第32話 袖さえも触れぬ青い春の夢を

「……胡蝶」

「はい、なんですか?」

 名前を呼べば彼女は花が綻ぶように笑みを浮かべた。その純粋な好意に未だ慣れない自分がいる。

「……君さえよければ学園を案内してくれないかね?」

「!! 是非!! 私に任せてください!」

 彼女は瞳を歓喜を指し示すようなオレンジ色に煌めかせた。


 彼女に引っ張られるがまま学園のあちこちを案内される。医務室、理科室、家庭科室、なんてよくあるものから、巨大な図書室に魔力試演室、MOTHERと呼ばれる人工知能が設置されている管制室まで。


 長い廊下のガラス張りの壁から差し込む夕日の中、胡蝶と戒那は緩やかに歩いていた。

「結構広いんだな」

「そうですね。かなり広いです。レガリアの王城と同じくらいかなあ……」

 夕日に照らされた胡蝶の髪がキラキラと輝く。白から黒に変わると思っていたその髪は、銀から黒に変わる髪なのだと、赤い夕日に照らされて初めて気が付いた。

「しの? どうかしました?」

「あー…………いや。やっぱり私はこの場に浮いているなと思って」

「んー……ああ。そういえばしのは年上なんですよね」

 戒那はそれに苦笑で返した。


 年上、なんてものではない。

 胡蝶との年齢差は丁度十歳。

 胡蝶からしてみれば自分はおっさんかもしれないと思うと正直……結構傷つくものがある。

 自覚はあまりない。戒那にとって人生はまだ十八年。喜びも、悲しみも、怒りも嫉妬も不安も絶望も……感情のない、ただ『死んでいない』だけの十年の記憶を人生に組み込むことはできやい。

 だが社会はそれを許さないだろう。


 知らないうちに大人になっていた青年は、だから少し不器用な笑みを返した。

 だがそれを見た胡蝶はニヤリと笑った。

「……ふぅん。同い年ならよかったのに、とかそういうのです?」

「え? ああ、まあ……そう、だな」

「ふぅん。へぇ。そう。確かにちょっと気になりますね。いっちょ夢でも見てみます?」

 胡蝶、と呼び掛けるよりも前に彼女が指をならした。


 瞬間、彼女は女子高校生のような制服に身を包んでいた。灰色のブレザーにピンクのチェックのリボンとスカート。伸ばしたままであったはずの髪は首もとで緩く二つに結わえられている。

「…………え?」

「どうしたの? 戒那くん」

「あ、えっと……え?」

 そういった声は普段の自分より少し高いような気がする。驚いて窓を見れば、そこには十八歳位に思える若い青年がいた。


 驚きで見開かれた赤い目はあまり差はない。ただ伸ばしていたはずの銀髪は首もとでスッキリと切られているし、黒い学ランはどこか慣れない装いだ。

「胡蝶っ」

「なあに?」

「ッ……」

 顔に熱が集まるのを感じる。

 彼女は目を細めたまま笑った。


 放課後の学校の、生徒達がはしゃぐ声がやけに遠く感じ、それがなんだか更に体温をあげていく。

「わざわざ待っててくれてありがと。待っててって頼んだのは私だけど……まさか本当に待っててくれるなんて思わなかった」

「うっ」

 緩やかに二歩、下がる。それを詰められる。軽い拒絶とも取れるように向けられた手に、胡蝶の細い指が寄り添った。

「こ、ちょう」

「戒那くん」

 人気のない廊下。詰められる距離。

 細く華奢な指先が、そっと指の付け根を擦るようにからめられる。いつもより近い顔と顔。彼女は少し切ない笑みを浮かべていて。


「戒那くん」


 指の付け根の間接の骨を輪郭をなぞるように触れて。お互いの吐息がふれあうほどに近く。

 手を、振り払えない。

 それが全部嘘だなんていえない。


 ――ああ。そうか。

 他人心地の、足のつかない心地よさの中、戒那は自覚する。


「私の傍にいてくれて、この世界に生まれてきてくれて、ありがとう」


 唇は触れない。ただ握り締めた手の温度だけが熱くて。

「…………胡蝶が望むなら。オレはいつでもそうするよ」

 掠れた返答。


 そうだ。

 オレは……彼女のことが、大切、なのだ。


 ぱっと景色が切り替わった。

 近いと思っていた彼女は胸の辺りでキョトンとした顔をしたままこちらを見上げている。

「胡蝶?」

「……いえ。キスくらいされるかな、と思ってたので」

「君がいいと思わない限りしないよ。それに女の子なんだから少しは自分のことを大切にしたまえ」

「………………じゃあ」

 彼女は手を離さない。

「命令したらしてくれるんですか?」


 残酷な質問だった。

 なんでそんなことを聞くのか、こっちが聞きたいくらいだった。

 だが沈黙と先程の言葉がすべての質問の答えになる。


「しの。キスしてください」

「それは命令か?」

「ええ」

「…………分かった」

 少し屈み、荒れて固くなった手で彼女の髪を軽くあげる。彼女はただまっすぐとこちらを見つめていた。


 なんの前触れもなく、そっと唇を重ねる。

 離れるのすら躊躇われて、愛しくて、いっそのこと壊してしまえたらどんなによかっただろうか。熱を帯びた戒那の視線に胡蝶が僅かにたじろぐ。


 触れるだけの口づけ。

 挨拶にすらならない、軽やかなもの。

 瞬きよりも短い時間で離れたそれは、弾けるような熱を帯びていて。


「これで満足かね?」

「…………ぁ、ぐ」

「胡蝶?」

 突然呻き声をあげた胡蝶に首をかしげる。すると青白い顔を彼女があげた。


「…………今日が期日の仕事をアゲハにおいてきてしまいました」

「なにやってるのかね君は」

「やろうと思ってすっかり忘れてたんですよ!」

「馬鹿者」

 ムードが一瞬で霧散していく。まあ、胡蝶がそういうタイプだ。仕方ないと言えば仕方がない。

「すみません。先にアゲハに戻りますね」

「送っていこうか?」

「平気です!」


 走り出そうとした胡蝶の手を掴み、その体を腕の中に納める。

「?? しのさん? あの」

「……胡蝶。なんで君、あの時……拳銃を、抜いてくれなかったんだ」

 胡蝶の身体が僅かに強ばるのを感じる。腕の中にいる彼女は、ほんの少し力をいれれば壊れそうだった。

「君が、私に何を望んで期待してもかまわない……どうせそうなる。ただ、私の目に君は……生きるのを、諦めてるように写る」

「しの。私は」

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