よーくおやすみ

平中なごん

一 寝かしつけるお婆さん

それは、わたしがまだ高校生だった頃のお話です……。


 高校一年の夏休み、わたしは地元にある大きな病院に入院することになりました。


 そんな重篤な病状ではなかったのですが、わたしは小さい頃より少し心臓が悪く、入っていたテニス部の練習でちょっと無理をしてしまい、少し体調を崩したので大事をとってのことでした。


 と言ってもそんな状態ですから手術を受けるとか、苦しい治療をするとかいうようなこともなく、部屋も個室ではなく四人用の大部屋で、ただベッドの上で安静にしているだけという、なんとも退屈な日々でした。


 そうした入院生活が始まって三日ほど経った頃、長い時間、昼寝をしていたので真夜中に目が覚めてしまい、暇だし、ちょっと喉も渇いたので、一階ロビーにある自販機でジュースを買いに行くことにしたんです。


 なんとなく時計を見ると午前二時をちょっと回ったくらいでした。


 わたしの病室は三階の305号だったのですが、自販機まではエレベーターで下りればすぐです。


 それに新築というわけでもなかったのですが、まだ綺麗で明るい感じの病棟だったので、真夜中の非常灯だけが灯る薄暗い廊下や待合室のロビーも、別に怖いというような印象を受けることはありません。


 まあ、それでも看護婦さんに見つかると怒られちゃうかもしれないので、ナースセンターの正面にあるエレベーターを使うことはやっぱりやめにし、そのとなりで少し死角になる場所の階段を静かに下って、まるで泥棒かスパイのようにして忍び足で一階へと向かいました。


 スリッパもパタパタと音が出ちゃうので、スニーカーに履き替えたりもする用心深さです。


 そんなスリルがまた、なんだか夜の冒険をしているような感じがして、だんだんと楽しくなってきます。


「さあて、どれにしようかなあ? コーヒー系は余計眠れなくなるし、やっぱりここは『スタンドバイミー』よろしくジンジャーエールかなあ……」


 無事、難なく一階ロビーへと辿り着き、自販機で紙コップに注ぐタイプのジュースを買ったわたしは、せっかくなので誰もいない待合の椅子に腰掛け、ジュースを飲みながらより冒険気分を満喫したりしました。


 それからまた階段で三階へ戻り、再び忍び足で自分の病室へ帰ろうとした時のことです。


「――おやすみ。よーくおやすみ……」


 そんな女性の声が、通りかかった他の病室の中から聞こえてきました。


 この病院は各階が中央にあるナースステーションをぐるっと囲む形で病室が配された造りになっていたのですが、その病室はわたしの部屋とは反対側の301号室です。


「……おやすみ……安心してゆっくりおやすみ……」


 真夜中ですし、その部屋のドアは当然、閉まっていたのですが、耳をすますとそんなくぐもった声が聞こえてきます。


 なんだろう? こんな時間に……付き添ってる母親が子供の入院患者でも寝かしつけているのかな? あるいは看護婦さんか……。


 秘密の冒険をしているようでテンションの上がっていた私は、今度は探偵みたいにちょっとその謎を探りたい気分になってしまいました。


 そこで、静かにその部屋へ近づくと、なるべく音を立てないよう、その引き戸をゆっくりと開き、そのわずかにできた隙間から中の様子を覗いてみました。


「……安心して寝ていいんだよ……ゆっくりとよーくおやすみ……」


「……!」


 すると、ちょうど見える範囲にあるベッドの脇にお婆さんが立っていて、そのベッドに寝ている入院患者へ優しく穏やかな声をかけています。


 薄暗いのでよくは見えませんが、あまり整えてはいないボサボサの白髪をしていて、入院着のような浴衣を着ています。


 対して声をかけている患者さんの方も、やはり同じくらいの高齢の男性に見えます。


 その女性が看護婦さんでないのはもちろんのこと、明らかに母親と子供というような間柄にも思えません。


 旦那さんと奥さん…という可能性もなくはないですが、それにしてはかけてる言葉がどうにも子供に対してのもののように感じられます。


 やはり、その内容や優しげな口調は、子供を寝かしつけようとしている母親のそれそのものです。


 そうした状況を合わせて考えるのに、


 ……ああ、そうか。あのお婆さんもこの部屋に入院している人で、認知症か何かなのか? あの患者さんを自分の子供だとすっかり思い込み、若い頃のように寝かしつけてるんだな。たぶん……


 という結論にわたしは至りました。


 どうしようか……?


 このまま放置するのもどうかとは思ったのですが、まあ、寝かしつけられてる患者さんの方もすでにぐっすり眠っていて、特に迷惑がかかっているような様子もないので、私はこのまま見て見ぬふりをすることに決めました。


 看護婦さんに知らせるにしても、同時にわたしがふらふらと真夜中に出歩いていたことがバレてしまいますし……。


 そんなわけで、この日はそのまま自分の部屋へと戻り、何事もなかったかのように眠りにつきました。


 

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