第9話 沈むまで

 はじまりの魔力は、海水だったと言う。

 生命の海。それならば生命を維持するための力を生んだのがそれだと言うのもどこか、納得できる話だろう。


 ごぽっ、と気泡を口から吐いた。虚ろな意識の中海を漂う。心配なことは、ない。ないんだ。ない、はずなんだ。


「…………可哀想」


 子供が立っていた。ウサギのぬいぐるみを抱き締めて、もうそんな年でもない癖に、甘えるように彼女はそれを持っている。

 白い部屋の入り口に立つ彼女を見た胡蝶は、もう面倒くさくて抱きかかえた膝に額を戻した。

「海の中じゃあ魔法は使えないわ。海水全てが魔力そのもののようだもの。ましてやここは異界……守るための気泡も、いつまでもは持たないわ」

「…………いいよ、どうせ。最初から決まってたことだよ」

「また、死ぬの?」

「はっ。今更死ぬのが怖いとでも、言うつもり?」


 大丈夫。

 慣れてるから。


 いつも一人で死ぬ。ひとりぼっち、暗いところに取り残されて死ぬ。死ぬ。死ぬ。だから死ぬのなんて平気だ。


「痛いのに」

「痛くない」

「悲しいのに」

「悲しくない」

「でも、私、苦しいの」

「苦しさなんて、もう麻痺するくらい味わったのに……今さら、痛いなんて」


 胡蝶の答えに少女は躊躇う。だからそれを嗤ってやった。彼女は、それに悲しそうに俯く。


「……でも、それならどうして、この部屋には何もないの? 貴方はうずくまったままなの?」

「幸せなおとぎ話はとっくの昔に死んだ。お前はそこで生きてればいいだろ。なんでわざわざ、私を責めるんだよ」

「………………可哀想。可哀想な、貴女。傷だらけで感じられないのね。貴女、そんなにも傷ついてるのに」

「だからなんなんだよ!!! て言うかお前はなんなんだよ!! いつもいつも人の夢にばっかり出てきやがって!! 私は!」


 一人でも平気だ。きちんと一人で死ねる。もう誰かを巻き込まない。

 だから、救いなんて要らない。

 胡蝶は拒絶するように固く膝を抱いた。


 ――不意に、光が手を掴んだ。

 希望のように眩いそれは、誰かの手で。


 手は、明るい方へと引っ張っていく。理解できず、抵抗することもできず、水面へ――その上へと、胡蝶は引き上げられた。


***


 水の音と共に身体が甲板に投げられた。咳き込みながら体を丸くする。酸素が流れ込んできて苦しい。

「…………せっかく」

 同じように甲板に身を投げ出した戒那の声に顔を上げる。

「せっかく乾かした服がべちょべちょになった」

「……そりゃ海水ですからねえ……」

「ふふ、ふふふ、それはそうだな! ははははははは!!」

 彼は朗らかに楽しそうに笑う。


 …………。

 あの白夜と言う男は胡蝶を仲間だと言った。そして戒那と白夜が旧知の仲であると言うことも……。

 それがどのような意味があっても、或いは意味を持たなくても。

「……神之瑪さん、私は」

「良いんだ」

 彼の言葉に顔を上げる。

 夕日に照らされた彼の表情は穏やかな物だった。小さく息を吸って、彼は困ったように笑う。

「良いんだ。以前どんな関係だったかとか、それを覚えていないからと言って君がそれを後ろめたく感じる必要はない」

 彼の手がそっと労るように頭を撫でた。小さく、うつむく。


 忘れられることがどれ程に痛ましいか、自分にはわからない。己の体質上、忘れるのはいつもこちらだ。

 これまで何度も見てきた。

 名前を思い出せず、顔を思い出せず、人によっては胡蝶との関係を断つ者までいた。その傷付いた顔を見るたびに、どうしようもない感情にも苛まれる。

「胡蝶。覚えていてほしいと言うのは向こうの傲慢だ。君が傷つく必要はない。それに言っておくが君と私とは初対面だ」

「……ですが、記憶と言うのは証明です。不可視の絆を証明する記憶がなくなれば、一体誰が――」

「例え君が誰一人のして覚えていなくなって、多くの人に見捨てられて、孤独でどうしようもなくなったとしても」

 青年はからりと、笑って見せた。


「私は君を必ず見つける。どんな雑踏の中でも、躊躇わず君の手を取るよ。それが、オレと君の“関係”だ」


 呆然として、言葉がでない。そんな言葉を魔女に言うのは全世界探しても彼くらいだ。

「……だから、貴方は私を助けてくれたってこと? 普通、人を追って海に飛び込まないよ」

「ふむ。言われてみれば。だがそれに関してはお互い様だ。君、手を伸ばすのをすぐに諦めただろう。結果的に助かったからといってあれは許可できないな」

 返す言葉もないとはまさにこのこと。


 だが仕方がないのだ。

「……だって、ちゃんと一人でも死ねるはずだった」

 ぐらり、と視界が傾く。疲れたのだろうか。体がぼうっと熱い気がする。

「私がいるせいで誰かが不幸になって死ぬくらいなら私が死ぬべきだった」

「胡蝶。君さえ良ければ、私にチャンスをくれないか」

 目眩がする中で顔を上げる。彼は心配そうな顔をしていた、多分、本当に心配してくれてるのだろう。

 なんでそんな傷付いたような顔をしてるのだろうか。冷えた手でぺちぺちと彼の頬を触る。


「……君さえ良ければ私に……君の幸せを探す手伝いをさせてほしい」

「ふふ、奇遇ですね。私も、そんな風に思ってたんですよ……貴方が、傍にいてくれたらいいなって。魔法師は二人一組で戦うんです。そのバディが、必要で……」

 天地が突然ひっくり返った。

 違う。ひっくり返ったのは胡蝶だ。


 体が動かない。呼吸が苦しくて、頭が回らない。そういえば、最後にきちんと寝たのはいつだったか。

 町の見回り、書類仕事、魔薬調査、毎日根を詰めて働いてたから全然思い出せない。


 心配そうな顔でなにかを叫ぶ戒那に、平気だと伝えたいが口も動かない。鉛の海に落とされたみたいで、苦しくて。


 そう。

 彼に傍にいてほしい。この手を躊躇わずに取ってくれた彼ならば、知り合いだと言う白夜に攻撃をしかけた彼ならば――きっと。


 きっと、胡蝶の最後の希望になってくれるはずだ。


 ずっと誰もいなかった空白の席。

 魔女たる胡蝶は一人でも戦える。それに、その座に座ったものの多くが死に消えていった。だが……きっと、彼ならば。


 胡蝶の意識は、そこで途絶えた。

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