第20話 祭りのあと

 こんなにも誰かを好きになれる日が来るなんて思ってなかった。


 実花みかは高鳴る鼓動を感じながら通学路を駆け抜けた。


 すごく興奮してる。胸がはち切れそう。心も体も地球も宇宙も何もかも爆発する!


 目的地が近づいてきた。


 夕焼け、バス通りを車が走る音、からっぽの田んぼ、乾燥して冴え渡る空気、何もかも小さかった頃から変わっていないのにあの人のことを想うだけですべてが輝いて見える。きっとこれが青春なんだ。うつくしい日々! いつか振り返った時になつかしく思うのかな。それはきっととてもしあわせな記憶でわたしはずっと強くいられる。空気は冷たいのにとても暖かいのは走っているから?


 角を曲がる。親戚の池谷さんが経営している製茶工場が見えてくる。横長の建屋、グレーの屋根、小さな窓、通気口からは生温かい排気。

 玄関に当たる部分が出っ張っていて、武骨な工場には不釣り合いな木製の立派な門を構えている。軒下には池谷本家の屋号が入った暖簾。ガラス張りの戸の向こうに、お茶を入れた銀の一斗缶が並ぶ壁、可愛い和柄のパッケージで包装されたティーバッグのパックの棚、陶器の湯呑みに鉄器の茶瓶や茶釜、どこの誰が置いていくのか『地元のおいしいたまご』と書かれたザルの中の茶色い鶏卵が見える。


 古ぼけたレジがあるカウンターに、ひとりの青年が座っている。ぼんやりした表情で新聞の紙面を眺めているその白い顔は女性的な細面で、すっと通った鼻筋に切れ長の目、薄い唇も整っている。この辺じゃめったに見られない美青年だ。


 健康なのに心臓が痛い。


 実花が覗き込んでいると、彼が顔を見上げた。


 目が合った。


 彼はカウンターに新聞を置いて台をおりてきた。今日は柿色の長着ながぎにほとんど黒みたいな濃い緑の羽織。この人は美人だから何でも似合う。


 彼が内側からがらがらと音を立ててガラス戸を開けた。


「実花ちゃん」


 名前を呼ばれるだけで天国に行けそう。


「今日はおばあちゃんが出かけてて僕一人やしお店離れられへん、ごめんね」


 知ってた。実花の祖母も町内の婦人会で出掛けている。今頃そっちのばあさんもこっちのばあさんも公民館で楽しいお茶会だ。だからこそ今日来た。どうしても彼が一人でいるところに来ないといけなかったんだ。


「つ、つ、つ、椿くん!」

「はい?」

「あのっ」


 通学バッグから手紙を取り出す。ららぽーとの文具屋で買った花柄の活版印刷のレターセットだ。バッグの中に入れておいたせいで端が折れてしまっている。もっと完璧に用意しておきたかったのに。

 スマートな女性だと思われたかった。

 そうでないと近所で一番気立てのいい向日葵ちゃんに勝てない。


 頭を下げ、両手で差し出した。


「受け取ってください!」


 実花の十四年の人生で一番気合の入った手紙だ。


 大好きな椿くんへ、一生分の想いを込めて綴ったラブレター。


 少しのあいだ、間が開いた。


 心臓と言わず、内臓という内臓が破裂してしまいそう。


「……実花ちゃん」


 ラブレターの分の重みが、あまりにも重すぎて手が震えたくらいの重い手紙が、手から離れた。


「一応手紙だけは受け取っておくけど――」


 胸の奥が冷える。


「でも想いまでは受け取れへん。ごめんね」


 顔を上げると、彼が困った顔で微笑んでいた。

 そんな大人な顔はしないで。十個の年の差を思い知らされてしまう。


「僕、頭のてっぺんから足の爪先まで全部向日葵さんのものやさかい実花ちゃんの気持ちにはこたえられへん」


 そう言いながら、彼は実花のラブレターを着物の胸元にしまった。


「おしまい。もうおうちに帰りなはれ」


 実花は頷いた。


 いつの間にか自分が泣いていることに気づいた。目からあふれた液体の温度で頬が熱い。


 ほんとはわかってた。実花ではあの向日葵ちゃんには勝てない。


 もっと大人だったら、と思わなくもないけど、それで不倫に走るような男だったら自分が心底惚れた彼ではないのだ。


 たぶん、向日葵ちゃんが好きな椿くんが好き。


「ごめんなさい……っ」

「謝らなくてええからね。でも慰めたりはできひん、ごめんね」

「家に帰ります」

「ほなね、気をつけてね」


 実花はダッシュで家路を急いだ。


 はいはい、おしまい、全部終わり。たくさん泣いたらお風呂でさっぱり流して終わりにしようね。がんばれわたし!





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