闇の中、私はただ一つの明かりを待った。
やがてLINEの投稿時間から数分を過ぎた頃、待ちわびた光が舞い込んできた。
ここの路地の入り口。確かにタクシーと思しき影が止まった。
数度ランプが点滅したのち、車体は去っていった。
残された一つの影は、こちらに気づき駆け寄っていく。こんな真っ暗闇の中でもその姿は見間違えようがない。
長い髪が翻り、彼女の香りが舞った。
「ごめん、心配かけて」
小声で囁かれる。ううん、と私は頷き彼女の手を引いた。冷え切った指先だった。
包み込むように握って、私は背後へと回った。安全に玄関へと招き入れるためだ。話したいことは山ほどあったが、お喋りに興じるにはまだ早い。
鍵を回して、チェーンを忘れずに掛けた。
途端に私の中で何かが決壊しそうになった。
無事で帰ってきてくれた安堵に、張り詰めていた想いが溢れ出たのかもしれない。
「ちょ、」
ほとんど反射的に抱き寄せた。髪も、上着も、触れたどこもかしこも冷たい。
家に帰れずどれほど心細い思いを抱えていたのだろう。己の体温を分け与えるがごとく、さらに回した腕に力を込めた。
「……あったかいね」
「冷えすぎてるからだ。風邪、引くぞ。このままだと」
「あんたも。引いちゃうよ」
あたしに触ると風邪引くぜ、と彼女はどこかで聞いた台詞を変えてからかうように言う。
「……あっ」
腕の中で彼女が声を上げた。忘れたことを思い出したような、突拍子もない素の声調。
どうかしたか、と問うと。
「そういえばお母さん来てたよね」
「問題ない。親ならもう帰った」
「ならよし。……じゃなくて。ほんと、なんかごめんね、あたし」
心の中で整理して発言するほどの余裕もないのか、彼女は思いついたままに感情を発している。
滅多に見せない隙というか弱みを曝け出しているのは、彼女なりの甘え方なのだろうか。
「何への謝罪?」
「あんたに。あたし、甘ったれてばかりだ。いくらメンタルやばかったからって、まったく無関係のあんたに慰めてもらいたくて、あんな不安にさせるようなこと言って。そもそも、この手の被害に巻き込もうとするなんて」
「そうやって、一人で抱え込みすぎるな」
戒めにも似た気持ちで、私は軽く彼女の頬肉をつまんだ。痛くしない程度に引いて、再度背中に腕を回す。
今、ようやく気づいた。
どうして不定期に私のもとを訪れていたのか。いずれの時間もバラバラだったのか。
意図的に帰宅時間をずらしていたのだ。電車に乗る時間や帰宅ルートを探られないように。
前回慣れない酒を煽っていたのは、もしかするとストレスを溜め込んでいたのか。
不運にも今回は相手の執念が深く特定される結果になってしまったが、ともかく。
「辛い時に頼ってもいいんだ。その為に私がいる」
できる限り力になりたい。支えてあげたい。それに足り得る伴侶であり続けることに、全てを尽くす。
その覚悟をもって、側にいると決めたのだ。
「少なくとも、私は嬉しかった。頼ってくれたことに」
心の支えにおいて第一に信頼されていることに、私は烏滸がましくも優越感を覚えていた。
不安に押しつぶされそうになる裏で、恋人としての役目の一つが回ってきたことに気分が高揚していた。
だからこそ今は、存分に甘えてもらいたかった。
「……そっか、そうだよね」
安堵の息を吐いた彼女が、まっすぐ私を見据えて、辿々しく笑いかけた。
「ありがとう。あんたが側にいてくれて、本当に良かった」
だから、もうちょっとだけ甘えさせてね。
そう言って、彼女は私の服に顔を埋めた。猫が頭を擦り付ける仕草を想起させた。
そんな光景を連想したためなのか、思わず手が伸びる。整えた髪を崩してしまうと悪いので、添えるだけ。美髪が誇る滑らかな感触が指に心地いい。
そのまま私達は玄関先で抱擁を交わしていた。
なお、給湯を知らせるタイマーはずっと鳴り続いていた。
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