第34話 鋼鉄の正義
「あれ? しんのめくん??」
かけられた声に戒那は立ち止まった。
「マリア嬢? どうしてこんなところに。嗣音くんは?」
「んー。しーくんはおうちでおやすみ。まだ病み上がりだからね。私はちょっと……なんだろ。みんなに挨拶してたの」
「? そう、か」
深く突っ込むような真似はしない。
人は誰だって心に少し後ろめたいものを抱えているものだ。純真で無垢な人間などそれこそ……信用に値しない。
二人で川沿いにゆったりと歩いていく。
学園の近くには川が流れていて、それはアゲハの学都支部へと繋がっている。しばらくはお互いに無言だった。
「……しんのめくん、この前はありがとうね」
「この、まえ?」
「レプリカントが襲ってきた時。私にすごーく気を遣って戦ってたでしょう? 知ってるんだからね」
「それは……」
侮辱と捉えられただろうか。
だが悪気はない。戒那にとって他人を庇うことは、なんと言うか。
「……息を吸うのと同じなんだ」
やや口ごもりながら、そう答えた。マリアの青い瞳はやはり、雲ひとつない空のようだった。
「……どうして?」
「どうして……? 考えたこともないな。ああでも、それこそ初めから、当たり前だと思っていた」
川も凪いでいる。暗くなっていくそれに町が飲まれていく中で、ひとつ、ひとつとまた地上の星のように電気の灯りが増えていく。
「子供の頃。かあさま……オレの、本当の母親だ。彼女に道徳や倫理観についての授業を受けたことがあるんだ」
ポツリ、ポツリと、言葉を重ねていく。
「人と人とは助け合って生きていく。別に主義や主張を強要したり押し付けたりするつもりはないよ。ただ、できる範囲で他人に手助けをして生きていくべきだと教わった」
なんてことはない、つまらない話だ。
いいこだって鵜呑みにしない道徳の小話。それによれば人はできる範囲で人を助けるべきと書いてあって……なるほど、と思った。
そう言う意見には賛成だった。
そして、幸いにも戒那には人よりも大きな力があった。
「たから。人よりも多くの人を助けるべきと考えた。それだけさ」
いつも通りのエピソードを、なんてことのない顔で語った。
マリアが、足を止める。戒那も止まって振り向いた。
「マリア?」
「…………本当に、それだけなの?」
「……うん、だいたいはな。後はあれだ。子供らしいヒーロー物語に憧れてたりしたこともあったんだ。そう言う人間になりたいと思っていた」
彼女の瞳が宵闇の中でなにかを憎むように歪んだ。いや、憎しみではない。それは。
「……人のために自分を犠牲にしたら英雄になれるだなんて、そんなの」
義憤、が近いような気がした。
「……それでも。そうしないと意味がない人間もいる」
戒那のひどく固く温度がない声にマリアは顔を上げる。意味もない、下らないやり取りだ。こんなものどこにも意味がない。
「しんのめくん。神之瑪くんは」
「自分に他人よりも価値がないなら、擲ったって赦されるはずだ。違うか、マリア」
「……そんなのは間違ってるよ。みんな、同じ価値を持ってる。貴方と誰か。そこに貴賤の差は無いわ」
「…………マリア。それは綺麗事だ」
例えば、人は生きていくのにどうしても命を消費する必要がある。
自分の命もそうだし、牛や豚などの家畜の命もそうだ。どうしても命が生きていくには命が必要なのだ。
「……もしも、それが他人よりもかかる人間がいたら? そいつは多くの人間の命を踏みにじらないと生きていけない。マリア。そんな人間の命にどれほどの価値がある?」
「同じよ。変わらないわ。だってそれは彼のせいではないもの」
「いいや。そんな人間のせいだ。そんなやつがいるのが悪い。そいつがもしも……もしも、ただ普通に生きていきたいのならば」
罪は抱いていきるしかない。
損なったものを満たすことはできない。
代替品で空いた穴をうまったふりをする事、贖うことしか、人にはできない。
「多くの人の命を救い、彼らの命の価値に報いるしか、ないだろう」
低く告げられた言葉に、なんの感慨も感じられなかった。いっそ諦観や絶望が混ざっていれば、少しは違ったかもしれない。
「っ、ねえ、神之瑪くん、貴方は――」
触れた指先から流れ込んできたモノに、マリアは思わず手を引っ込めた。
宵闇の中で深海魚が彷徨うように、微笑みを浮かべた戒那が立っている。手を伸ばせば触れるほどの距離が、何故か、ひどく目眩を感じる位遠く感じる。
「神之瑪くん、神之瑪くんは……もう、幸せになっていいと、私は思うよ」
「そうなんだろうか」
今はじめて、その笑みを恐ろしく感じる。
一分の隙もなく張り巡らされた微笑。それは果たして、心からのモノなのだろうか。
少なくとも……共鳴し、流れ込んだ感情はそんなものではなかった。まるで。
「神之瑪くん、は……っ……ッ」
逡巡する。言葉にしようとしたどれもがあまりに無力で、音にならない、吐息の音だけが掠れて溢れ落ちる。俯いて、必死に紡ごうとしたどれもが無意味になっていく。
「…………生きる、ことは、戦うことじゃあ、ないんだよ」
絞り出した、掠れた音に、彼はただ笑っている。その感情はマリアへ向けたものではない。もう知ったのだ。身をもって体感したのだから、間違いない。
「だが、マリア」
穏やかに、まるで己を諭すように彼は言葉を紡ぐ。
「闘わないと生きていけない人もいる」
事実を語るようなそれ。平行線上にいて、どこまで延びても交わることがないと知らされる意見。どんな言葉も彼には届かない。
どこか納得をする自分もいた。
マリアは所詮部外者だ。外から、この鉄格子のような冬を鮮やかな春が塗り替えるように祈るしかない。
「すまないな。気分を悪くさせたかな?」
「……ううん。私の方こそごめんね」
上部だけ取り繕った言葉に、どれほどの価値があるだろうか。分からない。
「また明日な、マリア。こんな私だがよろしく頼むよ」
「うん! また無茶をしそうになったら私が全力で止めちゃうんだから!」
「ははは、それは頼もしい」
凪いだ水面に街灯が反射する。だが夜の闇はあまりに暗すぎて、マリアの目では川底が淀んでいるのか、分からなかった。
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