おやすみのキス
平中なごん
おやすみのキス(一話完結)
「――よく眠っているみたいだね……」
カチャリ…と微かな音だけを夜の闇に響かせ、そっと静かに部屋のドアを開けて中へ滑り込むと、ベッドですやすやと眠っている彼女の穏やかな寝顔に私は囁くように声をかける。
それにしても、なんとも微笑ましくなるような可愛らしい寝顔なのだろう……。
「それじゃ、ゆっくりとお休み……」
そして、その少女の桃色に色付いた健康そうな頬っぺたにおやすみのキスをすると、私はその部屋を後にした。
続いて、今度はそのとなりにある部屋へ、やはり音を立てないように細心の注意を払いながらドアを開けて忍び込む。
薄闇に眼を凝らせば、こちらのベッドに寝ているのはこんがりと小麦色に焼けた肌をした、一目で運動好きで活発な性格だとわかる少女だ。
「君もよくおやすみ……」
私は彼女の頬にもおやすみのキスをして、またその部屋を静かに出る。
それから、さらにまたとなりの部屋へも行くと同様に寝ている少女の頬におやすみのキスをし、そうしてこの寄宿舎にある部屋を端からすべて巡りながら、可愛らしい女生徒達の真なる心の平穏を私は祈り続けた。
この寄宿舎で暮らす女生徒達はじつに様々だ。
明るいブロンドの髪の子もいれば、赤毛の子、黒髪の子もいる。肌の色も皆違うし、ゲルマン系もラテン系もスラブ系も、さらにはアジア系だっている……各人それぞれに容姿は違うものの、誰も彼もが可愛らしく、なんとも愛おしい子供達である。
まさに神の創りし至上の芸術品……だから、私は彼女達すべての真なる安らぎを切に願わざるおえないのだ!
手間と時間をかけ、一階、二階合わせて30近くある部屋を順々に巡り、すべての女生徒達に〝おやすみのキス〟をした私はようやく帰路につくこととする。
もう必要がないので、いい加減、
人の顔を
「……あの、どちらさまですか?」
だが、その途中、想定外にも向こうからやって来た中年の女性と鉢合わせをし、怪訝な顔で声をかけられてしまう。
おそらくは見回りをしていた寮長か何かであろう。
だが、まあ、予期せぬ出来事ではあったものの、さほど慌てるようなことでもない。
「ああ、これはどうも。見回りご苦労さまです。用事はすみましたのでこれにて失礼いたします。では、ご機嫌よう。おやすみなさい」
私は笑顔で会釈をすると、堂々とした態度でそう挨拶を申し述べ、さも正規の来客であるかのような素振りで彼女の脇を通り抜けてゆく。
私のその挙動不審とは程遠い様子に、寮長はポカンとした顔でただただ呆然と見送っている。
人間、おろおろ狼狽えず、常に堂々としている者を不審には思わないものだ。
その上、私はびっしりと糊の効いたスーツを着込んでいるので、きっとこの学園の学園長や教師を訪ねて来たお客か、あるいは寮生の父兄か何かだと思っているのだろう。
しかし、彼女と
本当ならこんな仮面、自分でも着けたくはないところではあるが、それではさすがに私の命が危ない。
なぜならば、この仮面の唇には少しでも触れると皮膚から吸収され、ごく少量であっても一瞬の内に死へと至らしめる猛毒が塗ってあるのだ。
いくら〝おやすみのキス〟をするためとはいえ、そんなものを己の唇に塗っては私自身が
だから、彼女達には悪いと思ったが、こんな
だが、これでこの寄宿舎で暮らす愛らしい女生徒達は皆、この穢らわしき苦しみに満ちた現世を逃れ、真なる安らぎを得られる永遠の眠りへとつくことができた。
さあ、次はとなり町の上流階級向け高等女学校だ。穢れたこの世界に、私の救いを求めている子供達はまだまだたくさんいる。もっと精力的に回らねば……。
静寂に包まれた深夜の薄暗い玄関ホール……私は決意を新たにするとモザイク画の施された美しい観音開きのドアを開け、この愛くるしい少女らの眠る霊廟の如き寄宿舎を後にする。
「――まあ! なんてこと! だ、誰か…誰かちょっと来てえぇぇぇーっ…!」
パタン…と優しく閉めたドアの向こう側で、そんな寮長さんのくぐもった叫び声が聞こえていた。
(おやすみのキス 了)
おやすみのキス 平中なごん @HiranakaNagon
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