第25話 ステッキ

 池谷家の住まいは、静岡県東部の街としてそこそこの規模の沼津市街よりは田舎で、伊豆半島の付け根に当たる西浦にしうらのほうに比べると人が住んでいる土地にある。平らな地形で、田んぼの中に点々と住宅が建っている。


 バス通りを挟んで北側が古くからの人間が住んでいる地域、南側が最近開発の手が入った地域だ。その南側の土地は新しいので人工的な公園がいくつかある。


 うちひとつのベンチで、椿は休憩をしていた。現在親戚の家のグレートピレニーズのベリーの散歩中だ。三キロから四キロくらいの距離を歩く。椿はいつも途中にあるこの公園で少し休むことにしていた。


 普通の公園でありドッグランではない。したがってリードを離すことはできない。だがずっとつないでおくのも可哀想で、リードを少し長めに取って歩き回れるようにしている。人懐こくおとなしい性格のベリーは人間を襲うことなく今も近所の子供や老人に撫でられていた。構ってもらえて嬉しそうだ。


 バス通りのほうを眺める。飛び出す子供がいないか注意しておく。バス通りはバスが通るのに本当に狭い。それでいて交通量は多いので時々ひやひやさせられる。


 公園にまた一人新しい客が入ってきた。


 椿は、おや、と目をみはった。


 入ってきた男性が、黒いインバネスコートの中に暗い灰色の羽織と明るい灰色の長着、フェルトの冬用ハット、そしてステッキのダンディな老紳士だったからだ。


 初めて見る人だ。


 沼津に引っ越してきてから日常生活の中では初めて出会った和服の人間だ。


 やっと仲間に出会えた。


 目が合った。


 彼がこちらに歩み寄り、帽子を手に取って軽く頭を下げた。椿も立ち上がっておじきをした。


「あんたが池谷さんちの向日葵ちゃんの旦那さんやろか」


 関西弁を話している。このイントネーションはおそらく神戸だ。


「はい、そうです。池谷椿と申します」

「僕は土佐谷とさや光一といいます。家は最近こっちに引っ越してきたんですけど、もともとは戸田へだに住んどって、家内が花代さんと親戚で昔から定期的に顔を合わせてましてん」


 花代というのは向日葵の祖母の名前だ。池谷一族は本当に顔が広い。


「急に声かけてぶしつけやろうかと思ったんやけど、関西出身の着物男子つながりでどうやろ。まあ僕はこんな白髪頭のおじさんやけどね」

「とんでもない、嬉しいです」


 ベリーが尻尾を振りながら近づいてくる。土佐谷氏が笑顔でベリーの頭を撫でる。


「ベリー、お前最近若いイケメンに散歩してもらってるらしいな。よかったな」


 椿は声を漏らして笑った。


「僕は神戸です。椿くんはお国は?」

「京都です」

「はあ、道理で落ち着いていて上品なわけやね。京都はいいところやね、今紅葉が綺麗な季節や」

「神戸もええところですやん。おしゃれで、おいしいパン屋さんがたくさんあって、海があって。京都は盆地やしこっちに来てから気軽に海が見れるーおもてめっちゃテンション上がりましてん」

「せやね。海はいいね」


 ハットをかぶり直す。


「僕はね、もともとは商船の会社で働いとったんです。そのご縁で静岡に働きに来て家内に出会ったんですわ。しばらく清水で一緒に暮らして、家内の実家のある戸田に移住してね」

「そうなんや」


 清水は――商船が出入りするということは静岡市清水区のことだろうが――開けていて晴れの日も多い土地だが、漁村の戸田に移住するのはなかなか大変そうだ。失礼にも、よっぽど奥方を愛しているのだろう、と思ってしまった。


「老い先短い身やからね」


 そして「失礼」と言ってベンチに腰を下ろす。


「若い人が話し相手になってくれるととても嬉しいです。静岡は温暖で開けてるのに老人が多いわ。いや、逆か。温暖で開けてるから老人が移住して終の棲家にするらしいな、僕もやから大きな声では言えへんけど」

「なるほど」

「でも最近向日葵ちゃんや仲間たちみたいな若者が盛り立ててくれてるからありがたいね。第二の故郷やから、やっぱり人を呼び込んでくれる人がいてるというのは心強いね」


 椿は目を細めた。

 あくまで第二の故郷なのだ。第一の故郷は関西にあって、彼は今も関西弁にこだわっている。

 親近感が湧く。

 自分もこの地に骨をうずめるつもりでいるが、故郷はあくまで京都だ。彼はそんな生き方を肯定してくれる存在に見えた。


 土佐谷氏の隣に腰を下ろした。


「刺激のない暮らしをしとるとボケてまうからね」

「僕もこの年やのにたいがいボケてますわ」

「静岡で暮らすとボケが進むんやわ」


 彼がからっと笑うので、椿も一緒になって笑った。




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