第37話 胡蝶とレム

 正直に言えば、レムにとっても胡蝶はどうでもいい。

 その辺を這っている虫か、或いはそれに類する存在。その程度の存在認知。どうでも良くて、面倒くさい。


 だが、彼女に敵対してきた人々の末路を知っている以上は……彼女に積極的に喧嘩を売ろうとはならない。無関心ならば無関心なりの距離感があるのだ。


 曲がりなりとも姉として、レムはその距離感を熟知している。


 だから笑みを浮かべつつ次の話題に移ることにした。

「胡蝶ー。ところで胡蝶のところに神之瑪 戒那がいるってえ……ほんとぉ?」

「……」

 答えない様子から見るとどうやら本当のようだ。

 お行儀が悪く音を立てながらティーカップの中身をかき混ぜる。

「いいなあ。羨ましいよ。またしてやられたともいうけどね。アゲハが彼を率いれたせいで〈黒い森シュバルツバルト〉の評判はガタ落ちだ」

 シュバルツバルトはレムが経営している警備会社だ。

 胡蝶のアゲハを見よう見まねで作った会社で、実際には今日のような商人紛いのことをしてあるいている。メルカトラ家の研究成果を売り捌く闇の商人、といった方がレムにとっても馴染み深い。


「シュバルツバルトはさあ、傭兵が多く登録してる人材派遣会社でもあるんだよ? なぁのに一番人気の彼を奪われて、本当に評判がガタ落ち。まあ、元々うちに所属してないけどね、彼」

 戒那は傭兵としてとても高名だった。

 彼ほどの傭兵は他にいない。当然シュバルツバルトに入るだろうとさえ言われていたほどだ。

 その事を今も口惜しく思う。

 勿論、彼は勧誘を三度も断ってるわけだが、それはそれ。レムにとって大切な事実はそれではない。

「ねえ、胡蝶」

 胡蝶は答えない。新しい足を接続してぶらぶらさせて遊んでいる。


「彼、ちょーだいよ」


 言葉を発し終ってからか、それとも発している間からなのか、定かではない。瞬発的に視界が点滅を繰り返す。


 気が付けばお茶会は完全に砕かれ、レムの首は胡蝶の影から延びる液体状の銀に似たモノに掴まれていた。

「ッ……」

「今日は珍しくよく話すじゃないですか。暇なんですか? レム」

 問いかける形式をしていたが、全く訊くつもりもないという声にレムは苦笑した。


 無関心ならば無関心なりの距離がある。

 それはそうだろう。だがレムは無関心すぎた。あまりに関心がないからこうして地雷を踏みぬいた。


「……こ、れじゃあ、家庭内DVだよ、胡蝶……」

「ええ、そうかもしれませんね。でも安心してください。――貴女がここに来たという痕跡もろとも地上から消し去れば良い話だ。そしてオレがそれを指示してから完遂するのに三日もかからない」

 おちゃらけた返事に笑いもせず、胡蝶がイヤーカフに指を添える。不味い。本当に怒ってる。曲がりなりにも非難したのに取り合ってさえくれない。下らないジョークにしてくれない。


 いやそれもそうか。家庭内DVなんて胡蝶とレムにはあまりに相応しくないけど……無いけどさすがにこれは。

「……わかった。ワタシが」

「マダム・ホワイト」

 胡蝶の唇が可憐に固有名詞を口にする。

 それはレムもよく知っていた。なるほど。自分の間違いを改めて認識する。

「これを私の領域で流通させた人間が誰なのか、既に私が分かってるとは思ってなかったみてえだな」

「く、口が悪くなってるよ……」

「レム?」

 彼女は優しく甘い声で囁いた。

 倒れていた椅子とテーブルを元に戻し、傍らにあった別のティーポットから熱々の紅茶を注ぐ。注いでいる。


 甘く優しい、骨の髄までとろけてこぼれ落ちそうなほど甘い声……骨の髄までとろけ落ちたら最後、見るも無惨に肉体ごととろけ落ちるわけだけど。


「私は別に良いんですよ? この足の価格を十分の一は愚か、百分の一まで相場まるごと値下げるのも、貴女がマダムホワイトの手引きをしたと言う事実を流通させるのも……どちらの措置をとってもアゲハにとっては大した痛手にはなりませんから」

 胡蝶の言葉に思わず呻き声が零れた。

 それはまるで人のそこに痛覚が宿っていると知らないふりをしながら踏みにじるような行為だ。あまりに残忍で言葉にしたくない。

 と同時に、嫌でもなんの地雷を踏みぬいたのかの自覚をさせられた。

「Ja、Ja、Ja……分かった、分かったよ。ワタシが悪かった。本当に。もう金輪際こんなことは口にしないし二度と胡蝶の前で彼の名は口にしないよ」

「あら、それについて怒ってるとはまだ言ってないわよ。レムお姉さま?」

 綺麗な笑顔。思わずの沈黙。


「……わかった。とっておきの情報を話すからそれで手を打ってくれ。頼むから足の価格の値下げはやめて欲しい。それひとつでシュバルツバルトは破産しかねないから」

「情報ごときに価値がつくと思ってるなんてまだ制裁が足りてないのでしょうか」

「違う! 今回のは本当に特別なんだよ!」

 その声に胡蝶は顔色ひとつ変えない。

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