森の怪人

じょう

 

 富士の樹海、入念な備えなくば生きては変えられぬ日本の数少ない秘境。ホテルニュー五湖はそんな富士の樹海に建造され、そしてオープン前に遺棄されてしまった知る人ぞ知る廃墟スポットである。


 その日、市原恭介は趣味の廃墟写真の撮影のためホテルニュー五湖を訪れ、そしてそのエントランスで無残にバラバラにされた死体を発見し、絶叫した。

 だがさらに恭介が驚いたことに、だれも居ないと思っていた廃墟周辺には彼以外に3人の人間がおり、悲鳴を聞きつけて恭介の元へと集まってきたのだった。

 彼らはバラバラ死体を認めると皆一様に青ざめ、恭介へと事情を聴き始めた。


「ぼ、僕はここに来た途端にこの人が死んでいるのを見つけて……」

 恭介はあたふたと説明する。

「私たちがここに来た時にはこんな死体無かったわ」

「ああ……俺たちがここに着いたのは10時くらいだった。その時にはエントランスは綺麗なもんだったぞ」

 二人組の男女は心霊スポット探検動画を制作しているYouTuberのタカ&ユナと名乗った。

「今は11時10分……ほんの一時間以内にここでこの人は殺されて……ば、バラバラに……」

 誰よりも青ざめた顔で死体から顔を背けているのは環境パトロールの後藤と名乗った。


「だ、誰がこんなことを……」

 そう言いながら恭介はちらりと二人組の男女を見てしまう。

「……あ?おい待てよ、俺たちがやったっていうのか?」

「ちょっと、冗談じゃないわよ!私たちは撮影場所のチェックを兼ねてこのホテルの部屋をいろいろ見てただけよ!お互いずっと一緒だったし、服だって綺麗よ!」

 確かに、人をバラバラに刻んだにしては彼らの服や靴は埃っぽいものの血の痕跡一つない。こんな水も流せない廃墟では血を洗い流したということもないだろう。

「じゃ、じゃあ……」

「ととと、とんでもない!私は悲鳴を聞いてたまたま駆け付けただけなんですよ!」

 話の流れで矛先を向けられた後藤はぶんぶんと首を振ると必死に否定してみせた。

「確かに、あんためちゃくちゃ泥だらけだし、いかにも外を回ってましたって感じだよな」

 後藤の手や靴や作業着の膝は泥まみれで、彼の足跡が入り口から続いているのがはっきり見えた。彼は悲鳴を聞いて外から駆け付けて来たのだ。

「ぼ、僕だって違いますよ、犯人ならわざわざ人を呼ぶような悲鳴を上げたりしません」

 恭介も自己弁護を行う。

「そもそも、ケーサツ呼んだ方がいいんじゃないの?」

 ユナがスマホを取り出す、しかし残念ながら圏外であった。

「な、なにがあるかわからない、みんなで電波の届くところへ行きましょうよ」

 後藤がそう促し、恭介たちはホテルの入口へ向かおうと振り返り――


 そこに新たに一人の男が立っていた。彼の目は昏く、濁っており、底の見えない闇のようであり、目を離すのが困難であった。


「だ、だれだ!?」

 全員が警戒する。雰囲気が異様であったからだ。彼は真っ黒な作務衣姿であり、腰から紐を何本か垂らしていた。

「君たちこそ誰だい?人に名を尋ねるならまず名乗りたまえ」

 壮年のその男はそう呟くと

「ああ、いや結構、そんなことより早くそこから移動した方がいいと思うよ」

 と言い直した。


「えひゅっ」


 次の瞬間、ユナの体が宙に浮いた。ホールの照明の上から赤茶けた腕が彼女の首を無造作に掴んだのだ。

 間の抜けた声は締め付けられた彼女の喉から噴き出た音であり、そして彼女の遺言でもあった。

「オオオォア」

 赤茶けた腕は彼女の首を無造作にへし折るとそのまま後藤の上へと落とした。

「ひ、ひいいいぃぃぃ!」

 だらりと力の抜けたユナの死体の下敷きにされた後藤は、情けなくバタバタともがくが、腰が抜けてしまい抜け出せないようだった。


「うわあああ!」

 恭介は今日二度目の絶叫を上げる。タカは叫びながらホールの階段を上り逃げ出した。

「ま、待って!」

 恐慌状態に陥った恭介は反射的にタカを追う。

 二人は二階へと上がると、目についた開いている扉の部屋へ逃げ込んだ。

 部屋へ入る一瞬、赤茶けた巨体がホールの照明からひょいと跳躍し二階へ上がってくるのが見えた。

「し、閉めなきゃ!」

 恭介が部屋の扉を押さえつけようとしたその時、ドアははじけ飛んだ。赤茶けた怪物が、ドアを突き壊し侵入してきたのだ。

「がっ」

 恭介はドアに肺を強打され息もできなくなった。そればかりか彼は吹き飛び……

「はっ」

 開いていた窓は彼をそのまま二階の高さから外へ素通しした。

 べちゃ!

 どこかから水が流れてきているのだろうか、ぬかるみになった地面に墜落した恭介は衝撃で意識が飛びそうになった。

 打ちどころは悪くなかったのだろうか、段々と視界が戻ってくる。

 彼が飛び出して来た窓からもう一つボールが落ちてきた。

 ベちゃ!

 ボールは恭介の顔の真横に音を立てて落ちた。

 恭介は目を向ける。

 それはボールではなく、ねじ切られたタカの生首であった。


「オオオォア」


 開きっぱなしの窓から赤茶けた怪物が顔を覗かせた。

 それは醜く返り血に染まり、歪んだ笑みを浮かべるオランウータンであった。


「ひ……」

 恭介は泣き笑いの表情になる。殺戮に取りつかれたかのような悪魔の表情のオランウータンは窓に手をかけ、恭介を残酷に殺そうとしているのだ。

「オオオォア」

 殺戮オランウータンが窓から飛び出す。恭介は反射的に目を瞑った。

「……!……?」

 おかしい、怪物の着地した音が聞こえない。恐る恐る恭介は目を開いた。


「オ……!ア……!」


 殺戮オランウータンは空中でもがいていた。空中で?

「なんだあれ……」

 よく見れば、殺戮オランウータンの首や手に無数の紐……否、縄が絡みついている。

 窓から伸びる幾本もの縄が殺戮オランウータンを絡めとり、少しずつその巨体をホテルの内部へと引きずりこんでいるのだ。

「オ……!ア……!」

 殺戮オランウータンは抵抗しているが、それも虚しくホテルの中へと引きずりこまれていった。

 恭介はしばらく呆然と窓を眺めていた。今のは何だったんだ?疑問と共に極度の興奮で感じていなかった痛みが戻ってきた。

「うっ……はぁ」

 恭介は何とか立ち上がる。幸い骨は折れてはいないようだった。

 恭介は立ち上がり、少し逡巡したのちホテルのエントランスへと歩いて行った。

 何もかもが奇妙だ、何が起こっているんだ?恭介の脳裏にホテルにたどり着いてからの混乱がフラッシュバックする。


 バラバラ死体。

 タカ。

 ユナ。

 後藤。

 作務衣の男。

 殺戮オランウータン。

 ユナの死体。

 逃げ込んだ部屋。

 吹き飛んだドア。

 開いていた窓。

 ぬかるみの地面。

 タカの生首。

 縛られた殺戮オランウータン。


 再びエントランスにたどり着いた恭介は、息を整えながらホールの惨状を見渡した。

 相変わらずバラバラ死体がそこにあり、少し離れてうつぶせのまま天井を見上げるユナの死体があった。

「後藤さん……?」

 彼は無事なのだろうか?

 するとホールの奥から何か紙袋を抱えうつろな目で歩く後藤が現れた。

「後藤さん!無事だったんですね!」

 恭介は叫んだ。しかし、無意識のうちに彼の足は後ろへ下がろうとしていた。

 ぶつぶつと何かを呟きながら歩いてくる後藤。恭介は、じりじりと交代する。何故?

 後藤の靴が目に入る。泥だらけの靴だ。恭介は自分の靴を見た。泥だらけだ。何故、あの部屋の窓は開きっぱなしだった?

「わけわかんねえよ……なんで今日に限ってこんなことになるんだよ……」

 後藤の紙袋を握る手はがたがたと震えている。泥だらけの手だ。恭介は自分の手を見た。泥だらけだ。何故、後藤の服は靴と膝と手だけ泥だらけなんだ?

「後藤さん……あなた……本当はあの時ホテルの中に居たんですよね?それで、窓から飛び降りて……外から来たふりをして……どうして」

 どうして?決まっているのではないか?

 後藤の持っていた紙袋の底が抜け、ドサドサと紙の束が落ちた。

 札束だった。

 後藤の腕は恭介の首に伸びた。

「あいつが悪いんだよ!やっと時効が来て自由になれたってのに、あいつが急に取り分を増やせとか言い出すから!こここ、殺されったってしょうがねえもんなあ!ああ!?」

 憤怒の形相の後藤は恭介を押し倒し、ぎりぎりと彼の首を絞めていく。

「そしたらわけわかんねえアホが二人も来やがった!死体を隠して見張ってたらいつの間にかサルのバケモノが食ってた!おまけにお前が来るから二階から飛び降りる羽目になった!!俺はやっとこの金を手に入れるんだ!だだだ、誰にも邪魔ァさせねえ!!」

 恭介の意識は次第に遠のいていく。ゆっくり――目を――


「君、そこをどいてくれないか?作業の邪魔だよ」


 後藤の手が止まる。声をかけたのは、あの作務衣の男だった。

「おおお、おめえも殺してやる!皆殺しだ!」

 後藤は恭介の首から手を離すと作務衣の男に飛びかかる。

「作業の邪魔だというのに」

 作務衣の男は後藤をひらりとかわすと、手にした縄ですれ違いざまに後藤の手と足を縛ってしまった。

「ああああ!なんだ!?なんだってんだ!?」

「五月蠅そうだな、口も縛ってしまうか」

 作務衣の男は流れるように後藤の口を縄で巻き付けると、後藤はもごもごと何かを呻きながら地面に転がされてしまった。

「さて、作業に移ろうか」

 作務衣の男はそう言うと、縄を引く。

 ずりずりと引きずられてきたのは……殺戮オランウータンであった。

「ひっ!」

 恭介は怯えるが、殺戮オランウータンはすでに体のあちこちを縄で縛られており、最早身じろぎ一つできないようであった。

「こ、これをあなたが……?」

 恭介の問いかけに男は答えず、死体をどかし始めた。

「うん、ここがいい。飼い主の夢の跡地で、動物のルールをはみ出したバケモノを……縛る」

 作務衣の男はにたりと笑みを浮かべる。その笑みは、今日恭介が見たどんな歪んだ表情よりも恐ろしいものだと感じた。

「あ、あなたは一体……」

 恭介はもはや足の力も抜け、床にへたり込む。

 男は答えず、黙々と作業を続けていた。

 恭介はしばらく考え、そして次にこう語りかけた。

「あの、僕は市原恭介です、あなたは……」

 作務衣の男は手を止め、やれやれと首を振ると恭介に向きなおった。

「先に名乗れ、と言ったからね、しょうがないな」

 作務衣の男の昏い瞳が恭介を見据えた。その眼は、殺戮オランウータンよりも残酷であった。


「僕の名は荒縄締太郎——緊縛師だよ」




荒縄締太郎対殺戮オランウータン       了

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森の怪人 じょう @jou-jou

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