第7話 引き潮

 仕事の取材交渉で朝から沼津港方面に行くことになった。

 ということを椿に告げたら、一緒に行きたいと言い出した。海を見たいらしい。


 向日葵はどちらかといえば山育ちだ。だが海も特別に見ようとしなくても高台の茶畑から常に見えているものだ。幼稚園の遠足から高校の遠泳大会まで出かける先といえば海、仕事でも港の鮮魚からラブライブサンシャインまで何もかも海、もはや生活の一部でとりたててどうこうということもない。

 しかし生まれも育ちも京都市内、結婚するまで山に囲まれた盆地で暮らしていた椿は時々海を見たがる。

 わざわざ日取りを決めて出かけるほどのものか、とは思うが、地元の景色をいつくしんでくれるのはありがたいことだ。


 港のりが終わる頃、一次産業に携わる者からしたら遅い朝、一般企業に勤める者からしたら早い朝に、千本浜に到着した。防風林として海岸沿いの原っぱに松の木を千本植えたという伝説があるから千本浜というらしい。千本松原の公園の駐車場ではなく、防波堤の階段の下、駐車スペースに車を止める。右側に松の林が見える。


 椿が少年のように無邪気に階段を駆け上がる。向日葵はその後ろをゆっくりついていった。潮の香りがする。


 階段の一番上まであがると、午前中のさっぱりした太陽が海面を照らしていた。


 いつの間にか椿はくだりの大階段をおりていた。粒の大きな黒い砂を踏み締めて波打ち際のほうへ進んでいる。


 向日葵は大階段に腰を下ろしてしばらく見守ることにした。


 干潮の時間帯だったらしい。波打ち際は広く、椿が砂の段差に足を取られてしまわないか少し心配になる。


 椿が向かって右のほうを見た。


「富士山やー!」


 目をやると、確かに冠雪して白くなった富士山が見えた。そんなにはしゃぐようなものだろうか。


 椿のほうに視線を戻す。


 白いさざ波、輝く太陽、彼が動くたびにヨーロッパの貴婦人が挨拶する時のように両手でつままれた袴が翻る。


 これはあれだ、夏の幻覚、白いワンピースを着た『僕の恋人』の構図だ。


「ふふっ」


 可愛い『僕の恋人』。


「ようわからへんけどひいさんも楽しそうでええなあ」

「いや、なんでもないよ、ごめんごめん」


 向日葵は立ち上がった。


「わたしは行くけど、ひとりで港のほうまで来れる?」

「グーグルマップ先生に甘えてなんとかするわ」

「よろしい。じゃ、またお昼にね」



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