第10話:ご利益の代償⑤

教室の扉がガラガラと音を立てて開く。


自習時間の静寂を打ち破る訪問者に、クラス中の視線がくぎ付けとなる。その正体を確認した時、教室の誰もが口があんぐりと開くのを抑えることができなかった。


そこにいたのは、もうずいぶん学校を休んでいた法月作楽だ。そして続くように、一時間目の休み時間から姿を消していた多々良部映理も現れた。


全く予期していない二人の合わせての登場に、クラス全員が緊張した。作楽の場違いなまでに朗らかな微笑みも、映理の生徒たちを見定めるような険しい目つきも、それを増長させる。


極めつけは、最後に教室に戻って来た担任教師が、何も言うことなく教室の隅にある自分の席へと腰かけたことだった。


そして、一切何の説明が入ることもなく教卓に立ち、話しを始めたのは作楽だった。


「さて、私はエリリンに頼まれました。粘土を壊した犯人について全く情報が無くてみんなが困っているため、どうかを炙り出してほしいと」


「立つ」というより、胸から上が辛うじて教卓から「覗く」といった風情の作楽が実に楽しそうに言葉を綴る。


それに対し、横で腕を組む映理が口をはさんだ。


「頼んでないわ」

「もー、そういうことにしておこうよ。ただでさえエリリン、クラスで孤立気味なんだから」

「あ、あんたに私の何が分かんのよ!」

「話聞いてれば、エリリンのこと何も知らない人でも分かると思うけどなー」


目の前で突然繰り広げられたやり取りを、不思議な心持ちで生徒たちは眺めた。


学校内で全く時系列の被ることのなかった二人が、ずいぶん親しげに会話をしているというのが、彼らにとって違和感でしかなかったのだ。


作楽が叫んだ。


「おーいしし!」


――おーい獅子?――


言葉の意味が分からず、全員がお互いを見つめ、分かった者はいないのかけん制し合う。だが結局、横の映理が通訳の言葉を発するまで、誰も作楽が叫んだ言葉の字面を捉えられたものはいなかった。


「大石くん、聞きたいことがあるの」


――「大石氏」かい!――


全員が心の中で突っ込みを入れる。いつもの教室であればさぞ騒めきに包まれ、作楽の伝わりづらい言葉遣いとイントネーションへの不満が露出していたことだろう。


そもそも、クラスメイトのことを「氏」付けで呼ぶなどと誰が予想できただろうか。


未だ沈黙を保ちつつも、だんだんと緊張の糸がはち切れんばかりの張力が教室の中で蓄えられていく。


そんな中で、呼ばれた男子生徒が立ち上がった。


面長の顔だちと、遠目から見ても分かるほどの乾燥している肌が特徴的な男子生徒が、作楽と映理に不審な目を向ける。


「僕に何か?」

「きみは、きみの作品を壊した犯人を許せるかい?」


その質問には、クラス中が息をのんだ。


重要な点だ。もし今から本当に作楽と映理の手によって犯人が暴かれるのだとしたら、その人物がどのような処遇を受けるのかが今このやり取りによって決まる。


男子生徒はその乾燥肌をポリっと人掻きすると、悩まし気な様子ではあったが、質問にはっきり答えた。


「自分から名乗り出てくれるなら……許せるよ。わざとじゃないなら」


その答えは作楽にとって満足のいくものだったのか、ニヤリと口端を持ち上げた彼女は『パンッ』と一度手を打った。


「よろしい! じゃあ次、エリリンに触っていたことを暴露された三人、起立!」

「な……っ」

「こ、今度は俺たちかよ」

「何なんだよ一体」


やはり三者三様の振る舞いを見せながら、呼ばれた男子生徒がおずおずと立ち上がる。作楽は満足そうな表情のまま、三人それぞれを手のひらで指し示した。


「きみたちが粘土作品を触っていたのは事実かな?」

「それは……」

「……」


三人が沈黙してしまったのを見て、作楽は映理をちらりと見た。その後にうーんと考え込み始めたのを見て、映理は我慢が聞かなくなってしまう。


三人に詰め寄ってやろうと教卓に乗り出した。


「あんたらっ」

「エリリン、駄目だよ」


しかし、それを止めたのは作楽の横に広げられた左手だった。作楽の行く手を阻むように伸ばされたその手は、ほとんど力の込められていない物だったが、映理の衝動を抑えるには十分だった。


「でも!」

「質問を変えるよ。尻尾を壊したのは君たちかい?」


それは一見、同じ質問を再び投げかけただけのように思える。しかし、その質問に対する男子生徒三人の態度の変化は目覚ましかった。


「ち、違う俺たちじゃない」

「そうだそうだ!」

「俺たちは触っただけ……あっ」


うち一人は自らの弁護に必死すぎて、もはや白状してしまっていたが、作楽の狙いは別にそこではなかった。


作楽は続けざまに事の真相に踏み込んでいく。


「それじゃあ、誰かな? 他に粘土作品に触った者はいた?」

「あ、いや……でもそれは流石に」


男子生徒たちは先ほどから全く口を挟まないでいる担任教師を見た。しかし担任教師はその視線から逃れるように、机の上に視線を落としたまま動かない。その態度は、まるでこの話し合いへの参加を拒んでいるようにすら見える。


担任教師にあるまじきその姿に、三人だけでなく教室中の生徒たちが驚愕する。一体この教室で何が起こっているというのか。生徒達には先行きが全く見えなかった。


そこに、作楽の腕をゆっくりと押しのけた映理が言葉をはさむ。先ほどまでの激しい様子はそこにはなく、今度は作楽も止めなかった。


「いいから言って。先生も認めてくれているわ」

「ねえ、先生?」


作楽からの催促に、先ほどまで無反応だった担任教師がこくりと頷いた。


まるで操り人形だった。傀儡師は言うまでもなく作楽と映理だ。


倒錯的な目の前の光景に唖然としながらも、担任の許可が下りたのならばと、三人はゆっくりと思い出しながら、その名前を呼び上げ始めた。


「た、田中と、磯部と、あと中田が触っているのを見た」

「俺も……あ、あと西村も」

「若松と三谷が触ってるのも見たぞ」


その瞬間、教室の沈黙はとうとう破られた。


皆が騒めき、名前を呼ばれた者の方に顔を向ける。


名前を呼ばれた方は、落ち着きなく目線を右往左往させながらふるふると唇を震わせるだけだ。


「今名前を呼ばれた人たち起立!」


作楽が揚々と号令する。それに逆らうことなどできるはずもない。


そうしてとうとう、全生徒の四分の一に近い人数が席を立ち顔を青くさせている状況が生まれた。


「きみたちの内に、大石氏の作品を壊したものは?」


立ち上がっているもの全員が、一心に首を横に振る。それは先ほどと全く同じ流れだった。


それに作楽は心を動かす様子も見せずに、すぐさま次の質問を彼らに浴びせる。


「じゃあきみたちは、他に作品を触っている者を見た?」


そうして今度は新たに立ち上がった者達により、次々と追加の生徒たちの名前が挙げられていった。


席を立っている者の人数がクラスの半分を超えたころ、容疑者のうちの一人の女子がとうとうその名前を口にした。


「あ、あと……岩井先生も触ってた」


その瞬間、ずっと空間に張りつめていた緊張の糸は弾け、生徒たちの叫びによって教室は爆発した。


「えええええええっ!?」

「は!? 何それ、先生も触ってたの!?」

「あんだけ生徒に注意しておいて!? 在り得なくない!!?」


教室中からの非難を浴びて、担任教師は身を縮こまらせる以外になすすべはなく、ひたすら押し黙り小さくなっていた。


そうして留まることを失った暴露の波は、全ての生徒が立ち上がってその罪を晒し合うという状態になって、ようやくその終着を見たのである。


当然その中には、肩身の狭そうに立つ穂高友莉恵の姿もあった。


「何だ、お前も触ってたのかよ!」

「あんたこそ、『俺は興味ない』とか言ってて何よ!?」

「あー! こんな事だったら別に黙ってる必要なかったじゃん!!」

「てか、お前ら最低だな!」

「あんたもでしょうが!!」


映理は目の前に広がる乱痴気騒ぎの教室を、未だ現実感なく視界に収めていた。


「こいつら……どうかしてる」


これが真実。


結局教師が言った「粘土作品に触れるな」という忠告は、言った本人である教師も含めて誰一人守ってはいなかったのである。製作者である男子生徒と、そして映理を除いて。


「どうかしてるのはエリリンの方だよ」

「は? 聞き捨てならないわ」


耳ざとく映理のつぶやきを拾った作楽が放った言葉に、到底看過できないものを見つけて彼女は顔をゆがめる。


「私はルールを守っただけよ」

「それが異常なんだよ」


作楽は譲らず、映理のことを頑ななまでに異常者扱いした。


映理はその額にデコピンの一つでもお見舞いしてやろうかと思ったが、こちらに向けられている作楽の視線がどこまでも穏やかなのを受けて、その手が止まった。


「人が自分を律することができるのは、自分以外の人間がそのルールを守っているという前提に成り立っているのさ。それが、実は教室の至るところで破られていて、しかもその行為が魅力的で、影響もさほどなさそうと来たら、人の自律心なんて脆いものだよ」

「そんなの……」


作楽の言うことに理があることは、映理にもよく分かっていた。何より、目の前の教室の状況がそれを証明している。


しかし、それでも映理にはどうしても納得しきれない部分があった。


「それでも、自分の行動を決めるのは自分よ。他人がどうしているかなんて、関係ない!」

「だからエリリンは孤立するんだよ」

「ンな……っ!」


残酷すぎるセリフを吐きながら、作楽は笑っていた。


その笑顔がこちらを馬鹿にするものだったのならば、映理は今すぐその顔をひっぱたいて、言った言葉を後悔させてやることができた。


だがその笑顔の中に映理は、母親がたまに自分へ向けてくるような慈しみの情を見てしまったのである。


ふっと息を漏らした作楽は一瞬で表情を切り替えると前を向き、騒めく教室へと号令を取った。


「さて大石氏! これで分かったと思うけど、容疑者は全員であり、加害者も全員だ。この人数からの愛撫に堪えることができずに、きみのトカゲくんは尻尾を切り落してしまったというのが真相なのだよ!」

「そんな……そうだったなんて」

「もう一度聞くよ。きみは彼ら彼女らを、許すことができるかい?」


教室は瞬時に水を打ったような沈黙を取り戻し、皆が息をのんで男子生徒の返答を見守った。


「ぼ、僕は……」


何十という目線に射抜かれて、胸に手を置いた彼の返答は既にもう決まり切っているようなものだった。

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