オランウータン・パニック! 殺戮オランウータン in USA

武州人也

オランウータンの虐殺

「何ということだ……」


 とある研究所の一室で、白衣の男は頭を抱えながら机に伏していた。部屋には扉の開いた、格子状のケージが一つある。ケージの中には餌皿や飲料水のボトルなど、中で何かが飼育されていた痕跡があるが、ケージの主であった動物は部屋のどこにもない。

 そう、逃げられたのである。悪の頭脳を持った、凶暴なに……


***


 マイケルは車を降りると、大きく伸びをした。少し遅れて助手席から降りたのは、彼女のエミリーである。エミリーはバッグの中身をしきりに確認して、忘れ物がないかを確かめていた。

 二人の目の前には、広い湖が広がっていた。ここはボリス・ランディングという湖で、同地はテネシー州の州立公園として整備されている。夏休みの時期サマー・バケーションとあって、湖にもその周りにも若い人々の姿が多い。この二人も、夏休みを利用してこの湖に足を運んだのであった。

 二人は早速水着になり、湖畔へと歩いていった、が、どうやら湖に集まる人々の様子がおかしい。皆キャーキャーと騒いでいて、蜘蛛の子を散らすように走り回っている。


「何なんだこの騒ぎようは……ジョーズでも出たのか? それともエイリアンか?」

「マイケルあんた映画の見すぎよ」

「プレデターか?……いやひょっとしたらグラボイズかも知れねぇ」


 なぜ湖がこんなに騒がしいのかは全く分からないが、この時点で二人に危機感はなかった。そう、この時までは。


「この騒ぎ、何なんですか」


 気になったマイケルは、Tシャツ姿の中年男性一人を捕まえて尋ねた。


「オランウータンだよ! オランウータンが人を殺したんだ!」

「へ? オランウータン?」

「手を放してくれ!」


 中年男性はマイケルを振り切り、そのまま走り去ってしまった。常軌を逸した慌てぶりである。

 それにしても、オランウータンが人を殺した、というのはどういうことだろうか。オランウータン自体は、マイケルも動物園で見たことがある。原産地は東南アジアで、類人猿の中では大型だが、人を襲って殺したという例は全く聞いたことがない。


「どういうことなんだ……ってかオランウータン? 実は猿の惑星なのか?」

「ねぇマイケル……そのオランウータンって……」


 そう言いながら、エミリーは右の方を指差した。その先にいたのは、確かに一頭のオランウータンであった。手には斧を持ち、足元には血まみれの人間が横たわっている。血まみれの人間は制服姿で、足元に拳銃が落ちていることから、恐らくは警察官である……

 マイケルはオランウータンと、目が合ってしまった。血走ったオランウータンは、斧を振りかざし、芝生を蹴って飛びかかってきた。


「うわっ! オランウータンの姿をしたジェイソンだ!」

殺戮マーダーオランウータンよ! 逃げなきゃ!」


 マイケルとエミリーはすぐさま逃げ出した。だがそんなマイケルの右ふくらはぎを、突如焼けるような激痛が襲った。吠える方な悲鳴をあげて、マイケルはがっくりと膝を折った。


「マイケル!」


 振り向いたエミリーが見たのは、ふくらはぎから血を流すマイケルの姿であった。その近くでは、べっとりと血のついた斧が地面に刺さっている。オランウータンが斧を投擲し、マイケルのふくらはぎを傷つけたのだ。何と器用な猛獣であろうか。


「逃げろエミリー! こいつはやべぇ!」


 その場でまごつくエミリーに対して、マイケルは逃げるよう促した。もうオランウータンはすぐそこまで迫ってきている。エミリーは戸惑いつつ、彼氏の言葉に従ってその場を離れようとした。

 オランウータンはむんずと斧を掴み、マイケルのすぐ傍までやってきた。その斧が、ぶるんと大きく振るわれる。


 その時であった。突然、ぱん、ぱん、ぱん、と、乾いた音が三つ続いた。銃声だ。誰かがオランウータンに向けて銃を撃っている。

 オランウータンは斧を放り出して、その場から走り去った。銃弾はこの猛獣に命中こそしなかったが、牽制の役目を十分に果たし、マイケルを救ったのであった。

 マイケルは顔をあげて、命の恩人の尊顔を見た。そこには白衣の男が、拳銃を構えて立っていた。


「あ、ありがとうございます……」

「礼はいい」


 白衣の男は、すまし顔で拳銃に弾を込めている。二人に対して、全く興味を示していないようだ。


「私はあのオランウータンを始末しなければならないのだ……キミたちは早く逃げたまえ」

「は、はい……」


 マイケルはエミリーに右肩を担がれながら、車の方へと歩いていった。


「サラ……お前はもう一度死ぬのだ……」


***


 白衣の男――ケヴィンには、大学時代、思いを寄せた相手がいた。それが、サラという同い年の大学生である。田舎の苦学生であったケヴィンにとって、サラというシティーガールはとてもまばゆい存在で、初めて出会ってから恋に落ちるまでに、さほど時間はかからなかった。

 ところが、その慕情は程なくして嫌悪へと変わった。ケヴィンはサラを恋い慕っていたが、サラにとってケヴィンは陰気で気色の悪い田舎男でしかなかったのだ。彼女はケヴィンの不自然な一挙手一投足を笑いのネタとして言いふらし、彼をこっぴどく貶めたのである。そのことで気を病んだケヴィンは一時大学に行けなくなり、引きこもり生活を送ることになった。この時点で、ケヴィンのサラに対する感情は恋慕から憎悪に塗り替わっていた。

 かわいさ余って憎さ百倍、何とか無事に大学院に進んだ後も、ケヴィンはサラに対する憎しみを抱き続けた。そして院生二年目の冬、サラの事故死という情報が、ケヴィンの耳に入った。

 サラの死――それを聞いたケヴィンを、暗い喜びが支配した。


 ――死だけでは生ぬるい。もっとお前を辱めてやろう。


 ケヴィンはサラの墓を突き止めると、こっそり墓を暴いて亡骸の一部を持ち去った。そして骨から抽出したDNAを使い、サラの遺伝子を持ったメスのハイブリッドオランウータンを誕生させたのだ。その動機は、サラに対する尊厳凌辱である。


 ――サラ、お前は醜いサルとして生を受けたのだ。


 普通のオランウータンは、大人になるまで八年以上の歳月を費やす。だがこのの成長ぶりは目覚ましく、三年ほどで大人顔負けの体格となったのだ。体格だけではない。その知能――いや、悪知恵ともいうべきものも、普通のオランウータン以上に発達していた。そして誕生から三年半経ったある日、とうとうは鍵を壊して脱走してしまったのであった。

 実は万一の時に備えて、ケヴィンはに発信機を埋め込んでいた。ボリス・ランディング州立公園付近に潜伏していることを突き止めたケヴィンは、すぐさま現場に急行した。


***


 オランウータンは、遠巻きにケヴィンを睨んでいた。恐らく銃を警戒しているのだろう。しばらく睨み合いを続けた後、動き出したのはケヴィンの方であった。一気に距離を詰め、立て続けに銃撃を浴びせた。しかし、オランウータンは銃の的としては小さすぎる。その上身体能力に優れるオランウータンを、そう容易に仕留められるはずもない。オランウータンは銃弾をけながら素早く茂みに飛び込み、その身を隠した。


「ちっ……逃がすものか!」


 ケヴィンは走って茂みの近くに寄り、オランウータンを捜した。だが、すでに何処かに行ってしまったのか、姿を見つけることができない。オランウータンというだけあって、さすがの敏捷性だ。

 その時、ケヴィンの耳が、がさっ……という葉の擦れる音を捉えた。


 ――上からだ!


「うわっ!」


 木の上から、オランウータンが飛びかかってきた。慌てて銃を向けるケヴィンであったが、間に合わない。ケヴィンは押し倒され、はずみで銃を手放してしまった。


クソッShit!」 


 ケヴィンは咄嗟に右の拳で頬を殴った。一瞬怯んだオランウータンであったが、その一撃で怒りを発したのであろう、歯をむき出しにしてケヴィンの首筋に噛みついてきた。ケヴィンの絶叫が、すっかり人のいなくなった湖畔に響き渡る。

 何とか窮地を脱しようと、ケヴィンは両手の拳で挟むようにオランウータンを何度も殴った。この一撃が効いたのか、オランウータンがふらつき出した。その隙を見逃さず、ケヴィンは足でその体を押しのけてマウントから脱した。

 オランウータンは、すぐにケヴィンを追ってきた。ケヴィンは首から血を流しながら、ファストフードを売るキッチンカーの方を目指して逃げた。

 ケヴィンはキッチンカーの中を漁り、肉切りナイフを取り出した。目を血走らせたオランウータンは、すぐそこまで迫ってきている。


「死ね! クソアマBitchが!」


 ケヴィンは襲い来るオランウータンに向かって、肉切りナイフを振り下ろした。しかしその刃は空を切り、柄を握っていた右手を叩かれてナイフを落としてしまった。

 オランウータンはこれ幸いとナイフを拾い、それを武器に猛然と襲いかかってきた。ケヴィンは何とかそれをけ、銃の落ちている方へ向かって走ろうとした。だが、立て続けに二撃目が来る。


「くっ!」


 間一髪、ケヴィンは左腕にかすり傷を作られながらも刃をかわすことができた。ナイフはキッチンカーに接続されたプロパンガスのボンベに刺さっている。ケヴィンはすぐさま銃の所まで走り、拳銃を拾い上げた。

 クソ女サラの遺伝子を刻んでしまったが故に、悪の心を持った凶悪なモンスター……そんなもの生み出してしまったのは、外ならぬケヴィン自身である。だから、この殺戮マーダーオランウータンは、絶対に仕留めなければならない――ケヴィンはそうした決意を胸に秘めていた。


 ――はは、なるほどさっきの若者の好きそうな映画みたいだ。


 ケヴィンは首の激痛に苦しみながらも銃を向け、ナイフを抜こうとするオランウータンに狙いを定めた。銃弾は残り一発、絶対に外すことはできないし、ナイフが抜かれる前に撃たねばならない。しかもプロパンガスに誘爆すれば、ケヴィン自身も巻き込まれかねない危険な距離だ。でも……もうやるしかない。

 

 オランウータンがナイフを引き抜いたまさにその瞬間、ケヴィンは意を決して引き金を引いた。


 ――轟音が大地を震わせ、爆煙は天まで立ち上った。プロパンガスのボンベが、銃弾を受けて大爆発を起こした。爆風を受けたケヴィンの体は後方に大きく吹き飛び、湖面に叩きつけられて沈んでいった。


***


 目を覚ました時、ケヴィンは頭から足まで全身包帯を巻かれた姿で病院のベッドに寝かされていた。首からの出血とプロパンガスの爆発によって重傷を負ったものの、どうやら命だけは助かったらしい。

 自らの軽佻浮薄けいちょうふはくのせいで、あんな惨事を引き起こしてしまった……こぼしたミルクはコップに戻せないし、吐いた言葉は吸い込めない。取り返しがつかないとはこのことだ。

 

「よう、ケヴィン。見舞いに来てやったぜ」


 聞き覚えのある声……やって来たのは、兄のジェシーであった。


「いやーすごいことになってんな。どうしたんだ?」

「ああ……色々とな……」


 ケヴィンは兄に対して、事の次第を伝える気はなかった。あのようなことを、口外できるはずもない。


「ところでジェシー、肩にかけてある黒いものは?」

「ああ、娘の誕生日プレゼントでな……あいつぬいぐるみが欲しいっていうからさ、ほら」


 そう言って兄が見せてきたのは……黒いオランウータンのぬいぐるみであった。包帯の間から覗くケヴィンの目が、かっと見開かれた。


「うわぁ! オランウータン! やめろ!」


 ケヴィンは重傷者とは思えない、うわずった大声を発して絶叫した。

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