第29話 地下一階




 ――なつかしい記憶、今から数えて五年前の話。




 午後三時、文学部の棟での講義を受け終え、生協の本屋に向かっていたところだ。


「九条くーん!」


 大声で名前を呼ばれた。

 だが椿はさほど動揺しなかった。自分がすでにこのキャンパスの名物になっていることに気づいていたからだ。注目されるのは好きではないが、それ以上に自分のスタイルを変えたくない。適当に相手をして適当に別れればいい。当たり障りなく、ほどほどに挨拶をして切り上げればいいのだ。


 声のしたほうに顔を向ける。

 学生食堂のある建物の前で、最近見慣れた女が手を振っていた。毛先をばっつり切り揃えた肩甲骨までの長い黒髪、耳たぶが千切れるのではないかと思うほど巨大なトルコ石のピアス、派手な染めの入ったインド綿のワンピース――同じ基礎クラスの岐阜の女岩佐いわさ美也子が親しみを込めて『チャイハネの女』と呼んでいた静岡の女池谷向日葵だ。


「ねぇ、今ヒマ?」

「五限に般教パンキョウ入ってるし生協の本屋でちょっと時間潰そうかなぁとおもてるとこ」


 嘘だ。今日はもう本を物色したら何の用もない。家に帰るだけだし、家で何かすることがあるわけでもない。暇だ。だがそれが露見するとろくなことにならない。


 池谷向日葵は笑顔のまま言った。


「五限か! じゃあ三十分くらい一緒いられるら!」

「は?」


 無邪気な顔で続ける。


「一緒クレープ食べようー!」

「え、いや、池谷さんは何してはったん?」

「わたしもさあ、六限あるからさあ、片っ端から時間ある友達捕まえて時間潰してるとこ!」

「六限? 気ぃ長いなあ、一回下宿帰ったほうがええんちゃうの」

「静岡県民は時間にルーズだから待つのは苦じゃないしさ、一回手ぇ抜いたら戻ってこれないだよ」


 だいたい貴様とは友達ではない、と言いたかったが角が立つ。どんな言い訳をして逃れようかと少し考えてしまう。そうしているうちにも着物の袖を引っ張られる。強引な奴、面倒臭い奴だ。そう思ったが、体の距離が近くなった途端彼女は椿の耳元でこうささやいた。


「変な人に後つけられてるよ。この前日本史学概論でずっと九条くんのこと見てた眼鏡で背の高い男の人。ちょっとひとと建物の中に入ったほうがいいかもね」


 背筋を悪寒が走った。


「……ほな、一緒にいただこうかな」

「やったー!」


 二人でカップルの溜まり場になっている大階段をおり外から地下一階に入る。そこにワンフロアをまるまる使った大学生協が運営している軽食コーナーがある。

 池谷向日葵はレジカウンターに行くと楽しそうにチョコバナナクレープを注文した。椿は何もいらなかったが、助けられたお礼として彼女と一緒に過ごすための何かを買おうと決意し、コーヒーを一杯頼んだ。


 基本的には授業のある時間帯だ。ゼミか何かの話し合いなのかテーブル席の真ん中に白熱した議論を交わすグループが一組いるが、全体としては空いていた。二人はレジカウンターの反対側、ひとけの少ない壁のすぐそばの席に腰を下ろした。


 池谷向日葵がクレープを包む紙をべりべりと剥がす。少々雑だ。


「九条くんたまに変な人に絡まれてるね。嫌なことははっきり嫌だと言わなきゃだめだよ。喧嘩を避けるのはいいことだけど、大学っていろんな国から人が集まるし、日本人でも京都のハイコンテクスト文化が理解できない人もいるよ。空気読めない人とか勘違いする人とか、いっぱいいるからね」


 しかし言っていることは正鵠を射ている。チャイハネの女はアジアでバックパッカーをして研鑽しているのかもしれない。


「わたしのこともめんどくさかったら言わなきゃだめだかんね。向日葵さんはその程度のことで友達やめる人じゃないから安心して言っていいよ」

「頼りになる人やとおもてるよ」

「そう? そんならいいんだけど。まあわたしは九条くんに何か求めてるわけじゃないから無害さね、強いて言えばクレープ食わされるくらいさ」


 素手でクレープを引き千切って、バナナがひと切れのった一部を差し出す。


「食べな。そんな細っこいから風邪ひくだよ」


 手が汚れないか不安になったが、受け取らないための言い訳が思いつかない。おそるおそるつまんで口に入れる。甘い。

 池谷向日葵がその辺にあった濡れ布巾をつかんで目の前に置いた。椿はほっとしてその布巾で自分の指を拭いた。


 無言で過ごすのも気まずい。何か適当に喋ってやり過ごしたい。だが椿は彼女に興味がない。しかもさっき五限があると嘘をついてしまったので授業の話は避けたい。どんな話題が適切だろうか。


「池谷さんは――」

「向日葵でいいよ」

「池谷さんは静岡やったっけ。どうしてこの大学に入ったん?」

「たまたま高校の進路指導室に願書が置いてあっただよ。取り寄せなくていいんだラッキー、と思って受けた。センター試験だけのコースもあって受験料は安かったしさ」


 そんなことで適当に進路を決められる身分がうらやましい。


「入ってから学費ばか高いことに気づいたけど、お父さんがなんとかしてくれるって言ってくれたもんでさ。でも生活費ぐらいは自分でなんとかしろって言われてバイト三昧だわ」

「ほながちがちに受験勉強したわけやなかったんやね」

「うん、わたしセンターしか受けてない。九条くんは?」

「京大落ちて。一応関関同立全部合格したけど、自宅からバスで通えるとこと言うたら二択やねんか」


 言ってからはっとした。もっと適当なことを言うべきだった。なぜ素直に真相を明かしてしまったのだろう。自分の恥部をさらしている。高校の同級生に指をさして笑われた心の傷がうずく。大学では誰にも言っていなかったのにどうしてこんなところで口にしたのか。


 予想外の反応が返ってきた。


「京大受けられるなんて頭いいんだね。地歴と理科二科目ずつ必要なんだら。よく勉強したね」

「……うん」

「わたし進路指導で無難なところ受けろってめちゃめちゃ言われたからGOサイン出してもらえるだけでスゲーと思う。ていうかそもそもの時点で挑戦しようと思っただけ偉いだよ、わたしなんか私大しか受けてないだよ。もう一刻も早く受験から解放されたくてさ」


 椿は呆気にとられた。

 彼女はにこにこと笑っている。


「浪人しようとは思わなかったんだ?」

「僕も受験勉強に疲れてしもた」

「いいね! 妥協妥協! どんどん諦めて体力温存してこ! いつか避けようのない壁ってやつにぶち当たるまで避けられるもんは避けてこ!」


 つい椿も笑ってしまった。


「能天気なやっちゃな」

「よく言われる。いいら、一人ぐらいはこういうのがいたほうが」


 そしてそこで彼女は自分の左手首を見た。銀のエスニックな腕輪とともに安っぽい腕時計を巻いている。


「四時過ぎた。五限あるんだら?」


 いまさら嘘をついたとは言えなくて、椿は「せやったな」と呟きながらコーヒーを飲み干した。


「池谷さんは六限までふらふらしはるのん?」

「そう。あーでも図書館行こうかな、今年の直木賞入ってるかどうかチェックしなきゃ」

「直木賞? 小説なんか読まはるの」

「わたし小説めっちゃ読むよ。漫画も。文字読むの好きなんだよね」


 クレープを巻いていた紙をくしゃくしゃと丸める。


「ハードカバーは高いからね。でもいつ文庫になるかわかんねぇじゃん」


 買うたろか、という言葉を飲み込んだ。それはさすがに失礼なのではないか。


「僕も読むし読み終わったら貸そうか」


 また嘘をついた。だが彼女は気づいていないらしく明るい声を出した。


「嬉しい! でも読めるってわかってるなら気長に待つから焦って読まなくていいよ」


 ほっとした。


「教室近くまで送るよ」

「クレープ食べたら自主休講にしたくなった」

「やべー、わたしのせいか? がはは」

「一緒に生協の本屋行こか」

「行く行く!」


 池谷向日葵、おぼえておこう。意外とまともに会話ができる、という情報を添えて。




 ――ここまで、五年前の話。


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