389話 一応まとまったらしい





 家族と縁を切ると決めたのは、高校に入学したぐらいの頃だった。

 最初からはっきりとした覚悟が定まっていた訳ではなく、迷いながらもそれ以外の考えも浮かばず、罪悪感に押しつぶれながら準備を進めていた。

 当時の私はそれこそ何も知らないただの子供で、だからこそ一人で生きていくために必要なものを学びはじめた。


 今から考えれば、それは言い訳だ。

 私に勇気があれば、後先のことなど何も考えずに家を飛び出せただろう。

 家族との生活を続けるよりも、その方がよほどマシだったのだから。


 臆病な私は家族は仲良くしなければならないなんて常識や、育てて貰った恩とか、私に逃げられた後の家族が親戚からどう見られるかなんてことを気に病んで踏ん切りがつけられないでいた。

 きっともうこの時には気持ちは定まっていたのだ。

 ただ臆病だから先送りにしただけで。


 心は死んでいると、魔法の言葉を唱えながら私は高校生活を送った。


 三年生になった時、私は高校卒業後に就職して一人暮らしを始めると親に告げた。

 大学の四年間もこの家族と繋がっているなんて耐えられない。両親の金で生かされていることが耐えられない。

 この時の私は、心だけでなく本当に死んでしまいたいとさえ思っていた。


 父はこう言った。


 今時大学も出てないやつがまともな暮らしが出来るかと。

 お前は受験勉強が嫌で逃げだそうとしているんだろうと。

 お前みたいな性根の腐ったクズが俺に逆らうなと。

 お前は俺の金で生活が出来ているんだから、俺の命令に従う義務があると。


 母はその隣で、私に愛していると囁いた。

 母は、私も父も愛しているのだと囁いた。

 だからお前は我慢しろと、そんな思いを潜ませて。


 私は父を、家族を殺したいと思った。


 大学卒業のステータスに高い価値があるのは私も理解している。

 耐えられるのであれば、大学を出てから家族と離れた方が私の人生において効率が良い。

 だがそうなれば父はきっとこう言うだろう。

 あの時、俺が無理やりに大学に入れてやったから今のお前があると。

 今のお前の幸せがあるのは全部俺のおかげだと。


 気持ちが悪い。

 気持ちが悪い。

 何もかも消し去りたい。

 みんなが寝静まった後、火をつけてすべて灰にしてしまいたい。


 そんな考えが浮かんでは、必死に追い払う。

 ああ、私はこの時には父の言う通り立派なクズに落ちていた。

 だからこそ大学に入学して、授業には通わずアルバイトに精を出してお金を貯めた。

 もう迷いはなかった。


 必要な金額と身分証が揃って、私は最期の義理として家を出る事を家族に告げた。


 私をサンドバックか小間使いだと思っていた兄と姉は、お前みたいなグズが勝手なことを言い出すなと言っていた。

 そうですねと私が無気力に返すと、二人は理解のできない不気味なものを見るような眼の色に変わった。


 父は狼狽えて色々と言ってきた。

 クズだの腐っているだの要領の得ない罵倒が繰り返された。

 私がこれからは自分のお金で生きていくので、あなたの命令は聞けませんと返すと、力なく項垂れた。

 それを見て、私は父が本当に私を愛していて、私のために悪辣な罵倒を繰り返していたことに気が付いた。

 もっとも父は私を愛してはいても、私を見ることなく、ただ昭和の漫画やドラマに出てくるような厳格で尊敬される父親像に憧れてロールプレイをしていただけだった。

 だから嫌いだという心証は変わらなかった。


 母は変わらず、愛しているのにと言った。

 私は我慢できずに、気持ち悪いと言葉を零した。

 母は泣き崩れた。

 誤解をされて悲しいと。

 愛されなくて悲しいと。

 私はこんなにも愛しているのにと、そう言った。

 お前が家族を愛さないといけないのだと、お前がすべて悪いのだと、そんな思いを潜ませて愛しているのにと繰り返した。


 私が苦しんでいることは、きっと大なり小なり家族全員が感じ取っていただろう。

 だから父も兄も姉も、私に嫌われていることを受け入れた。

 彼らは私が悪いのだと繰り返しはしても、私が彼らを嫌う事は受け入れた。

 だがこの母だけは、それは間違っているのだと、あなたは誤解をしているのだと、繰り返した。


 産み、育ててくれた家族を捨てるのだ。

 恩知らずのクズだと罵られて当然だ。

 私が何もかも悪いのが当然だ。


 母は、だからお前が我慢すればそれで済むのにと泣き崩れたのだ。

 何も悪くない私たちはただ誤解されているだけで、私たちは正しいのだと。

 お前が私たちの言うとおりにしていれば、お前が私たちの望んだように感じれば何も問題はないのに、私はお前の味方なのに、誤解をされて悲しいと泣き崩れて周囲の憐れみを買った。


 私が家族を嫌悪する感情すらも間違いだと、正しく愛しなさいと、そう要求する母に対して、私はただただ気持ち悪いと感じた。

 私はきっとこの時、ようやく母親への幻想を捨てられたのだろう。



 意味のない家族の声を無視して外に出て、大きく息を吸い、大きく息を吐いた。


 お金でも暴言でも縛れないのなら、家族が私に出来る事は無い。直接暴力に訴えかけてくることも無い。

 ああ、私がそうであったように、彼らも臆病なのだ。力ずくで止めようとすれば、私は命がけで――いいや、命を捨てて抵抗するだろう。私はそんな覚悟を持つために何年も時間をかけた。

 私が反抗するなんて思ってもいなかった彼らに、覚悟を決める時間は無かった。そしてそもそも、彼らには殺し合いをしてまで私を止める理由がない。


 私はただのクズで、サンドバックか小間使い、あるいは可愛げのないペットだ。

 だからわざわざ追いかけてくる家族なんていない。


 分かっていたその事が現実となり、私の心はとても満たされた。

 大きく息を吸って、大きく息を吐くと、世界が色鮮やかでとても美しいものに見えた。

 自由と幸福という言葉の意味を、私は生まれて初めて実感した。



 ******



 昼食後、込み入った話になるのでアリスさんとは別れ、ルヴィアさんを自室に招いた。

 家族との話し合いと意識すると、割と黒い気持ちが湧いてくるのだが、まあ構わないだろう。


「どうぞ」


 そう言って椅子を引いて、ルヴィアさんを座らせた。

 ルヴィアさんは感慨深く室内を見渡し、言葉を漏らす。


「懐かしいわね」


 ルヴィアさんは一年前に妹の部屋へと連れ込んだ時の事を思い出しているようだった。


「……私はあの時、間違えたのでしょうね」


 私はそう言った。

 あの時に場当たり的な対応をしたから、ルヴィアさんは生家を捨てる事になった。

 どうすればよかったのかはわからないが、上手くやれなかったことは間違いないのだ。

 しかしルヴィアさんは首を横に振った。


「いいえ、間違えたのは私です。あなたは本当に、幸福な日々を送っていたのでしょう」


 私はその言葉に頷いた。


「……ええ、そうですね。

 私には本当にもったいないぐらいの家族で、大変だけど、癒される毎日です。

 セルビアを見てると、愛してるんだから愛して欲しいってのが、当たり前だって感じられるんです。

 欲の深いおぞましい事じゃなくて、本当に当たり前の事だって。だからついつい甘やかしちゃうんですよね。

 カインは意地悪なことを言うけど、いつも相手の事をちゃんと見てて、言いすぎないようにって気を付けてます。

 マギーは普通の女の子で、自分の事で一杯一杯なんだけど、そんな自分の中に当たり前に家族や他人が入ってる、本当に優しい子なんです。

 アベルも真面目で。鬱屈した気持ちを持つことはあるけど、自分は立派になろうって意地を張って、毎日成長してるんですよ」


 ルヴィアさんは我が事のように嬉しそうに笑って、尋ねる。


「お父さんは?」

「ジオは馬鹿ですね。

 でもだから救われました。

 何にもないんですよ、あの馬鹿。

 これを言ったらどう思うかとか、どう思われるかとか。

 何にも考えずに思ったことを口に出して、でもそれは我がままなんかじゃなくて、ちゃんと相手を見ての事なんです。

 馬鹿のくせにね、ちゃんと見てるんです。

 それに救われました。

 自分がクズじゃないんだって、はっきり言って貰えたんです。

 ……ああ、私は立派な人間を模倣してるだけのクズなんですけどね。

 あの馬鹿を騙せてるのは気分が良い」


 ルヴィアさんは楽しそうに笑った。


「お父さんにだけは、素直になれないのね」

「まあなんというか、救われたとは言っても、苦労もさせられてますから。

 それぐらいは許してほしいですよね」


 私が冗談めかしてそう言うと――



「あなたは、ジオレイン様の事だけは父親と認めているのね」



 ――ルヴィアさんは不意に真剣な目をして、私の心臓ハートに言葉を突き立てた。


「え?」

「違うの?」


 見透かすようなルヴィアさんの眼はとても冷たく、とても優しい。


「……いえ、そうですね。

 そうかもしれません。

 ちゃんと分けているつもりでしたが、いつの間にか曖昧になっていたのかもしれませんね」


 私にとって父親とは虚栄心が強く、何かあれば俺が敬われないのはおかしいと当たり散らすような男で、つまるところ軽蔑の対象だった。

 ただそんな父への印象は変わらずとも彼を思い出すことはほとんどなく、彼が嫌いなのは変わらずとも憎む気持ちはほとんどなくなっている。


 それはきっと、馬鹿親父のせいだろう。

 自分では分けて考えていたつもりだが、いつの間にか少しずつ置き換わっていったのかもしれない。


 ああ、だとすればそうか――


「いや、違いますね。

 みんな家族ですよ」


 ――私はみんなの事を家族だと思っていないんじゃない。


 かつての家族への憎しみをぶつけないよう、最初に分けて接し始めたた。だから家族じゃないと思っていた。

 でも今になってみれば、父だけでなく兄弟たちの事だって思い出す事は無い。

 きっといつの間にか私は、今の家族こそを家族だと感じていたのだろう。

 ただ私たちの家族の中には母親がいなかったから置き換わる事も無く、記憶の奥にこびり付いたどす黒いモノの消化がなされなかったのだ。


「そうね。

 そうみたいね。

 だから私は――」

「そうですね。母親になって下さい」

「――え?」

「えっ?」


 私とルヴィアさんは顔を見合わせて頭を傾げた。

 あれ?

 そう言う流れじゃなかったっけ。

 なんのかんのでルヴィアさんは都合の良い女性なので、母親役をやってもらえれば私の面倒臭いトラウマも解消できるだろう。


 もちろん恐ろしい魔女様に生贄とか呼ばれた私はたぶん早死にするので、その時にルヴィアさんが鬱になっても支えて貰えるよう他の皆からも家族だと認知されるよう努める所存です。

 つまりwinwinの関係だ。


「それじゃあよろしくお願いしますね、母さん」


 あ、口に出してちょっと吐き気がしてきた。世界よ滅べって気持ちが沸いてくる。

 まだダメか。

 いや、リハビリと思ってしばらくこれで行こう。


「……えぇ」


 訳が分からないと言った様子のルヴィアさんだが、特に拒否するつもりはないと言うか、こんな風に流されていいのだろうかと戸惑っている。

 まあいいんじゃないかな。

 私は前世の母親を忘れたいし、ルヴィアさんは私から離れて死んでしまおうなんて考えを捨てられるし。


 うん。

 誰も不幸になってないんだから、つまりハッピーエンドで、めでたしめでたしというやつだ。

 もうあれこれ考えるのが面倒臭い。

 何か問題があれば、問題が起きてから考えればいいんだよ。




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