391話 ルヴィアの新しい生活
ブレイドホーム家に引き取られてからはや三日。
これまでとはまるで違う新しい生活には未だ慣れる事は出来ずとも、ルヴィアの胸には充実した思いが溢れていた。
色々と自分に言い聞かせてはいたものの、やっぱりセージから母と呼ばれれば嬉しい。
それもエルシール家の時のように周りへの印象付けの演技ではなく、本当に母と思うために頑張ってそう呼んでいる。
嬉しくないはずが無かった。
「おはようセージ、何か手伝える事は無いかしら」
朝日も昇らぬ薄暗い早朝から、セージは大量の料理に精を出している。
ルヴィアも朝は早い方だが、使用人のような時間に起きて活動した経験はない。
それでも息子のために手料理を振る舞ってあげたいという気持ちが抑えられず、しかし料理の経験などろくに無い事を自覚している彼女は、少しずつでも覚えていこうと厨房に来た。
嘘である。
本当はただ一緒に料理がしたかったのだ。
もっとはっきり言ってしまえば、セージの側にいたいだけだった。
「ああ、ル――母さん。おはようございます。
すいませんがこっちは一人でやった方が効率が良いので庭の方に……ん~、いや、それだと力仕事になるか。
そうですね。スープの方を見て貰えますか」
「ええ、任せて」
ルヴィアは大きなスープ鍋の前に立った。
鍋には水が入っていて火にかけられている。沸騰はしていない。
任せてとは言ったものの、これをどうすれば良いかルヴィアにはわからない。
「こっちに材料出してるんで、全部入れてかき混ぜればいいですよ。
一応、何が入ってるかだけ気にしといて下さい。
おいおいちゃんと教えますので」
セージがそう言って渡してきた――手ではなく、魔法で浮かんでルヴィアのそばまでやって来た――トレーには玉ねぎとベーコンチップ、コンソメの素が乗せられている。
「どれから入れればいいのかしら」
「気にせず全部どさっとぶち込んでOKです。細かい味の違いとか気にする人はいないんで。とりあえずササっと大量に作るのが大事です」
セージはルヴィアの方を見る事も無く、そう答えた。
もっともそれは他の作業に気を取られているから視線を向けてこないだけで、ルヴィアの行いを把握できていないわけではなさそうだった。
ルヴィアが恐る恐る玉ねぎを入れていると、もっと景気よくやって下さいと声がかけられた。
トレーの中身を全て入れ終わると、今度は大きなお玉がぷかぷかと空を飛んでルヴィアの下へやって来る。
「それでしばらくかき混ぜてください」
「ええ」
ルヴィアは言われたとおりに鍋をかき混ぜる。
「かき混ぜながらでいいんで、ちょっと周りを見てもらっていいですか」
「ええ、わかったわ」
ルヴィアは鍋から目を離して、セージを見る。
いくつもの調理器具が空を舞い、食材も飛んでいる。
彼女の知る料理とはまるでかけ離れた光景だった。
「一応ひと段落したので、少し余裕出来ました。
見ての通り雑に色々やってるんで、慣れてないと入りにくいんですよね。色んな魔法使ってるので不用意に近づくと危ないので」
「……お邪魔よね」
料理初心者が手伝いを申し出ても教える分だけ手間がかかる。
分かりきっていた事だが、ルヴィアはわずかに気落ちしてそう言った。
演技で誤魔化すことは簡単だったが、それでは逆に気を遣われてしまう。
むしろ正直に口にしたほうがセージも気を遣わずに済むのだと学習していた。そしてセージも同じように考えているようで、はっきりとルヴィアの言葉を肯定した。
「まあ有体に言うと、そうですね。
ただこれいつかは改善しようとは思ってたんですよね。
そもそも赤字ギリギリの経営なので料理人を雇うってのは無しだったんですけど、子供らに教えていくのならいいかなって。
ここのキッチンは広いので大人なら何人かで作業できるんですが、高さ的に子供だと辛いので庭に新しく本格的な調理スペース作って、そこで教えていこうかなって思ってます」
セージの言葉にルヴィアは頷いた。
「そうね。その方が良いと思うわ」
セージの様な貴重な人材が家事に追われているのは浪費だろう。本人がやりたいと思っているのなら異論を唱える気は無いが、そうでないならやらずに済むよう全力でサポートするつもりだった。
もっとも家事スキルが底辺のルヴィアには、料理に関してサポートできることはほとんどないのが現実だった。
「それでなんですが、その子供たちの料理教室には母さんも参加してください。
初心者視点が欲しいってのもありますが、たぶん母さんがいると駄々っ子たちも大人しくなると思うんですよね」
「任せて」
ルヴィアは再び力強く頷いた。
どうも気後れさせてしまうので子供の相手は不得手だが、しかし大好きだ。それにこの家で暮らしていくのだからいつまでも苦手でいるわけにもいかない。
ルヴィアは静かにやる気をみなぎらせ、そうこうしているうちに最初の朝食が出来上がり、新たな人物が入って来る。
「おはようございます、二人とも」
厨房にやって来たマリアは、ルヴィアとセージを見ると優しい微笑みを浮かべた。
「おはようございます、マリアさん。庭の方はもう準備できてますか」
「ええ、後は運ぶだけですね」
******
アベルとマギーは政庁都市に戻って、カインとセルビアは産業都市からまだ戻って来ておらず、ジオは家出したままでシエスタは官庁に泊まり込みで仕事をしている。
そんな訳でブレイドホーム家の人間はセージとマリア、そしてルヴィアだけである。
普段なら日課の掃除を終えた子供たちと軽めの朝食をとったら、道場で朝練をしてもう一度朝食をとる。
しかしよく食べる子供たちもいないので、セージたちは朝食は最初の一回で済ませる事にした。
その朝食には保育士や指導員のアールも参加していたので、ちょうどいいとセージは子供たちに料理を教え、朝食や昼食の準備を任せていこうと提案した。
「いいんじゃないか。そもそもお前がやっているのはちょっとおかしいからな」
「そうは言いますけど、料理を教えるって結構面倒じゃないですか」
「そもそもこの規模の邸宅なんだ。使用人ぐらい雇ってもいいだろう。
お前にも立派な立場があるんだ。些事を任せるのも大事なことだぞ」
したり顔でセージに教えを説くアールを見て、ルヴィアは綺麗な眉を僅かにひそめた。
「アール様の言い分はわかりますが、この家の空気は良い意味で庶民的です。
部外者を下働きとして雇うことでその空気を歪にすることの意味をお考えですか」
考えていませんよねと、あくまで穏やかな口調でルヴィアは遠回しにアールを窘めた。
セージは雇っている保育士も指導員であるアールにも一定の敬意を払っている。
それは雇用主と労働者という立場の違いはあれど、同じ人間であり根っこの部分では平等なのだという理屈を守っているのだが、それは守護都市のみならずこの国の中ではあまり一般的な考えではなかった。
普通ではないが、しかしそれは雇われる側からすればとても好ましいもので、だからこそアールも苦言を呈することにいくらかの後ろめたさを感じていた。
「この家は名家になるのだ。人の立場に上と下がある事には慣れていくべきだろう」
感じていたが、しかしセージやブレイドホーム家の今後を考えれば自分の意見は間違いなく正しい。
その自信があるからこそ、アールは同じ意見を繰り返した。
そんなアールを見てルヴィアはうっすらと笑みを浮かべた。芸術的なまでに美しいそれを見て、アールは何故だか背筋が寒くなった。
「その驕りが、人の命を容易く弄ぶのでしょうね」
ルヴィアは冷たい声でそう言った。
彼女はセージの経歴を念入りに調べた際にアールがかつてセージにしたことの真相にたどり着いていた。
心を入れ替えたことは経緯から読み取っているし、こうして直接やり取りをすることで感じ取ってもいる。
ただそれはそれとして、気に入らないと言うのも正直な感想だった。
「はいはい脱線してますよ。
まあそれで庭に子供でも大人でも使える調理場を作ろうかなって思ってるんですよね。
イベントの時に使ってる仮設用のだと火は使えても水が使えないし調理スペースも狭いので、屋根と風よけの簡易的な壁もあるちゃんとしたのが欲しいんですよね。
マージネル家でも似たようなのありましたけど、あれって簡単に作れますかね」
セージの言いようから自分で作ろうと考えているのを読み取って、アールはそれを否定する。
「水回りもとなると、自作するよりは専門の人間に任せた方が良いだろう。長く使うなら結局はそっちの方が安く済むし、使う人間のためにもなるぞ。
ミルク殿のところに頼んでもいいだろうが、スナイク家の取り調べはまだしばらくかかるだろうからな。
どうせなら商業都市の職人に相談してはどうだ。隣の産業都市から流れてきた腕利きの職人も多いと聞くぞ」
「そこまで本格的なものは考えてなかったんですけど……ああ、まあ確かに長く使う事を考えたらお金をかけてもいいかな。
色々とイベントもやりますし、偉い人もちょくちょく来るようになりましたし」
セージの頭の中に浮かんでいる偉い人とはクラーラやアリーシア、スノウにラウドといった面々であり、皇剣ケイや名家長子のアールは含まれていない。
アールはそれを読み取ったものの、近しい人物と思われて悪い気はしなかったので苦笑だけで済ませた。
そしてそんなアールの内心を読み取ったルヴィアとマリアからは、調子に乗るなよと思われていた。
「それじゃあ後で商業都市に出かけますか。
マリアさんはシエスタさんのところですよね」
「ええ。着替えと弁当を渡して、それからは護衛ですね。
そう言えば伝え忘れていましたが、スナイク家がセージに面談の許しを求めていますよ。
もちろん取り調べが終わってからの話なので、まだしばらく先になるでしょうし、状況が落ち着いてから改めて正式に申し入れもあるでしょうが、覚えておいて下さい」
「ああ、あっちは大変そうですもんね。わかりました。
取りあえずそれじゃあ家の事はアールさんにお願いしていいですか?
僕は母さんと商業都市に行ってこようかと思うので」
ルヴィアの脳内でファンファーレが鳴り響いた。
しかしセージの前で浮かれたところを見せるのは恥ずかしいので、吹き出しそうになる鼻血と小躍りしたい衝動を必死で抑え込んだ。
「ええ、任せなさい。最高の職人を紹介するわ。
国宝級のキッチンを作りましょう」
「いえ、欲しいのは庶民的な野外キッチンです」
そんな話をしていると不意に、セージは正門の方に視線を向けた。
「ケイさん?」
他の人たちもそれでケイの来訪に気づいた。
ケイはゆっくりと重い足取りでセージたちに近づいてくる。
「おはようございます。どうかしましたか?」
心配そうにセージが言った。
ケイの顔色は見るからに悪かった。
眼の隈は深く濃い。ろくに眠れていないことが簡単に見て取れた。
頬もこけ、食事もろくにとっていないことが窺える。
エルシール家とスナイク家の問題で忙しいにしても、人知を超えた魔力を有するケイがここまで消耗するなど尋常な事態ではない。
「なんでもない、私は大丈夫」
「何でもないって事は無いでしょう。食欲はありますか。スープだけでも飲んでください」
セージはそう言ってオニオンスープを用意し、ケイに手渡す。
その際に彼女の体に触れ、探査魔法を行使して体の異常を探った。
分かった事は、極度の疲労ということ以外には何の異常もない事だ。
セージは訝しみながらケイに声をかける。
「ちゃんと寝てますか?
食事は?
「大丈夫って言ってるでしょ」
暗く、そして苛立った声音は小さく、その態度は煩わしさがにじみ出ていた。
ケイのあまりに似合わないその態度に、マリアとアールが顔を見合わせた。
数日前の事件では、あのジオが落ち込むほどの事が起きた。
ケイにとってもひどく厳しい経験だったのは想像に難くない。だが当日も、その翌日もここまでショックを受けている様子はなかった。
何があったのか悪い想像を働かせる二人を余所に、ケイが来訪の目的を告げる。
「精霊様が呼んでる。来て」
陰鬱な声音で告げられた言葉に、マリアとアール、そしてルヴィアは皇剣ケイに下されたであろう命令に最悪の想像をした。
あの日、セージたちに何があったか。
ある意味では当事者であったマリアとルヴィアも含めて、三人は子細を知らない。
知ろうとすることすら諦めた。
精霊様の言葉はそれほどに重いのだから。
だがそれでも精霊様が警戒する事件が起きたことだけははっきりしている。
そしてセージは精霊様とはつながりのない神子で、皇剣武闘祭ではひどく危険な力を発揮していた。
さらにケイは――アールの策謀こそあったものの――精霊様のご意思で、セージをその手で殺めようとした過去がある。
そのケイが、今にも死にそうな面構えでセージを精霊様の下へと連れていこうとしていた。
ただ連れてこいなどという簡単な命令でないことは明らかだった。
ルヴィアは立ち上がったセージの服の裾を掴んだ。
彼女は三人の中で唯一、精霊様の願いを知っている。
緊急事態が起きたことで、神子であるセージを殺しその魂を取り込もうと考えていてもおかしくないと、他の二人よりも強い危機感を抱いていた。
「セージ」
行かないでと口にするのは簡単だ。
だがそれで止められるわけなどない。
精霊様の命令は絶対なのだから。
「うん?
なんでそんな顔をしてるんですか?
……ああ。
今日は帰ってこれないかもしれませんけど、まだ余裕はあるので、買い物は別の機会に行きましょうね」
セージは何の心配もしていない呑気な態度でそう言った。
マリアとアールはそれに毒気を抜かれ、確かに心配のしすぎだと自分たちを納得させた。
だがルヴィアは安心などできなかった。
なぜならそれは演技だったからだ。
二人は騙せても、ルヴィアの眼は欺けていない。
セージは精霊様に殺される可能性も想定していて、それでいて何の気負いもなく周りを気遣ったのだ。
セージの心は壊れている。
セージは死を恐れていない。
もうそれはわかっていた事だ。
だがそんなセージを止める術がルヴィアには無い。
止めた後に精霊様からセージを守る術がルヴィアには無い。
何も出来ないルヴィアの言葉に従うメリットがセージに無い。
だからルヴィアは、演技をする。
マリア達と同じように、勘違いで心配してしまったと後悔する様に。セージの憂いを僅かでも減らせるように。
「……行こう。
急がなくていいと言われてるけど、そんな訳にはいかないから」
「了解。
アールさん、悪いんですけど家のことおねがいしますね。
分かっているとは思いますけど、母さんは悪い人に狙われると危ないので、一人で出歩かないようにしてくださいね。
それじゃあ、しばらく帰れないようなら何かしらで連絡入れるのでご心配なく」
セージはそう言って、ケイと共にブレイドホーム家を旅立った。
その背中を、ルヴィアは笑顔をたたえて見送った。
また、見捨てた。何も出来なかった。
そんな後悔で胸の奥を焦がしながらも、美しく微笑みセージを見送った。
「それではマリア、私もシエスタのところにご一緒させて頂けますか」
無力な自分を嘆くことも、哀しむこともしない。
そんな無駄な時間はない。
今できる事はセージは帰ってくると信じ、そして力を付ける事だ。
浮ついた気持ちでいたことを恥じ、ルヴィアは決意を新たにした。
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