第19話 十文字老

 杖を地面に突きつけるのとほぼ同時に、花が綻んだ。薄紅色の花弁が宙を舞い、地面を青白い花が埋め尽くす。黄金の蝶が歓喜と共に飛び回る。

 ありとあらゆる季節の花が咲き乱れる、終わらぬ豊穣を示す庭。今は遠い日溜まりの国。


 それを切り裂くように、聖なる光が煌めいた。

 百合の花から発されたとは思えないほどの光が市街地を灼くよりも前に、胡蝶の楽園がその光を受け止める。

「ぅ、ぐぅうううう!!」

 血管が切れた。魔力に身体が耐えられない。押し倒れそうだ。自然という膨大な存在を前に、人間はあまりに無力すぎる。


 けれども耐えなければ。

 耐えきらなければ。


 自分がここで折れたらあまりに多くの人々が死ぬ。そんなの、望んだことはない。

「ああああああ!!」

 絶叫する。人形の作り物の身体が焼かれていく。でもダメだ。諦めない。だって彼はいつだって諦めない。こんな時でも笑ってみせる。


 血が吹き飛ぶ。神経を焼かれて絶叫。

 花が飛び散る。枯れる。でも楽園が決壊すれば人が死ぬ。嫌だ。そんなの嫌だ。望んでない。春は今も穏やかに。諦めてもなおたおやかに。


 耐えかねたように楽園が碎けるのを感じた。

 圧もなくなり地面に倒れ込む。

「胡蝶ッ!!」

「…………被害報告」

 掠れた声でそう命ずる。身体があまりに重くて痛い。使った魔力量に肉体があってなかったのに暴走しなかったのは僥倖だ。鼻血を手のひらで拭う。

「は、はいっ! 全区域、無事無傷です……お疲れ様です」

「……よし。他に異変がないか調べて」

「ボス、すみません。お忙しいところですがその異変が」

「…………なに」

 内蔵も損傷したのか口から血が出ていた。満身創痍すぎて不安になる。だが報告を聞かないわけにはいかない。


 報告すると告げた隊員はいつまでも黙っている。

 不自然な沈黙だ。おかしい。何故彼はなにも言わない?


 咳をして血反吐を吐くと、汚れたハンカチをゴミ箱に捨てて立ち上がった。気に入っていたハンカチだがこう言うことは時々あるので仕方ない。

 とはいえ、立った地点で隊員が報告しようとした異変に気がついた。


「…………なるほど。はじまりましたか」

 その言葉を肯定するように、視線の先、先ほどまで魔力で構築された百合があった場所には――見たこともない魔力防壁が築かれていた。


***


 無事だった計器の全てをその場に向ける。非戦闘員には破損した計器の修理を頼み、アゲハの機能を急速に復旧させていく。

「あれはなんすかね」

「……異界の殻でしょうね」

 反論がないのを見る限り、彼もそう見ていたらしい。


 本来、異界と現実世界との境界線には鏡面結界と呼ばれる特殊な結界が張られる。あれもその一種だが……。

「桁違いだよ。あの結界は異界の結界だというのに可視できるほどに魔力量が高い。加えて内部の現実性指数が極端に低い。正直、潜りたくはないね」

「……けど」

「そう。あの異界、呑んでるんだよねえ」

 困った。あまりに困った。


 異界には良いものと悪いものがあると言ったが、悪性の異界と判別するための基準のひとつとしてズバリ、侵食性がある。

 現実世界を蝕む毒。異界を放置すればそれらはゆっくりと成長し、現実世界を丸々書き換えるのだ。墓標異界にはそれがないから放置されているだけのこと。


「……でました。学園、国連、六花と協議した結果、異界侵食が開始するまでのタイムリミットは残り二十四時間だそうです」

「一日か……」

 夜蝶がちらりとこちらを見やってくる。

「専門家から見てこの数字はどうなんすか?」

「……短くはないが、コンスタントにものを進めていく必要がある。争われたらあっという間だ。大抵の人が思ってるよりも二十四時間っていうのは短いものだよ」

 推測される時間が二十四時間とは。

 ずいぶん短いものだ。侵食速度は異例な早さと言っても良いだろう。


「……夜蝶。いつものように、優先的に潜界できる権利をもぎ取ってこい。今回は学園の生徒も一緒に潜れるようにしてくれ」

「はいはい。人使いが荒いんだから」

「……あと、しのと連絡を取れるように図ってください」

「分かった。なるべく頑張るわ」

 夜蝶の姿が黒い蝶の影となって霧散した。やることはあまりに多い。けれども今は、戒那に会いたかった。

「…………我ながらあまりに弱い」

「ほっほっほ。そのようには思えませんがのぅ」


 聞こえた声に驚きと共に振り向く。

 執務室の扉を開いて立っているのは一人の小柄な老人だった。枯木のようなその姿と中折れ帽子……良く見知った影に慌ててお辞儀をする。

「お久しぶりです――十文字老」

「そうかしこまらないでください。私は今日はただの十文字 久としてこの場を訪れたのですから」


 老人は変わらずに和やかな笑みを浮かべている。言っている意味が分からずに困惑していれば、机の上に札束をおかれた。

「胡蝶殿。お願いがあって私はこの場へ足を踏み入れました。どうかお願いです、嗣音を、私の孫を助けてください」

「嗣音……?」

「ええ。例え血が繋がっていなくとも、あのこは私の大切な孫なのです。なにとぞ、お願いします」

「……………………は?」


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