夕景の怪物

本文

「会長、好きな人っていますか」



「おいー? 凛ー?」

 いけない。ぼーっとしていた。

「ごめん、ぼけっとしてた。何?」

「どうしたのさ。最近調子悪そうじゃない?」

 佐夜子に言われて、確かにここ最近、そんな感じになっていることが多い気がする。

「やっぱそんだけ大変なの? 生徒会長の仕事って」

「あーまあ……でも殆ど副会長に任せっぱなしだし……」

「あの佐伯って子? 可愛いよね」

 そう言っていつもの面子は、生徒会副会長の佐伯の話に花を咲かせる。

 そうだ、あの子にあんなことを言われてから、妙に思考が飛ぶようになったんだ。

「ほら、そうやってまたボケっとしない!!」

「んん?!」

 唐揚げを突っ込まれた。っていうか、お昼すらそんなに食べれてない。五時間目は体育だというのに。とりあえずさっさと昼飯は食べ終わらなきゃ――って。

「あれ、お昼皆食べ終わってんの?」

「というか昼休みもあと五分で清掃だよ?」

 やべ。


「……ってさぁお昼全然食べれなくて」

「それは先輩の自業自得じゃないですかぁ」

 夕方の生徒会室、元凶であり副会長の佐伯香苗にぼやくと、苦笑いで返された。

 秋の夕暮れに染まる生徒会室。いつもの席、今日は元々活動はない日なんだけど、なんとなくいる気がして覗いたら、やっぱり資料作業をえっさえっさとやっていた。

「それにしてもほんと佐伯って仕事マメだよね」

「えへへ……でもたまには先輩も仕事してくださいね?」

「だって今日はやる気起きないし、そもそも活動日じゃないし」

 また笑われた。なんでだよ。いつも仕事してるでしょうが。

「そう言ってるからいつも活動日に仕事が溜まってるんですよぉ? 少しずつでもやらなきゃ」

「別に溜めるのは嫌じゃないから良いんだよ。それにババっとまとめてやれるし、次の日になって分かんなくなるって言うの無くて済むし」

「私が帰るの遅くなるのでやめてください」

「別に残ってくれとは言ってないじゃない、いつも――」

 そう言って、あの瞬間がフラッシュバックする。秋の夕景、生徒会室。いつもの席で、佐伯に言われた言葉。


『会長、好きな人っていますか』


 別に「好き」って言われたわけではない。普通に聞き流したって全然かまわないはずなのに、何故かあの光景が、この一週間ずっと頭から離れない。というか、あの時の佐伯の表情がなんとなく、いつもの佐伯じゃなかった。

「……どうしたんですか?」

「――ぁ、ううん、なんでもない」

 そう笑って誤魔化す。あれはきっと幻覚に違いない。いつもほわっとしていて、たまに顔を出す男子役員共に「可愛い」を連呼されているような、こんな小動物が、まさかね。

「……ごめん、今日は先帰るね」

「あ、はい~、お疲れ様です」

 ちょこちょこと小さく手を振ってくれる。私もそれに振り返す。

 なんでこんなに意識してしまうのか、私にもさっぱり分からない。これが男相手なら「恋だ!」と断定できるけど、相手は女子で、しかも後輩。そんな感情を、自分が抱くなんて到底思えなかった。

(なんだかなぁ……)

 そう思いつつ、生徒玄関で上履きから制靴へ履き替える。夕陽がとても眩しくて、私は目を細めた。


+++


 数学の授業はぶっちゃけ先生の話を聞くより、参考書や教科書の説明を見たほうが分かりやすい。だから数学の時間は、当てられてもすぐ答えられるように、最小限の話だけ聞いて、あとはいつも何かしらの考え事の時間としている。

 そんな今日の議題は、ここ数日と変わらず、あの事だった。

……一体何だったんだろう。

 そもそも、何故そこまであの子のことが頭が離れないんだろう。少なくとも、あの子に好意を持った自覚なんて、一度もない。

「……じもとー、おい、藤本」

「あ! はい!!」

「珍しいなお前がぼけっとするなんて。具合でも悪いのか?」

「あ、いえ、そういう訳ではないんですが!」

「そうか。まあいい、問六やってみろ」

「はい」

……やっぱりどうにも調子を狂わされる。これは早々にはっきりさせないといけない。

 幸い、今日は生徒会の活動日だ。今日にでもさっさと片付けてしまおう。じゃないと、自分の活動に支障が出てしまうし。


+++


 そんなわけで放課後、生徒会室には私、佐伯、そして会計の小松理沙さんとの三人だけが集まっていた。でも、小松さんはさっさか自分の仕事を終わらせて、さっさと帰っていった。

 結局、夕陽差す生徒会室に残っているのは、小松さんのように、さっさと仕事を終わった佐伯と、仕事を溜めに溜めたおかげで、まだ半分ぐらい仕事を残した私だけになった。

「……早く帰っても良いんだよ?」

「残りたいから残ってるだけです。気にしないでください~」

 佐伯はそう言いながら、携帯をいじっていた。話を繋げるぐらいの軽い気持ちであの事を聞いてみることにした。

「ねえ佐伯」

「はい~?」

「……この前さ、『副会長って好きな人いるんですか』って聞いたでしょ? なんで?」

 ただの他愛無い雑談だと言われれば、それで終わりでいい。寧ろそのほうが何事もなく終わる。それでいい。

「そうですねぇ……」

 だけど、佐伯はそれで終わりにはしてくれなかった。佐伯はこの前と同じようににこりと笑って――

「?!」


――私の唇を奪った。


「……こういう意味で、ですけどぉ?」

「まっ、待って、おかしくない?! だって私、女だよ?!」

 そんな素っ頓狂な声を上げる私に、佐伯はこれといった動揺もせず、小首を傾げた。

「だから何だって言うんですかぁ? 別に好きであればこういうことくらい普通だと思うんですが」

「だっ、だって! 女子高ならまだ分かるけど! 共学だよ?! ほかの部活にだっていい男ぐらい探せばいくらでも――!」

「なら、先輩はいるんですか? 好きな人」

 ぐっと佐伯に近寄られてそう聞かれる。そう言われてしまえばいない。確かにこの二年間、いや中学の時も含めて数人かは好きな人はいた。叶わぬ恋だったけれども。

「い、いないけどさ……」

「なら、いいですよね?」

 佐伯がにこりと笑う。

「で、でもおかしいじゃん!! 女の子同士が付き合うのって!」

「おかしいですか?」

「おかしいよ!!」

 だって常識的に考えて、フィクションの世界ならともかくとして、そんな話、少なくとも私の周りで聞いたことがない。

「別におかしくないです。皆誰でも、一回は誰かを好きになるんです。それが男の人じゃなくて、会長だった。それだけですよ?」

 うっ……と、言葉に詰まった。どう返すのが、一番正解なんだろう。

「それで、どうなんですか」

 夕陽のせいか、佐伯がいつもよりも何割り増しか、怖かった。そういう感情表現が言い得ているのかどうか私でもわからない。

 でも、マイナス感情では無い。例えば――そう、新しい土地に踏み入った時に感じる怖さ……みたいな。

 私は佐伯にこれといって恋愛的な感情は湧いてない。確かに佐伯は色々と頼りになる良い後輩で、ほんわかした雰囲気は嫌いではない。だから好きではある。でもこれは、多分恋愛感情じゃない。

 だけど。ここ数日気付けばこの目の前の佐伯のことを考えることが多い。あの夕陽に染まった、あのいつもの佐伯とは別人のような、あの笑みは、頭から離れないほど強烈だった。怪物と言っても良いかもしれない。

「……」

 思考が複雑に絡み合って上手く言葉が出てこない。だから、佐伯には申しわけないけど、ストレートにさっき思った事を言わせてもらう。


「私は、別に佐伯のことはそんなこと思った事ないから。ごめんね」


 これで全部終わりだ。


「そうですかぁ。残念です。けど――」


 その後言った言葉は覚えていない。

 けれど、今し方私が終わらせたはずのこの物語を佐伯は、終わらせる気がないということだけははっきりと覚えていた。そして怖いな、とも。

 だって、目の前の、この時間にだけ姿を見せるこの佐伯香苗という〝怪物〟に私が飲み込まれるのは、きっと時間の問題なのだと、そう悟ったから。

 でも今は、抗うことにした。特に佐伯のことは嫌いでもないけれど、きっと彼女に飲み込まれたら、二度と出てこれなくなる気がするから。

 そう思った私は、まだ手付かずの書類をそのまま積み重ねたまま、足早に生徒会室を出て、逃げるように生徒玄関から靴を履き替えて、家路に帰った。佐伯はそんな私を追っては来なかった。


+++


 その翌朝、私は机に突っ伏していた。

 昨日のあの出来事を嘘だと思いたかった。けれど、あの感覚はどう考えても本物で、あの変な胸の鼓動も、全て嘘といって片付けられるものではなかった。

「よーっ……て、どうしたの藤本。ほんと最近変だよ?」

 そういつもの面子の一人、金城燈子がそう声をかけてきた。

「あーうん……やっぱ変かなぁ」

「変だってば。いつもウチらの中じゃ一番しっかりしてるアンタが、昼休みとか授業中にボケっとしてることが多いなんてさ」

「……昼休みは別に良くない……? ただまぁ……うーん……変かなぁ……」

「そう言うとこが変なんだってば。いつもはそういう事言わないし」

「燈子の前じゃ言わないだけであって普通に言うって」

 ぐっと背伸びをする。誰かが開けてそのまんまの窓から、秋の澄んだ空気が鼻腔に入ってきて、目が覚める。

「……まぁ無理はしないでよ?」

「しないって。大丈夫だから。ありがと」

 そう笑いかけると、まだ言いたそうだったが、何も言わず自分の席へ歩いて行った。

「……はぁ」

 私は一つ溜め息を吐いた。

 昨日私は、佐伯に「恋愛じみた感情を、佐伯に対して持っていない」という事を、はっきり告げた筈だ。でもそれを佐伯に軽く躱されてしまった。というよりも、火に油を注いでしまったような気さえする。

(……まだ教室に来ないだけいい……んだろうかな)

 昨日の今日だからこれからどうなるか知ったこっちゃない。けれど発端のあの出来事から数日間は、佐伯の顔をこの階で見かけたことは、少なくとも私はない。だから今回もきっと大丈夫だろうと思ったのだ。

 時計をちらと見て、まだ朝礼までは十分ほどある。私は朝礼前に手洗いにでも言っておこうと席を立って教室を出る。相変わらずの男子の悪ふざけを横目で苦笑いしつつ、階段横の女子トイレに向かう。そして階段の横を通り過ぎようとした時だった。

「あ、会長ぉ、おはようございます~」

 見つかった。

「あ、うん、お、おはよう……」

 そしてぎこちなく返した時には、既に佐伯の姿はなかった。

(……あれ?)

 気のせいかとも思った。けれど、佐伯たち二年生の教室は、この上の三階にある。だからこの階段で鉢合わせしたところで、なんもおかしくはないんだけど。

(それにしてもほんとにお化けのようにいなくなったよなあ……)

 私は首をかしげつつひとまず手洗いに向かった。


+++


 その日の放課後は生徒会室に寄らず、そのまま真っすぐ生徒玄関に向かった。昨日の今日でなんとなく行きづらかったから。

 クラスメイトに手を振り返しながら靴を履き替える。そして夕陽差す出口を抜けたところに――

「やっぱりそう来ると思ってましたよぉ」

――佐伯がいた。

「……何でわかったの?」

「昨日の今日で行きづらいだろうと思いましてぇ」

 私の思考はあっさり佐伯に見通されていた。

「一緒に帰りましょう?」

「……そうだね」

 流石にそれを無下にできる私でもない。そのままどちらともなく佐伯と並んで歩き始めた。

「……」

「……」

 何もしゃべらずに微妙な距離を開けて、私と佐伯は通学路を歩く。

「……佐伯も、家こっちなんだ」

 それでもその間に耐えれなくなった私はそう話しかけてみる。

「いえ、別方向ですよぉ?」

「あれぇ?!」

 ずっと佐伯も家がこっちだと思ってたおかげで、最近出してないような驚き方をしてしまった。

「や、悪いよ! ここら辺でいいから佐伯は帰りな?!」

 そう言ってみるけれど、当の本人の笑顔は変わらず、「お気持ちは嬉しいですが、ここまで来てしまいましたし、最後までお見送りします」と言われてしまった。なんだかこの笑顔を見てしまうと、それ以上断りづらい。

「あ、うん……。じゃあ……」

 そうあやふやに答えてしまう。一方の佐伯は私のそんなぐっちゃぐちゃな思考なんて露知らず、ただふんわかした笑顔で「はい」と嬉しそうに頷いていた。

 そして結局佐伯には、本当に家の近くまで見送ってもらってしまった。

 家に入って、帰宅の挨拶もそこそこに、自室に入って私はベッドに倒れこむ。

「なんなんだろ……本当に」

 本当にあの佐伯が私には良く分からない。というか、その佐伯に振り回されている私自体、良く分からなくなってきた。

 佐伯のあの一件があるまでは、私はなんとなくで色んな友達を作っては交流を深めていた。それでも、それなりには上手く立ち回れていたと思うし、ここまで調子を狂わされることもなかった。

「……」

……もしこれが、仮に恋だとするなら、本当に厄介なものだと思った。というか、そうであって欲しくない。私の中の、「恋愛」というイメージが穢れてしまうような気がするから。

 けど、ここ最近ずっと佐伯のことを考えてしまう。そして、佐伯のことを深く考えこんでしまうおかげで、色々なことが手につかなくなってしまっている。

 昨日、私はあの〝怪物〟から足掻こうと決めた。決めたけど、その決意が揺らぎそうになる。あえて飲み込んでしまえば、もしかしたら楽になるのかもしれない。今まで通りの生活が戻ってくるのかも。

 所詮は女の子同士の恋愛だ。あんなことを言っているけど、佐伯だってそのうち醒めて、離れていってくれるだろう。そうなれば、万事解決なのではないか。そう思ってしまう。

……けれど、それでいいのだろうか。きっといいんだろうけど。

「あーー……」

 私自身が素直じゃないだけなのか、なんなのか、どうしたいかはっきりしない。

 一体私はどうしたいんだろう。今夜もまたこの答の出ない問いに頭を悩ませて、眠れなさそうだった。


+++


 それから何も進まないまま、一か月が過ぎた。相変わらず悶々とする日々が続いているけど、なんとか最低限の生活は送れている。多分。

 佐伯との関係も、これといって進展がない。というよりも、向こうから何もアクションを起こして来なくなっていた。なんとなくそれが物足りない気がするのは、きっと私の思い違いか何かだろう。

 ただまあ、ずっと一人で考えていても何の進展もないことに気付いてしまったので。

「そいで、私に何の用さ?」

「……ちょっと、相談を、ね」

 いつものメンツその二、深沢に放課後、相談に乗って貰うことにした。

「相談?」

「そう……」

 踏み出してはみたものの、やっぱり話すには勇気がいる。全校朝礼や選挙の時に前に出るのは慣れているとはいえ、個人的な話をするのは違うし、どう切り出せば良いか分からない。

「何よ」

「んとさ、率直に聞くけど」

「うん」

「…………女の子同士の恋愛ってどう思う?」

 ずっと心の中で蟠りになっている、この問い。私自身、もし仮に友達の一人が女の子同士の恋愛をしている、となれば別に否定はしないけれど、自分自身が、と言われれば絶対ない。

「ありなんじゃない?」

「え?」

 深沢から返ってきた返答は意外にも早く、そしてあっさりしていた。

「だってさぁ、女の子同士たってそこに『好きだ』って感情さえあればいいんじゃないの? というか何、藤本、もしかして誰か好きな人でもいんの?」

「好きっていうか……なんていうか」

「なんだ、釈然としないねぇ」

 深沢がからかうように笑う。

「全然笑い事じゃないんだけど……」

「悪い悪い」

 悪びれもなく謝られて少しむすっとする。

「けど羨ましいよねぇ。私は違うけどさ、そうやってアンタに一か月も悩んでもらえるってさ」

「羨ましい? 何で」

「考えてみなよ。自分の好きな人が自分の事で頭いっぱいに悩ませてるとか、マジで最高じゃない? 試しに誰でも適当な男置いて考えてみなよ」

 言われて試しに考えてみる。昔好きだった人が、私の事で色々悩んで、考えてくれる……。

「何それ凄い良いじゃん」

「でしょ? それが女の子だったってだけでさ、本質はそんな変わんないんだよ」

「そこまでの転換がうまくできない」

「そりゃあアンタ変に真面目だしなぁ」

 深沢と喋っているうちに、少しだけ蟠りが溶けた気がした。それでも未だに納得できないことのほうが多いけど。

「……付き合ってみようかなぁ…」

「おっ、マジか」

深沢の話を聞いたら、なんか、すっとそう思えた。

「まぁ敢えて知らん世界に飛び込んでみるのもいいと思うよ?」

「かなぁ」

 真面目に相談に乗ってくれた深沢には、お礼として今度ケーキバイキングでも奢ってあげるとしよう。


+++


 そしてやってきた、生徒会の活動日。今日も男子連中は部活か、サボりかで生徒会室に姿を見せることはなく、会計の小松さんはさっさと作業を終わらせて帰ってしまった。そして、残ったのは、私と佐伯だけ。

「それじゃぁ、私も、帰りますね~」

 佐伯が珍しく、私より先に立ち上がった。

「あっ……うん、お疲れ」

 そう言って手を振ると、佐伯は小さく頷いてそのまま何も言わずに本当に生徒会室を出て行った。

「……」

 蛍光灯が生徒会室を明るく照らす。私は一人で黙々と今日やらなければいけない分をこなす。なんとなく、作業の進みが遅い気がする。

「……そろそろ帰るか」

 なんとか終わらせた頃には外はとっぷりと日は暮れていて、家々の灯りが眩しく見えた。私は鞄を持って、生徒会室の電気を消して生徒玄関へと向かう。

 そう言えばこの何気ない一連の流れを一人で送るのは久し振りな気がした。いつもは佐伯が何かとついて来て少しうざったいなぁと思う事もあったけれど、急に一人になると少し寂しい。……知らぬうちに私は佐伯に毒されていたらしい。

 でも、佐伯が諦めてくれたのなら、もうこんなことで悩まなくていい。佐伯のせいでぐちゃぐちゃになった生活を元に戻して、残りの高校生活を十二分に満喫できるだろうし、あわよくば今度こそ彼氏を作りたい。そんな妄想が次々に浮かぶ。それは一つ一つ輝いて見えて、良いなぁと思う。けれど。

――これでいいの?

 そう、問いかけてくる私がいた。

 いいはずだ。多分。世間一般的に言う普通の恋愛をして、結婚をして。それでいい。きっと。

 佐伯には悪いとは思う。けれどこれが普通なはずだし、何より――


「なぁんて、私が素直に帰っているとでも思いましたぁ?」

「――っぇ?」



――そう自己完結させようとしたところに。佐伯が、立っていた。

「どうですかぁ? 少しは、考え変わりましたぁ?」

 生徒玄関の蛍光灯の下で、佐伯が笑う。その笑顔は、私を落としこめたもので。

「……」

 私はすぐに答えられなかった。二極の私が一生懸命せめぎ合っている。片方は、今までの自分。そしていつの間にか出来ていたもう片方は、佐伯と付き合って楽になってしまえ、という私。

「……どうなんですかぁ? 私、もう一か月待ってるんですけどぉ」

「……っ、私は」

 ぎりぎりまで私は悩んだ。最後まで悩んで出した答えが。

「……付き合って、みよっか」

……あれ?

「……そ、ですか……」

 佐伯はそうこぼして、泣き出した。

「あ、えと……」

 どうすればいいか分からなくて、私はその場に立ち尽くす。というよりも、ぎりぎりまで悩んだ答えがそれで、私自身が一番驚いていた。

「……とりあえず、場所、変えよっか」

「……はい」

 そう言って私と佐伯は、生徒が少ないとはいえ、部活終わりの子からの視線が痛かった生徒玄関を後にした。


+++


 そんな佐伯を連れてファミレスは流石に行きづらかったので、前々から気になっていた喫茶店に私たちは向かった。

「……」

 佐伯はまだすんすんと鼻を啜っていた。マスターが静かにお冷を持ってきて、そして一礼するとそのまままた静かに立ち去って行った。

「……ほら、佐伯そろそろ泣き止みなよ」

そう声をかけると、ぽつぽつと佐伯が話し始めた。

「……本当に、いいんです、か……」

「良いってなにがさ」

「……私とお付き合いする、ってことです……」

……何を言っているんだろう、佐伯は。

「良いも何も、だって、佐伯が、ねぇ?」

「だからです。……なんだか、今になって、その、自信が無くなっちゃって……」

 へぇ。あんなに色々してきた佐伯でも、そんなことってあるんだ。私はまずそこに驚いた。

「……ほんとに、良いんですか?」

 佐伯にまだ泣き止んで間もない、濡れた瞳でそうみられて、思わず顔を背けてしまう。なんだか佐伯はそういう雰囲気というか、絶対に逃がさないために色々と周到だと今更のように感じた。そして今も、そんな目で見られてしまっては断れるはずがない。

「……別に、いいけど」

「……ありがとう、ございます」

 佐伯がふわりと笑った。今まで佐伯の笑みは生徒会室で見たある意味邪悪、というか、意地悪い笑みしか見てこなかったから、そんな柔らかい佐伯の笑みは初めて見て、そして初めてなんだか可愛いな、と思ってしまった。

「……とりあえずさ、何も注文しないのも、なんだし。なんか頼も? 夕飯前だけど」

「それなら連絡してここでお夕飯、食べませんかぁ? 私、お腹空いちゃって」

「……そうしよっか」

 何て言って親に断りをいれようと、私は必死に言葉を巡らせた。


+++


 なんとか親に断りを入れた私と「私も先輩と一緒が良いです」と言った佐伯はミートソースを注文して、一口水を飲む。キンキンに冷えた水が、いつの間にか火照っていた身体を中から冷やしていく。

「……ねえ佐伯」

「はいー?」

「何で、私だったの」

「ほえ?」

「私じゃなくたって佐伯と同い年の小松さんだっているじゃない。なのに何で私だったの」

 そう聞くと佐伯にびしっと指を差された。

「……顔です」

「顔? って、私の?」

「当たり前じゃないですかぁ。私は生徒会の終わった後の、先輩の作業している時の真面目な顔が、一番好きなんです」

「……真面目な顔」

 そう言われてなんとなく腑に落ちない。

「ふふ、夕焼けで影になっている先輩の姿、ずっと私から離れてくれなくて大変でしたのよ?」

 そう言われて私は気付いた。私はずっと佐伯のあの夕焼けに翳って、妖しい雰囲気を纏っていたあの佐伯の笑顔がずっと離れなかった。けれど、佐伯も佐伯で夕暮れに翳った私が忘れられなかった。少し前に私は佐伯のことを「夕焼けの怪物」と揶揄したけど、きっと佐伯にとっては私も同じように「怪物」だったのだろう。

「……なんだ、佐伯も一緒だったのか」

 そう考えたら、自然と笑みがこぼれた。佐伯はそんな私を見て不思議そうに首を傾げていたけど、まあ佐伯には分からなくていい。だって私が一人ただ思っていたことを、佐伯も同じように思って安心しただけだし。


+++


 帰り道、私は佐伯に「今日は佐伯を送っていってあげる」と言った。当の佐伯は「先輩に送ってもらうのは悪い」と断っていたけど、半ば強引に佐伯を送ることにした。

「……私はさ、今だに思っているんだよね。女の子同士が付き合うなんて、さ」

 唐突に私がそんな話をし始めたもんだから、佐伯は驚いていた。

「だから、今も私の中には「間違ってる」とも思っているわけで」

「はい」

「だけど、まあ。好きになるっていうのは誰にでも起こりうるし、自分が好きだと思ったら、一般論なんてどうでもいいのかな、とも思うんだよね」

「……すいません先輩、言っている意味が、ちょっと……」

「あはは、まあ分かんなくていいよ。……つまり何が言いたいかっていうとさ――変えてよ、私の中の常識を、さ」

 私は今までありふれた世界の中で、ただただ生きてきた。だからこうして佐伯と恋人関係になっても、きっともうしばらく私の中での葛藤が続くだろう。だから、そうした原因になった佐伯にはしっかりその責任として、そういうのもアリだと、思わせて欲しかった。責任転嫁と言われても仕方ないけど。

 それを聞いた佐伯は、周りを少し窺うような素振りを見せた後、ぐっと近づいてきて私の耳元で囁く。

「任せてください、きっと変えてしまいますから」

 その次の瞬間には、私の唇に柔らかい感触を感じた。こんな外で、という恥じらいよりも先に、「あぁ、温かいなぁ」と、なぜかそう感じた。どうやら私の思考回路もだいぶ変わってしまったようだ。

 しばらくの後、佐伯はすっと離れて、にこりと笑った。

「……あんまり外で、そういうことしないでよ?」

「ふふっ、ごめんなさい」

 そう言った佐伯はちっとも悪びれた様子はない。私は苦笑いを浮かべた。

「……陽、落ちるの早くなったね」

 私は恥ずかしさを隠すためにそういうと、佐伯の「そうですねぇ」といつもの間延びした声が聞こえた。本当に佐伯は不思議なやつだと思った。

「しばらく夕日の影の先輩を見れないのは少し残念ですねぇ」

「見なくていいよ、別にそんなの」

 あんな妖しい笑みをまた見せられたら、今度はたまったもんじゃないと思うし。

「さて、そろそろ急ごっか。時間もいい時間だし」

「はい」

 私と佐伯は少し足を早めた。夜の帳はもうすぐそこまで迫っている。

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