第33話 ブレイクタイム

 戒那は手を離した。

 そのまま、数歩後ろに下がる。抑え込むように少し息を吸うと、いつもと同じように笑みを浮かべた。

「すまない。怪我をして不安になっただけだ。忘れてくれ」

「あ……」

 彼女の手が、行き場をなくして虚空を彷徨う。それを、見て見ぬふりをする。


「それよりも、早くいった方がいいんじゃないか? 私は、ゆっくり帰るよ」

「…………うん、ありがとう」


 なにか言いたげだったがすぐに駆けていった。戒那はその背中をただ黙って見送る。


「…………大切、か」

 彼女を愛しく思う。

 彼女を好ましく思う。

 その事に嘘や偽りは、一切ない。


 できるならば閉じ込めてしまいたいとすら、思う。だけど。


 顔が翳る。赤く煌めく瞳はただ、血の池を映したように濁っていた。彼は、自嘲する。


「愚かな。何を思い上がったらこんな感情を抱ける」


 低くぼやいた声は、夕日に溶けて落ちた。


 この手はどうしようもなく穢れている。

 この決意はどうしようもなく壊れている。

 ならどうして、他人を好きだなんて言えるのだろうか。


 誰のことも幸福にする気がないくせに。ハッピーエンドを迎えるつもりなどさらさらないくせに。

 もうじきに、こんな自分も終わるのだ。

 だから忘れよう。

 こんな思い上がった感情。どうせ覚えていても、忘れていても、抱いていても、捨てて殺しても、関係ない。


 どうせすぐに、意味すらなくなるのだから。


***


 アゲハの本部の廊下をゆっくりと歩く。

 それから胡蝶は静かに後ろで自室の扉を閉めた。そのまま床にへたりこむ。

「ッ…………」

 まだ心臓がばくばくと鳴っている。頬は熱くて――身体中に、彼の感覚が残ってる。

 きっと誰にも見せられない顔をしているに違いない。


 指先でそっと、唇をなぞる。ここに触れたのだ。彼の挨拶のような啄む口づけ。思い出せる。そしてこんなことをしてる自分を少し、恥ずかしく思う。

 あのままあそこに残っていたらどうにかなっていたに違いない。


 だって、今も凍らせたはずの感情が熱をもって痛いほどだ。


 自分の肩を抱けば思い起こされるのはその後。キスが終わって離脱をせねばまずいと思った瞬間のこと。

 そっと抱き締められて、耳元で彼の声がした。低くて柔らかくて、懇願するような切ない声。それから消毒液の香りにまじり感じた、硝煙と石鹸の混ざった爽やかな香り。胡蝶よりも僅かに高い体温。逞しい腕。

「っ、しっかりしろ、獄幻 胡蝶……一応男にまじって兵士やってたんだ。これくらいで……これ、くらいで」

 顔がなおいっそう赤くなるのを感じた。


 キスの前もとても幸せだった。

 十八歳に変えて見せれば彼はどこか年相応のあどけない表情を浮かべて見せた。指に触れるだけで本当は手一杯で。翻弄しようとしたのに結局翻弄されたのは胡蝶の方だった。


「…………しの」


 ……未だ。

 まるで目蓋の裏がフィルムになってしまったかのように、彼の年相応のどこかあどけなく健やかな赤く染まった表情が消えてくれない。


 あれは戒那にとっての夢だったのだろう。

 大きすぎる時の溝。それをほとんど消し去り、手を繋いで二人で歩く。

 たったそれだけ。

 たった、それだけのものだ。

 デートと呼ぶのすらおこがましい、拙くてけれどもあの瞬間だけは一切の打算も下心も欲情許される、綺麗な光景ゆめ


 あれは、胡蝶にとっても夢だった。

 だってそうだ。


 この手が汚れていなくて、誰も喪うことがなくて、明日が来ることを疑わない世界で。

 それこそなんの打算も劣情もなく、彼の骨張った手を取ることができる。そして黄昏に染まった道を、笑いながら二人で歩くのだ。


 つまらない話をしながら、生産性も建設もどこにもないけれども……もう、そんな日常が掛け替えのないのだと、知っている。


 だが次の瞬間、それが命令に彼がしたがったから見られた光景であったことに胡蝶は僅かに落胆した。

「…………?」

 何故、落胆したのだろうか。

 そういえば舞踏会の時もそうだった。


 令嬢と共に踊ることを決めていた胡蝶。それはいつものことだ。他人に警戒されないためのひとつの手段。

 パートナーがいればすぐに疑われる。

 中立を謳うアゲハが誰かと癒着しようとしている、なんて翌日になれば誰もが知るスキャンダルだ。


 だからパートナーは部下から選ぶ。

 そして相手には壁の花になっていてもらう。

 胡蝶は誰の相手も同じくする。


 同じ。いつもと変わらない。だけど。

「…………」

 ファーストダンスは自分がいいと思った。

 誰と踊ってもいいと思っていたが、彼が誰かと踊って、令嬢に笑いかけたら、きっと気が狂うと思った。


 そしてあの瞬間。

 不機嫌そうな彼が手を取ってくれて、何曲もずっと踊ってくれたあの瞬間。


 ほしい言葉さえもくれて、そして駆け付けてくれた。だからきっと。彼なのだ。

 胡蝶は願う。

 彼はきっと公平だ。

 彼はきっとどこまでも正しい。


 あの瞬間、胡蝶を助けだし、当たり前のように胡蝶自身に目を向けた彼は、きっとどこまでも広くて正しい目を持ってる。


 それならば、胡蝶の最後の希望もきっと、叶うのではないだろうか。


 時間がない。どれほど長く生きても、時間がない。もうすぐに全ての感情が無為になる終わりの時が、或いは選択の時が訪れる。

 その時貴方は躊躇わずに。


「…………」


 目蓋を閉じた。

 言葉を口にするのはまだ少し、早かった。

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