第2話:消えたコンパス②

その日の午後の授業は算数のテストだった。


前学年の復習テストで、コンパスを用意しておくようにと事前に連絡があり、映理は抜け目なく早い段階からコンパスを筆箱の中に忍ばせていた。


朝に担任教師が、コンパスを持ってきたか確認を取った際にも、堂々と手を上げた。


見ると、クラスのうち数名は気まずそうに俯いていて、映理は何とも言えない気持ちになった。


助けてあげたくても、コンパスは一つ。通常授業時ならまだしも、テスト中に貸すことは難しい。


その後救済措置として、学校のコンパスを何人かで共有するという案が、教師から呆れたようなため息とともに提示され、その場は一応の収まりを見た。


問題は、その後の休み時間に起きた。


「多々良部さあ、ちょっとコンパス貸してくんねえ?」


クラスの男子から、いきなり声をかけられたのだ。言っている内容もさることながら、普段滅多にしゃべることのなかった相手からの突然のアプローチに、映理は瞬きも忘れ固まる。

 

「おい、無視すんなよ」

「……してないけど。……何で?」


すぐにまたせっついてきた男子に、映理は慌てて表情を繕い対応した。


その男子には、これまで観察してきた限りではあまり良い印象が映理の中にはなかった。


短気で直情的。思ったことをすぐ口にしたり、人にちょっかいを出したり、忘れ物をすることも多い。かといって社交的という感じでもなく、映理には今日まで、正直まとも関わった思い出が一つもない。


だからこその「何で?」だった。そこには実に様々な意趣がちりばめられているが、相手がそれに気づくことはない。


「ちょっとコンパスでやりたいことがあるんだよ」

「先生に頼めば? 私貸したらテストのとき困るし」

「テストまでには返すから!」


大きな声を上げ、男子は映理に詰め寄ってきた。映理より若干大柄な体がすぐ目の前までやってきて凄まれると、映理の中で恐怖心が膨らみ、速く鼓動を打ち始める。


クラスから好奇の視線を向けられていたのもあり、映理はもう我慢の限界だった。


男子から体を逸らし、筆箱からコンパスを取り出し、しぶしぶと机上に置く。


「……テストまでには、絶対返してよ」

「返すって! サンキュー」


男子生徒は乱暴にコンパスを手に取ると、自分の机に戻り自由帳に何やら模様を描き始めた。


映理はトイレに行くふりをしてその場を離れた。未だうるさいくらいに鳴る鼓動を必死に沈めながら、クラスを見渡す。


すでにほとんどの生徒は自分から興味を失っており、それぞれの友達とのやり取りに夢中になっていた。


映理にとってこのクラスは、まだやってきて一ヶ月程度の他人でしかない。映理自身積極的に周りと関わろうとしたわけでもなく、ともあれ別にクラスの人たちに無視されているわけでもない。


それでも、自分に労いの一言をかけてくれる人すら一人もいない現在の自分の状況に、映理が内心うんざりしてしまうのも仕方のない話と言えた。




授業終わりのチャイムが鳴り響く。午後の授業が終わり、下校の時間がやってきた。


テストが回収されていくと、クレスメイトたちは皆帰りの準備を進めながら「今日誰の家行く?」やら「今日塾あるの?」だの放課後の予定について話なんかをして、実に開放的な表情を浮かべていた。


そんな中、『ガタンッ』と大きな音を立てていきなり立ち上がった少女の怒り狂った顔つきに、初めクラスのほとんどは気が付かなかった。


しかし、彼女がドカドカと音を立て一人の男子生徒の席の前に立ち、既に準備を終えていたその男子生徒のランドセルを「バン!」と叩いたことにより、クラスの注目は次第にその少女へと集まっていったのだ。


「さっさと返しなさいよ! 私のコンパス!!」


映理が言い放った一言に、クラスの大半の生徒は「ああ……」とそのおおよその事情を察することとなった。皆、映理がその男子に半ば脅迫的にコンパスを貸し出すことになっていたのを見ていたからだ。


大方あの粗暴な男子は、テスト前になっても映理にコンパスを返すことを忘れていたのだろう。彼女がそこまで怒っているということは、ひょっとしてその男子は、映理のコンパスをずうずうしくもテストに使用していたのかもしれない。


……さらにこれはクラスの生徒達も窺い知ることのない事実だが、映理はあまりの悔しさから救済策のコンパスを使用するため教師に名乗り出ることもできずに、結局コンパスが必要な問題を丸々棒に振ることとなったのである。


映理の怒りは激しく、コンパスを返してもらうだけでは到底足りなかった。公衆の前で謝罪させ、その非を全員の前に晒させることでせめてもの留飲を下げようという目論見が無意識に働き、映理にここまで衆目を集めさせるような行動をとらせたのかもしれない。


だが、座った姿勢のまま眉をしかめた男子が次に言い放った一言により、事態は急展開を迎えることになる。


「お、俺……返したぜ、テスト前に」


――ハア!?――


映理もクラスメイト達も、それを聞いて耳を疑った。


しかし、その言葉に抱く心象は映理とクラスメイト達とで大きな隔たりがあった。


「映理が何か誤解をしているのでは?」と疑惑を抱く周囲に比較し、映理の内心はこれ以上ないほど荒れ狂っていた。もうこれ以上の憤りは人生では在り得ないかもしれないと思えてしまうほどに、ぐつぐつと煮えたぎる怒りで頭はいっぱいだ。


なぜなら、映理はその目で確認しているのだ。テスト中、ヌケヌケと映理のコンパスを使ってテストを解き、使い終わった後に机の中の道具箱にしまい込むその一連の行動を。


「ふざけないで!!!!」


映理はもう今すぐにでもその机の中をひっくり返してやりたい気持ちを抑えつつ、指をさして男子生徒を糾弾した。


「その道具箱にしまったでしょ!! 私見てたんだから、そんな言い訳信じるわけないじゃない!!」


クラス全員の注目が映理と男子生徒へと集中した。間がいいのか悪いのか、教師は職員室に行っていて止めるものは誰もいない。


皆が息をのんで、事態の結末を見守っていた。


だが、その終わりは実にあっさりと訪れた。


映理の敗北という形で。


「見てみろよ、ほら!」


男子生徒が机を抑えながら道具箱を引き出し、その中を見せつけるように外へと晒した。周囲の視線が一気にその中身へと注がれる。


「は、は……?」


映理が間の抜けた声を上げてしまうのも無理はない。目の前には在り得ない光景が広がっていたのだから。


そこには何もなかった。すっからかんの道具箱は、少し擦り切れて年季の入った底が見通せてしまうほどに何も入ってはいなかった。


皆の注目は移り変わって、次第に映理の方へと注がれていった。


その中に、非難の色を含ませて。


「え……多々良部さんの勘違いってこと?」

「道具箱の中に入れるの見てたって言ってたよね……」

「あんなに自信満々に行ってハズすとか、ヤバくない?」


映理の背中に、額に、嫌な汗がだらだらと流れ始めていた。


なぜ? どうして?


一体自分の身に何が起きているのか、映理には分からない。


だって、確かに目の前の男子は、自分のコンパスを勝手に使って、道具箱の中にしまっていたはずなのに。


周囲のざわめきの質が、完全に映理にとって不名誉なものに変わった時、男子生徒の表情もいやらしいニヤつきへと変化していた。


「おい、謝れよ」

「ど……どうして私が」

「お前が間違えたんだろ」


映理はその後一体どうしたのか、全く覚えていない。


というより、思い出したくないのかもしれない。


少なくとも、このことが教師に知れ渡ることも無く、それ以上の波風が立つこともなく終止符が打たれてしまったことだけは確かだった。


気付いた時には映理は一人家への帰り道を歩きながら、悔しさと虚しさで目の奥を熱くさせていたのだから。




「むむむ……これは、事件だね」

「ねえ、何なのその恰好」


ことの顛末を語り終わった映理が、訝し気な視線を作楽へ向ける。


いつの間にか地面に胡坐をかくようにして座り、手のひらを上に向けて両ひざの上にそれぞれ置くという、所謂ヨガの基本姿勢のようなポーズをとって作楽はうんうん唸っていた。


「知らない? これやると頭が良くなるの」

「知らない。少なくとも今のあんたはかなり馬鹿っぽいわ」

「まっ!!」


作楽は座ったままその目と口をおっぴろげた。突然目の前の少女から浴びせられた暴言が、あまりに信じ難く衝撃的だったためだ。


「エリリン! 世の中には思っていなくても言っちゃいけないことがあるんだよ!」

「思ってるから言ったのよ。さりげに自己評価高いわね」

「じゃあ思っちゃダメ!!」

「憲法違反よ!!」


言い争いは尽きない。


映理の心の中には、引っ越してきてからというものの……もっと言えば、古くは物心のついたころから、自分の気持ちを抑え込んで利口にふるまうということを覚えて以来の鬱憤が溜まっていたのかもしれない。


なぜ今になってそれが発露したのか。


それはきっと、彼女の身に降りかかった理不尽な出来事がきっかけであり、そこに丁度よく表れた不躾な少女が映理にとって手頃なサンドバックになったということに他ならない。


もちろんサンドバックにされた方は溜まったものではない。それこそ、それは理不尽な、身に降りかかった火の粉でしかない。


だが、降りかかってきた火の熱さと明るさを面白がって、真正面からぶつかっていく種類の人間も世の中には存在しているのだ。


不毛な口喧嘩に息を切らしながら、作楽はさもおかしそうに笑みを作った。


「いいのかなあ、私にそんな口聞いちゃって。謎を解決したくはないのかい?」

「はあ? ……あんた、まさか」

「ふっふっふー……」


ゆっくりと立ち上がり、背中を向けた作楽の肩が上下する。「背中で語る」とはよく言ったものだが、自信に満ち溢れたその後ろ姿は、映理の心に希望の光を灯すには十分なほど頼りがいがあるように見えた。


そのまま店の奥の方へと歩き出した作楽を追いかけながら、映理は期待に胸を膨らませて問いかけた。


「分かったの!? 私のコンパスが隠された場所が!!」

「いんや、全然」


映理はひざから崩れ落ちた。


こちらを振り向いた桜の表情は何の感情も含んでいない荒涼たるもので、つい先ほど

まで匂わせていた全能感が全くの皆無だった。


そのあまりの落差に、地上一階において転落死しかけた映理だったが、すぐさま地面を蹴って眼前の詐欺師へと詰め寄った。


「態度が紛らわしい!! ……何それ」

「話を聞いてたら思い出したんだよ。何かのヒントになるかと思って」


映理の関心はすぐに、振り返った作楽が手に持っていた物へと移り変わった。


期待を裏切られた憤りに身を打ち震わせていた映理が、あっという間に視線を奪われてしまった。それほどまでに、その四角い物体に彩られた複雑な紋様は美しかった。


木製であるが故の年季は感じさせても、古臭さのようなものは感じられない。不思議な雰囲気を漂わせる箱だった。


「これはね、からくり箱だよ」

「からくり箱?」


聞いたことあるような無いような、絶妙なワードの組み合わせの名称に、映理は復唱しつつ首を傾けたのだった。

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