第3話 地上の楽園 烏羽
暗く人通りのいない路地裏に、大きな音が何度か響いた。その音に驚いたのかカラスが一斉に飛び立つ。後に残されたのは黒く煌めく羽だけだ。
胡蝶は、ゆっくりと身体を起こす。綺麗に結わえあげたはずの髪は衝撃で崩れていた。己を庇った人物を、驚嘆と共に見下ろす。
コンクリートに広がるのは剣のような透き通ったような白銀の髪。赤みがかった黄金の瞳はこちらの無事を確認すると安堵したように柔らかくなった。
「レディ、無事かね?」
「……は、はい」
身体を軽々と持ち上げられ立たされる。それから全身をじいっと観察した彼は改めて、美しい笑みを浮かべた。
「うん、怪我は無さそうだな」
「あ、あの……」
「お嬢様!! ご無事ですか!!?」
大通りの方から駆けてきたのはアゲハの団員だった。黒いスーツに身を包んだ彼らは胡蝶と青年を隔てるように立つ。
「申し訳ございません。駆け付けるのが遅くなりました」
「構わない。むしろ休日であるというのによく駆け付けてくれた。ご苦労」
「いえ。お嬢様の危機とあらばいつでも馳せ参じます。なにせ御身は唯一無二の尊き身なのですから」
「……質問なんだけど、もしかして最近時代劇とか見た?」
彼は分からないというような顔をした。素でそれをしてるなら結構恥ずかしいぜ、と胡蝶は思う。
「とにかく、そこの彼が庇ってくれたお陰で私は無傷だ」
「! 恩人の方でしたか。これは大変なご無礼を」
「ああ、ええと、構いま、せん」
ほら見ろ。彼が困惑してるじゃないか。そう怨念をこめて睨むが護衛の隊長は気にしていないようだ。 気にしてくれ。
「……上のひったくりは?」
「傭兵の方のご助力を受けて捕獲済みです」
「あ、そ、それは私の連れだ」
となるとあの黒髪の少年か。
隊長が黒いコートを肩に羽織らせるのを見て、青年が目を見開いた。
「では、改めまして」
スカートの裾をつまみ、美しいカテーシーを披露する。
「この度はありがとうございます、サー。そのご恩に報いるため、どうか貴方を私の館へ招待させてくださいな」
「…………君は、まさか」
「はい。私が獄幻家の正当なる後継者にしてこの街の実質的な支配者。獄幻 胡蝶と申します」
***
青年は招待された先の洋館に絶句した。
立派な赤レンガの屋敷だ。何年もそこに建っているのだろう、時をえることでしか得られない風格があった――外は。
「これは…………」
観葉植物は僅かに枯れかけていて、床は埃がうっすらと積もっている。散乱している書類や本。包帯に何かの治療に用いているのか薬の残骸。これではまるで。
「…………掃除する暇が、ないのか?」
「
「わ、分かっている……分かっているが」
眉を寄せて青年は黙る。
湯船を借りた時に既に違和感は感じていた。大きな屋敷にも関わらずどこか閑散としていて人気がなかった。さながら幽霊屋敷のように。
何度も謝りながら替えの礼服を用意してくれたメイド服の女性が何故申し訳なさそうだったのか、すぐに理解できる惨状だった。
「お見苦しいところを……すみません。今アゲハは類を見ない人手不足に悩まされていまして。残念ながら十分なもてなしをすることも叶わないんです」
胡蝶自らお茶をいれながらそう言う。
差しだされたティーカップは簡素なものだが、品はある。軽いお茶菓子を出してくれた辺り、気を遣われているのかもしれない。
「なにか不便はありませんでしたか? 助けていただいたのに大したもてなしもできないなんて、お恥ずかしい限りで……」
「いやいや、十分にいただいている。むしろシャワーまで借りてしまって、こちらこそ申し訳ない」
「それくらいはさせてください」
彼女はほつれた髪をほどいただけで先ほどと格好が変わっていない。
慌ただしく団員達が動いているのを見るに、つい先ほどまで処理に終われていたであろうことは明白だった。
「改めまして。獄幻 胡蝶と申します」
「……私は
「しののめ……?」
天草、という偉人のような名ではなく胡蝶は神之瑪の名に引っ掛かりを感じ首を傾げた。いや、今考えるべき話ではない、と思考を無理矢理切り替える。
「助けてくださって感謝をしています。そのお礼を是非ともさせていただきたいのですが……ところでお二人は、何故烏羽が地上の楽園と呼ばれているのかご存知ですか?」
「ええと、それは……」
「では、僭越ながらそれについては僕が説明してもよろしいでしょうか」
現在、日本列島における主要都市は主に三つだ。関東一帯の帝都。関西一帯を含む古都。そして、地上の楽園都市と呼ばれる烏羽だ。
烏羽が地上の楽園都市と呼ばれているのはなにも治安が良いからだけではない。
烏羽に関するあるひとつの――ある種低俗で、凡庸な噂がたったからである。曰く。
「アゲハに依頼をすればどんな願いも叶えてくれる――そんな、噂があるんですよ」
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