第2節 神は貴方のために傅く

第10話 魔王のための前奏曲

 戒那は胡蝶の熱を帯びた身体をそっと寝台に乗せた。


 あの異界から辛うじて脱出した後、専属医に(誤解から殺されかけた後)胡蝶の診察をしてもらったところ、疲労と魔力不足による風邪だと診断された。


 彼女の額にそっと触れる。

「……」

 こう見ると彼女はただのあどけないだ。


 大人になりきれていないし、まだずっと、幼い。肩も手足もともすれば必要以上に細いくらいだ。

 こんなに子供なのに、彼女は。


「……何を考えてるんだ、オレは」

 この子が背負ってるものは自分が介入して柔げられるほど、優しくない。

 ふと、ベッド脇のタンスの一段目が開いていることに気がついた。銀色の何かが飛び出ている。

「……片付けが下手くそみたいだな……彼女らしいと言えば彼女らしいが」

 どうやら錠剤の台紙のようだ。

 片付けてから出ていってもバチは当たらないだろう。引き出しを引いてしまおうとして――動きを止めた。


 引き出しの上に置かれた水差しに月が写り込む。目を見開いたままだった戒那は台紙をその地獄に戻して引き出しを閉めた。


***


 石畳の床、古い石造りの大食堂。

 ここは五大魔法師組織のひとつ、〈魔法師組合〉だ。イギリスに本部を置き、ヨーロッパ全域の魔法師が所属している。その本部の食堂である。


 アトゥル・ロックウェルは満席になり始めつつある食堂の端の方に一ヶ所だけ空いているのを見つけた。

 中央にはきなりのローブを被った人物が座っており、その人物を避けるように人々が座っていく。アトゥルはそれを見ると、にっと笑いその人物の傍に寄った。

「よう、相席してもいいカ?」

「…………構わない」

 フードの僅かな隙間から覗いたのは深紅の瞳だった。なんだか背筋がゾッとした気がして動きが鈍ったが、多分気のせいだろう。

 声が低いので恐らくは男性だ。


 背の丈的にはアトゥルの師とさして変わらない気がする。だが、ぼろ布を被ってなお威厳……のようなものがある。

 組合のイカれた元老院どもと違い、彼は本当に高貴な身分で今は姿を隠しているのでは無いだろうか――なんて妄想すら浮かんでくる。


「……なんだ、人の顔を見て」

「ああいや、なにも! ただほら、この辺りじゃあ見かけない顔な気がしてさ! ベッビンサンだネ」

 その言葉に彼がこちらを向いた。

 フードからこぼれ落ちるのは翡翠の髪。大理石のように白い肌と蛇のような深紅の瞳にアトゥルは思わず、目を見開いたまま固まった。息を飲むほどに美しい。

 清らかな物ではなく、モノ、形として美しい。まるで彼一人が完成した芸術のようだ。

「どうした? 私がそんなにお前の目に気に入ったのか? なかなか見る目のある男のようだな」

「…………アンタ」

 胸の下の辺りがムカムカと不快感を示している。なにか踏み込んではいけない秘奥に足を踏み入れているような。


 男は紅茶の入ったカップを唇につける。フードにより彼の美貌が陰ったことに思わず安堵を覚えた。

「そういえば、何故アゲハ領に発生した異界を報告しなかった?」

「………………へ?」

 なんだ、この男。

 それは今朝、魔法師組合の所属の上位者数名に教えられた極秘情報だ。魔法師組合の幹部や教会派の枢機卿など、知っているのはごくごく数名だと聞いていたのに。


 ……何故、この男はそれを知っている?


「おっと。逃げるのには少し遅すぎだ、アトゥル・ロックウェル」

 アトゥルは咄嗟に距離を取ろうとした。だが背後の虚空から生えてきた腕が喉を締め付けるように拘束してきたのだ。

「ッ……」

「そう睨むな。神は聞き分けのよい子供を好ましく思う。お前はどうだ?」

「…………アンタ、何者ダ?」

 男は遠隔でアトゥルの首を絞める手をそのままに、反対の手でフードを脱いだ。


 溢れ落ちたのは翡翠の長い髪だ。その髪は奇妙な輝きを帯びて透き通っており、つり上がった赤い蛇のような瞳は同性であるアトゥルに妖艶さを感じさせた。


そしてその額には――瞳と同じ、紅い石の嵌められたサークレットが嵌められていた。


 豪奢ではない。

 だが身に付けてるものが例えば今のような簡素な麻布の服とマントであろうとも、耳につけた金のイヤリングやヘヤーカフ、そして仕草の全てが彼を高貴なものに仕立て上げていた。

 いや、隠れていてもずっと、彼は高貴なものだった。存在そのものが、そう言うもの、なのだ。


「こうして会うのは初めてだな。私はサタン――サタン・ルシル・ブラック。お前の目に写る通りの悪魔だ。それとも魔王、と名乗った方が分かりやすいか?」

「ッ……」

 とんでもない。

 サタンなんて不敬で冒涜的な名前、他にあるだろうか。


 この男はその名の通り、そのままに、悪魔なのだ。


 神と言う種族がある。

 彼らは神話に残る通り、ある程度の万能性を保有し、ある程度の不老不死を保持し、そして『原初の魔法』と呼ばれる人間が扱うのとはまた少し異なった強大な力を振るう。

 彼らは便宜上、そう纏められているだけで、実態は三者三様だ。


 天界を治め、神々の王に仕えることを良しとした秩序と規範の者たちである天使。


 神界を治め、今一度人と共に歩むことを定めた想像通りの神族。そして。


 地獄を治め、罪を謳い、人間を何よりも愛している悪魔。


 人間と契約し、場合によって知恵や命等の強大な力を授け、魂をもらい受ける者。人がケモノらしく生きるのすらも肯定するからこその悪人。

 ある意味最も達が悪いコイツらは、好きなものを愛しているから殺し、愛しているから嘘をつかずに真摯に現実を告げるのだ。


「そうびびるな。悲しくなってしまうだろう? さすがの私もそんな風に警戒されたら悲しい。それに私はお前たちの扱う魔法の祖だ。敬うことはあれど恐れる必要はほら、無いだろう?」

 優しく穏やかな声音に、やはり悪魔は信用なら無いと脳裏で感じる。虚空から取り出した林檎を齧る姿は見とれるほどに妖艶だ。

 まあ、だが恐れることはないかもしれない。


 だってこの悪魔、食堂の真ん中でこんなに威厳たっぷりなんだぞ。


 この安い食堂の食事で満足して頷いてる悪魔、威厳はあっても尊厳みたいなものがない。もっと頑張りなさいよ。

「今日は預言をしに来ただけだ。よく聞け、アトゥル・ロックウェル」

 彼のしなやかな傷を持たない指先がアトゥルの日焼けた肌を撫でる。


「獄幻 胡蝶に手を出すのは止めておけ」

「!」

「魔法師組合はあの魔女をなめすぎだ。この国の偉大なる賢者、偉大なる魔法使いが魔法を教えた魔女を組合は狩るつもりのようだが……狩られるのはお前たちだ。このまま組合に与するのならば死ぬのはお前たちだ」

 彼の指先が顎から首を伝い、心臓の上の辺りに触れる。恐怖から肌に汗が滲む。

 だが考えなしに動けば殺されるのはどちらだろうか。


 叫びたい衝動を、逃げたい感情を圧し殺し彼を見上げる。目を細め、人間をもてあそぶその悪魔を。

「引き際を違えるな……そうお前の飼い主に伝えておけ、アトゥル」

「……警告助かるぜ、魔王サマ」

「賢い犬は好きだ。良くできたな」


 ドロッ、とその体が液体状の影となり、魔王は去る。アトゥルはようやく、落ち着いて酸素を吸うことができたのだった。

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