二 徘徊するお婆さん
さて、その翌日の夜のことです。
またわたしは深夜の二時頃に目が覚めてしまい、やはり退屈しのぎにジュースを買いに行くことにしました。
前回同様、静かに部屋を抜け出し、階段で一階ロビーに下りて、ジュースを飲んで帰ってくる…という、ちょっとした夜の冒険です。
すると、その帰り道、わたしはまたしてもあの声を聞いたんです。
「――おやすみ……安心してよーくおやすみ……」
この前と同じく、やはり三階へ戻ってきた時のことです。
あ! あのお婆さんだ! 今夜も子供を寝かしつけてる気になってるんだ……。
聞いた憶えのあるその声に、わたしはその部屋の前を通りながら、すぐにあのお婆さんだと理解しました。
……あれ? 昨日は301号じゃなかったかな?
でも、今回はこの前と部屋が違ったんです。
前は階段を上ってすぐの301号室だったのですが、今度はそのとなりの302号室です。
気になったんで、やっぱり昨夜と同じようにこっそりと引き戸を開けて部屋の中を覗いてみます。
「……おやすみ……ゆっくりとよーくおやすみ……」
案の定、それは昨夜見たお婆さんでした。
でも、部屋が違うので当然といえば当然のことながら、声をかけているのは別の患者さんです。今度はどうやら40か50代くらいの中年の女性です。
昨日のお爺さんだけを息子だと思い込んでるわけじゃないんだ……ていうか、部屋が昨日と違うし、どっちの部屋の入院患者なんだろう? それとも、もしかして徘徊してるの?
昨夜と部屋も声をかけてる相手も違うことに、わたしはその可能性に思い至りました。
徘徊までしているとなると、自分の部屋だけでやっているのとはちょっと話が変わってきます。
今、伝えに行くとわたしも
わたしはそう考え、この夜もそのまま自分の部屋へ戻って眠ることにしました。
「――あの、なんか入院してるお婆さんが夜中に徘徊してるみたいなんですけど……」
翌朝、朝食の配膳の際、トイレに起きた時に見かけたとかなんとか嘘の言い訳を交えながら、わたしはお婆さんのことを看護婦さんに伝えました。
まあ、入院患者にどんな人がいるのかを看護婦さん達は全部把握しているでしょうから、認知症があって徘徊しそうな老婆というだけで、だいたいの目星がつくかもしれません。
「あ、そうなの? わかったわ。注意して見るようにするわね」
わたしの読み通りだったのか? 話を聞いた看護婦さんはすぐにそう答えてくれたので、これでもう安心だとその時は思ったのですが……。
その夜、わたしはまたしてもなぜだか二時頃に目が覚めてしまい、やはりジュースを買いに一階まで行ったのですが、その帰り、今度もあの声を聞いてしまったんです。
「――おやすみ……安心してよーくおやすみ……」
今夜はまた別の部屋で、わたしのいる部屋のとなりの303号室です。
念のため、また引き戸を開けてこっそり覗いてみましたが、声の主はもちろんあのお婆さんです。
ベッドで寝かしつけられてる患者はまだ30代かそこそこの男性でした。
あれ? 注意するって言ってたのに、看護婦さん達、気づいてないのかな?
これでもう三回も目撃してしまっていますし、さすがに見過ごすのも悪い気がしてきます。
わたしは仕方なく、自分もうろうろ出歩いてたのバレる覚悟で、ナースステーションへ知らせに行くことにしました。
「あの、すいません。例のお婆さんがまた徘徊してるんですけど。今、303号室にいます」
「え!? ほんと? わかったわ。今行くわね……」
わたしの連絡を受け、夜勤の看護婦さんがすぐに小走りで一緒に303号室へと来てくれます。
「あら? いないわね……」
ところが、戻ってみるとどこにもお婆さんの姿は見当たりません。
「あれ? おかしいな……」
わたしは看護婦さんとともに首を傾げました。
行って帰ってくるのに一分足らず。もしお婆さんが部屋から出て来たのだとしたらわかるはずです。しかも、老人の足でそんなに速く移動ができるものでしょうか?
「ねえ、ほんとにこの部屋だったの? 別の部屋ってことはない?」
「いえ、確かにこの303号室でした。そこの患者さんに声をかけてたんです。どこか物陰にいるのかも……」
勘違いを疑う看護婦さんに、わたしはそう反論しながら他の患者さんの周りやベッドの影なんかも隈なく調べてみましたが、やはりあのお婆さんはどこにも見当たりません。
「他の部屋かもしれないし、とりあえず見廻ってみるわね。こんな時間だし、あなたは自分の部屋へ戻ってて」
なんとも不思議で腑に落ちませんでしたが、念のため、看護婦さんが三階の全病室を見て廻ってくれることとなり、わたしは狐に抓まれたような心持ちで自室へと戻りました。
当然、ベッドに入っても寝つけずに悶々としていると、しばらくしてから看護婦さんがやって来て、やっぱりお婆さんは見つからなかったことを教えてくれました。
おかしい……そんな隠れたり、遠くへ行くような時間はなかったはずなのに……。
「あの、そのお婆さん、どうやら他の患者さん達のことを自分の子供だと思い込んでいるらしく、眠ってるその人に声をかけて寝かしつけようとしているみたいなんです。この階の入院している患者さんの中に、そんな感じのお婆さんとかっていないんですか?」
納得のいかなかったわたしは、この際なのでより詳しくお婆さんの行動を看護婦さんに伝え、気になっていたそのことを尋ねてみました。
真夜中に徘徊し、そんなことをしているくらいですから、それなりに認知症が進んでるはずです。そうした病状の患者さんだったら、看護婦さん達もすぐに見当がつくんじゃないでしょうか?
「それが、あなたに教えてもらって確認したんだけど、今、そういった患者さんは入院してないのよね。他の階にもいないみたいだし」
でも、看護婦さんの答えは意外なもので、彼女自身も怪訝な顔をしていました。
「とにかく、もうどこにもいなかったから、あなたも安心しておやすみなさい。夜更かしは心臓にもよくないわよ?」
いろいろ得心はいかなかったものの、看護婦さんにもそう言われてしまったので、わたしは渋々眠りにつくことにしました。
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