第3話:消えたコンパス③
カウンターの上に置かれた、複雑な紋様の木製の小箱をはさんで二人向かい合う。
作楽がその側面の取っ手を引いて棚を引き出す。その中には何も入っておらず、薄茶色の木肌が見えているだけだ。
映理は作楽の意図が分からずに首をひねる。
「これが一体何だって言うの」
「ええと……中に入れるのによさげな物は」
作楽が辺りをきょきょろと見回すが、どれも彼女にとってしっくりこないのか不満そうに口をとがらせるばかりだった。やがて視線は正面の映理へと戻り、その瞬間に作楽の表情がパアっと明るくなった。
嫌な予感がし、映理は一歩身を引いた。
「エリリンその眼鏡ちょっと貸して!」
案の定だった。目の前に伸ばされ、そこにおいてくださいとばかりに広げられた作楽の両手を見つめ映理は口元をゆがめる。
「ええ……何か嫌」
「すぐ返すから! ほら、コンパスを取り戻したいんでしょ!」
「眼鏡まで無くならないでしょうね……」
渋々映理が眼鏡をその手に置くと、にっこりとほほ笑んだ作楽は受け取った眼鏡を箱の中にいそいそと詰め込んだ。
「ああっ、レンズを持つな指紋が付く!」
「細かいなあ……これでよし」
作楽は箱の中に眼鏡が収まっていることをしっかり確認してから、ゆっくりとその棚を再び箱の中にしまっていった。箱が締まりきり、コトっと箱の底に棚が当たった音を聞き届けると、作楽がふすっと鼻息を漏らして満足そうな笑みを浮かべた。
相変わらず桜の意図が理解できず、映理は眼鏡なしの若干ぼやけた視界になっていることも合わさって、眉根を寄せて不満顔をつくる。
「何してんのよ、さっさと眼鏡返して」
「ふっふっふー、これを開くと……」
作楽が得意満面の笑みを浮かべ、再度取っ手を引いて中身を見せる。
するとそこには、先ほど開けた時同様の薄茶色の木肌の内箱があるだけだった。
眼鏡が消えている。
映理の乱視と薄暗い店内の灯りがそう見させているのではない。
「は、え? どうして……」
信じられずに直接手を伸ばしてまさぐるも、確かにそこには何もなかった。ただ箱を閉じて開けただけで、映理のメガネが消えてしまったのである。
それはまるで、コンパスが消えた事件の時の再現のようだった。
ぼやけた視界の向こうの、絶対に顔をにやけさせているのであろう作楽に向かって疑問を投げかける。
「ちょっと、どうやったのよ」
「ええとね、確かこれは……」
作楽が箱を手に取ると、また棚を閉じてはゆっくり開けるを繰り返した。
だが、何度やっても映理の眼鏡が出てこない。
「あり? ち、ちょっと待って」
「あ、あんたまさか……」
次第に焦りの色を帯び始めた作楽は、箱を振ったりひっくり返したり何やら色々試しては棚を引き出し、その度に何も入っていない内箱を見ては首を傾げていた。
そのうち作楽の動きが緩慢になっていき、やがてカウンターの上に箱をゆっくり置くと、真正面から映理に対し頭を垂れた。
「ごめん、出し方忘れた」
「ふざけんなあ!!」
結局映理は立ち寄った雑貨屋で、コンパスを手に入れることができないどころか、自らの生命線である眼鏡すら失ってしまうという悲劇に見舞われたのであった。
「ああ、もう……どうなってんのよこれ」
その日の夜、映理は自分の部屋で例の箱と悪戦苦闘していた。しかし、いくら試せど引き出した棚の中に眼鏡が出てくることはない。
箱を振ると中から音がして、中に眼鏡が収まっていることは間違いがなかった。しかし引き出す際にどこかに引っかかってしまっているのか、どうしても取り出すことができないのである。
棚を無理やり箱から引き出して取り出してしまおうとも提案したが、突然慌てだした作楽にそれは引き留められてしまった。
彼女曰くそうすると壊れてしまう危険性があるということだった。どうやらこの箱はかなり高価な品で、できれば穏便に済ませたいと。
自分の眼鏡とて高価なのだが……そう映理が毒づいたところで、作楽が折衷案を提案してきた。
『じゃあ今日それ持って帰っていいから、また中身取り出せたら持ってきて!』
全く身勝手な提案である。自分が引き起こした不祥事の始末を他人に任せるだけでなく、いらない品まで押し付けるとは。
とはいえ、映理の方とて高価な品を壊す危険性を冒してまで眼鏡を取り戻す勇気もなく、しぶしぶ引き受けることとなったのである。
しかし、事態は思った以上に難航していた。返ってきてから試行錯誤を始めてそろそろ1時間である。
この一時間で分かったことは、この箱は単純に見えて、その中身は奇妙な構造になっているということだけだ。
棚を引き出して中を覗き込んでも、当然棚の側面が見えるだけで箱の中まで見通すことはできない。だが、どうやら眼鏡はその側面の向こう側に入ってしまっているようなのだ。
引き出しの中に物を入れすぎた際に棚を閉めると、平べったいものや小さいものが押し出されて引き出しの裏側に落ちてしまっている時がある。いまこの箱の中はまさにそのような状態になっていると言えた。
だが、そのような状態の時は棚を閉めた際奥で引っかかるような違和感があったり、棚が締まり切らなかったりするなどの異常が発生するはずなのである。
しかし、この箱ではそれが起きていなかった。
棚を閉めても眼鏡に引っかかることなく、箱はぴったりと締まりきる。それがどうにも映理には腑に落ちなかった。
「棚の長さが箱自体の長さより短いってことも無いし……中で棚が縮んでるとか? いや、棚の作りはしっかりしているし……」
自分一人しかいない部屋の中、疑問は言葉となって自然と口から漏れ出てしまう。そこへ、部屋の扉がノックされる音が混じりこんだ。
映理の返事を待たず、母親が中へと入ってきた。
「映理、あなた珍しく外に出てったかと思ったら、そんな変な箱を買いに行ってたの?」
「ちょ、違うし、まだ入っていいって言ってないし!」
見知らぬ箱を抱えながらベッドに寝っ転がる娘のことを、母親は呆れ顔で見つめる。
最近やたら部屋にこもり、家族も含めて碌に人と関わらないようになってしまった娘のことは、彼女にとって心の大部分を占める心配事の一つだ。
仕事の都合で引っ越しが多く、親密な友人関係を築く機会を少なくさせてしまったことに若干の負い目はある。しかし、彼女自身学生時代は同じような環境で育ち、それでも今なお交流の続く友人を作ることができたことから、自分の娘も大丈夫だろうと何の根拠もなく思っていたのだ。
しかし父親の気質がそうさせるのか、自分とは全く違って友人というものを全く持とうとしない娘のことが彼女はずっと気がかりだった。
だが今日、その不安が解消される兆しのような出来事があったことを思い出し、母親は表情を明るくさせた。
「そう言えば、さっき玄関まで来てた子。あれお友達?」
「……はあ?」
「あんたが眼鏡無くして危ないから、家まで送ってきてくれたんでしょ? 優しい子じゃない!」
「違うって……あいつは」
否定しようとした映理の口が、枷でもはめられたかのように重くる。母親の嬉しそうな表情を見ていたら、急に事実を言い出せなくなってしまったのである。
作楽が家まで映理を家まで送ったのは、ただ眼鏡が取り出せなくなった責任を取ってもらっただけのことだ。その交換条件として、映理はこの箱を持ち帰り中身を取り出すという難題を引き受けたのである。
だが、それを言っても母親は悲しい顔をするか、はたまた映理が恥ずかしがっているのだと誤解するかのどちらかだろう。
母が自分のことで気をもんでいるのは知っている。ならば、余計なことは言うまい。映理はそう判断し、母の勘違いを放置することにした。
言い出しかけた言葉をごまかすため、映理は母親に手の中の箱を見せつける。
「眼鏡、無くしたんじゃなくてこの中にあるの。出せなくなっちゃって」
「あら? これ『秘密箱』じゃない」
「違う……って、お母さんこれ知ってるの?」
「昔おじいちゃん家にあったわ、懐かしい。ちょっと見た目は違うけど……うん」
母親が箱を色々な角度から眺めたり、引き出しを開けて覗いたりしているのを、映理はまさかといった気持ちで見つめていた。
そして、その予想は的中することになる。
何気なく、特に変わったことなどしていないように見える母親が棚を引き出す。
するとそこにはまるで何事もなかったかのように、映理の眼鏡が棚の中に鎮座していた。
「ほら出てきた」
「え! は、ちょ、お母さん何で、どうして?」
「うふふふ」
目をまんまるにして自分に詰め寄る娘の姿がかわいくて、つい母親は笑みを浮かべてしまった。
まるで映理がもっと幼かったころ、ちょっとしたことでも質問してきたり、自分に聞いて欲しがったりしていたころに戻ったような気分だった。
「教えてほしい?」
「ちょっと……もったいぶらないでよ」
だが、やはり映理はもう無邪気な子供ではない。じらされたことにより唇を尖らせた娘を見て、意地悪だったかなと彼女は内心で反省した。
「これはね……こうなってて……でしょ?」
母親の説明を聞き、映理は二つの意味で驚愕していた。
一つ目は、その仕組みの単純さと、しかしそれに気づきにくく繊細に作られている箱の巧みな作りだ。
箱の側面にある複雑な紋様。しかしよく見るとそこには、スライドできるつまみの部分が隠されていたのだ。
そのつまみが中の二重構造になっている棚に引っかかっていて、中の物を隠すことができるようになっているということである。
まず、つまみをスライドさせながら棚を引き出す。すると二重構造になっている奥の棚ごと引き出される。
そこに物を入れ、箱を閉める。すると、自動的につまみは元の位置に戻り、奥の棚がロックされるのだ。結果、棚を引き出すと手前部分だけがその姿を現し、あたかも箱の中に入れたものが無くなったように見える。
そして映理は眼鏡を取り戻し、ようやくぼやけることのないクリアな世界に帰ってくることができたのである。
同時に、例の事件に関しても映理はもうすっかりその真実を見通すことができてしまっていた。
驚愕の二つ目は、事件当時の自分の間抜けさに関してである。
映理は自分を恥じた。まさか、こんな単純な手口を見抜けなかったなんて、と。
当時は冷静さを欠いていて、相手のやり口も巧妙だったとはいえ……心の奥底で煮えたぎるような感情が沸々と湧き上がってきているのを映理は感じていた。
やはりコンパスはあの時、男子の道具箱にあったのだ。だからアイツは、あんなやり方でこちらの……いや、クラス全体の目を誤魔化した。
映理は手に抱える箱の向こう側に、あの男子生徒の高笑いする顔が見えた気がして、歯をぎりぎりと食いしばり瞳を光らした。
――絶対にその悪事を暴いて、みんなの前で謝らせてやる!!
映理の心の中にある決心を母親は知る由もなかった。だから、やたら悔しそうにしている娘を見て、あらぬ誤解を抱いてしまうのは仕方のないことだと言えた。
「え、映理、ごめんね? お母さんもっと優しく説明したらよかったね? え、ええと……」
だが当然、そんな母親の戸惑いは今の映理の視界には全く見えていないのだった。
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