第9話 即決
課題を終えしばらく杏莉と雑談していたところ、和幸がリビングのドア越しから「風呂空いたから」と言ったのを機にお開きとなった。
お風呂の順番は杏莉に譲り、自分の部屋に戻りベットの横にもたれ掛けた。
部屋に入りお風呂に入るまでの時間をどうしようかと考えたが、望月さんと杏莉が言ったあの言葉が、頭から離れないでいた。
「もう大丈夫」
雑談している最中も思考はそちらに寄ってしまい、話しの内容は半分も覚えていない。
望月さんの訴えるような目で言った「大丈夫」と、杏莉が強がって言ったのであろう「大丈夫」の意味を考える。
望月さんのそれは俺のこと指していて、その根拠は分からない。
杏莉はどうだろうか。彼女が自分自身に言い聞かせるようにも思えるし、単に俺を安心させるためなのしれない。またはその両方の場合もある。
彼女たちの真意がどこにあるのかわからない状況が俺の言動を制限させ、思考を加速させられる。望月さんはたぶん嘘は言っていない。が、真実または根拠を何かしらの事情で開示していない。おそらくその理由こそ望月さんが抱えている何かに繋がっているのだと思う。それを詳らかにまで、とは求めないが、少なくとも俺が納得するものを示さない限り、彼女の望む行動はしないだろう。
杏莉は気丈に振舞っているが、見えないところで泣いていることを知っている。きっと和幸も感じ取っているはずだ。あいつの言動に彼女に対する気遣いが見て取れる。さっきみたいに口喧嘩こそするものの、杏莉を本当に傷つける一線は絶対に越えない。遠慮のない物言いはするが、それは杏莉にとって対等な関係を築く一助となっている。所謂仲の良い友達というやつだ。
今の杏莉には負の感情をため込まずに吐き出せる相手が傍に必要だ。それは俺や姉達、ましてや両親や祖父母達でもない。和幸だけがこの役目を負うことが出来る。和幸だけには遠慮をしないその姿は、和幸以外の家族と話をする時より、ひと際楽しそうに見える。
だから「大丈夫だよ」は俺にではなく、和幸に言うべき言葉だ。この家で杏莉のことを一番気に掛けているのは和幸だから。
そして和幸は間違いなく杏莉のことが好きだ。見ていれば分かる。
杏莉の想いは何処に向いているのだろうか?明け透けな性格に見えて彼女は肝心なとこを見せることはしない。多分本当に心を許した相手にしか見せないはずだ。
和幸にはどうだろうか?それは二人にしか分からないし、それにきっと和幸は気付けない。今の関係を壊したくないが故、相手の気持ちに気付かない振りをし、気付くことを拒む。だから和幸は
距離が近ければ近い程に、心のフィルターは増えていく。
想い人の思い知ることは、ある意味全てを否定されることと等しい。だから最後の一歩を踏み込まず、現状を維持しようと躍起になる。自分もそうだった。
恋愛感情を抜きにして、杏莉も似たようなものではないだろうか。我が家を居心地の良い場所と思ってくれている、というのは自惚れではないと思う。だからこそ彼女は失うことを恐れ自分に壁を作り、お互い最後の一歩を踏み込めせないようにしているのではないか?その壁の一部こそが「大丈夫」なのではないか?
思考を張り巡らせているとベットに置いたスマホが「ピコン」と鳴りメッセージが来たことを知らせた。
送り主は憲吾からで、明日部活が休みだから帰りに遊びに行かないかと誘われた。憲吾から放課後誘われるのは初めてのことだったが、今はそんな気分じゃないので断りのメッセージを送った。すぐに「了解」の二文字が帰ってきてそこでやり取りは終わった。
今やり取りした通信アプリで、クラス内のグループチャットがあるみたいだが、俺は入っていない。徳瀬に誘われたが断った。クラスでIDを知っているのは彼女と憲吾、他数人といったところだ。二人は別として、他の奴らは一年の時に同じクラスか、部活仲間だった奴らだ。去年はクラスと部活のグループチャットに入っていたからその名残で、現在は大半相手から削除なりされている。
前原さんとはチャットも電話も可能だがする気はない。望月さんとは今でもチャットのみ可能だが、一回も送ったことも送られて来たこともない。
スマホの画面に彼女と個人チャットが出来るところまで開く。後は文章を入れて送るだけだ。明日顔を合わせる前に一度謝罪メッセージを送ろうかと迷い天井を仰ぎ見る。が、結局何を書けば良いか思い浮かばず、視線をスマホに落としすべて閉じた。
言い過ぎたことに対して謝るのは当然だと思っているが、やり取りの先にまた同じことになりかねないかもと懸念した。俺と彼女は平行線のままだ。
明日必ず望月さんに直接謝ろう。それだけは強く心に誓う。
その後母がドア越しにお風呂が空いたと呼びに来た。重い体をゆっくりと立ち上がらせ着替えの準備をし、風呂場へと足を運んだ。リビングの脇を通ると両親の話し声が聞こえてくる。親父が帰ってきたみたいだ。だが顔を合わせるのも今日は面倒だったので声は掛けなかった。
今日は悶々として寝付けないかもしれない。そう思いながらゆっくり湯船に浸かっていると、予想に反して眠気と疲労感が襲ってくる。体を洗うのもそこそこに風呂場から出て部屋に戻る。そしてベットで横になるといつの間にか眠りに落ちていた。
スマホの目覚ましが鳴る音で目を覚ましハッとする。いつもなら朝方に一度は目を覚まして二度寝を楽しむのだが、今日はそれが出来なかった。
気分は昨日より若干落ち着いているが、今日すべきことが頭を過ると急に重力が重くなる感覚に見舞われる。
今日は休みたい。そんなことを考えつつもベットから降りて軽くはない足取りで洗面所とトイレに向かった。用を済ませリビングに入ると母と杏莉が朝食を作っていた。
「おはよう英幸。あと少しで出来るから待ってて」
「おはよう英にぃ」
二人に「オハヨ」と返しソファーに腰を下ろしテレビをつけた。朝のニュース番組はどこも似たようなことしかやってない。つけた時のチャンネルのままボーっとしながら眺めていた。
「テレビなんか見てないで、出来たから早く食べなさい」
母の言葉でダイニングに移る。
「あれ?親父はまだ寝てるの?」
「何言ってるの。お父さんいつも通りお仕事に行ったわよ」
「だってそこに弁当二つあるじゃん」
テーブルの端に置かれた二つの弁当箱を目線で指す。すると母は「アッ」と声を漏らし、その後に顔を曇らせた。この家で普段弁当を持っていくのは俺と親父だけだ。
「今から電話しても間に合わないし・・・・・・。お父さんなんだか最近疲れているみたいなのよね。今月に入ってから帰りも遅いし、お仕事忙しいのかしら」
「春子さんにはなにか言ってないんですか?四月だし部署が変わって大変だとか」
家事の手を止め眉尻を下げ杏莉が母に尋ねる。
「あの人はあまりそういう事言ってこないのよ。昔から仕事の話は家庭に持ち込まないし、家族に心配掛ける様なことはしないわ。だからこそ心配なのよ。今夜あたり訊いてみようかしら」
「親父は親父で考えているだろうからあまり問い詰めない方がいいんじゃないの。親父だって家族に言えない隠し事の一つや二つあるだろうよ」
「隠し事なんて気にしてないわよ。そりゃー生きていれば家族にも言えない秘密くらいあるに決まっているでしょ。それより体の方が心配なのよ」
家族にも、ではなく家族には、だったらどうするんだよ。と思うが口には出さない。まぁその辺は夫婦二人の問題だし、母は信頼しているみたいだからいいか。
そして杏莉が首の前で両手を合わせ「そうだ!」と閃いた素振りをして続ける
「だったら今日の夕食は幸晴おじさんの好物を作って食べてもらいませんか。私も日頃のお礼を兼ねて食べてもらいたいですし」
「お礼だなんて、杏莉ちゃんはいつも良くやってくれているから別にいいのに。でもお父さんの好物を作るのは賛成ね。最近作ってなかったからちょうどいいわ」
「ちなみに幸晴おじさんの好物って何なんですか?
「「餃子よ(だよ)」」
示し合わせたかのように母と声が被った。それも聞いて杏莉が「フフッ」と笑った。ちょっと照れ臭かったので話を変える。
「ところで親父の弁当はどうするの?」
「そうねぇ。今からじゃどうしようもないし、お父さんはお弁当がなければ適当に食べるだろうから。私がお昼にでも食べるわ」
そこである顔を思い出す。手料理に飢えている級友の若林憲吾のことを。
折角だから、という思いと、杏莉じゃないが何かと世話になっているお礼をするのもいいかな、という気持ちから母にお願いをしてみる。
「だったらさ、親父の分俺が持っていってもいいかな?」
「別に構わないけど、あんた二人分も食べるの?」
俺は憲吾のことを簡単に説明した。父親と二人暮らしで殆どが外食かコンビニやスーパーの弁当で済ませていることを。本当は人の家庭事情を触れ回るのは好きではないが、家族なら問題ないだろう。杏莉も家族の一員だ。
事情を聞いた母は「その子の体調が心配ね」と快く承諾してくれた。
早速憲吾にメッセージを送るとすぐ既読がつき、すぐに《即決!》と返ってきた。全部が早えよ。
スマホをテーブルに置きすでに準備された朝食を杏莉と並んで食べる。途中で寝起き顔の和幸がやってきて、挨拶もそこそこに黙々と食べ始める。下の姉幸結は朝、二階に殆ど来ない。
食べ終えていつも通り流しに使った食器を運ぶ。中学生二人はまだ食事の最中で、母はゴミをまとめたり洗濯したり家事に追われている。俺たちが出て行った後にゆっくり朝食を取るのが習慣だ。
部屋に戻り身支度を済ませてから再度リビングに入る。ランチバックに包まれた弁当二つを鞄に入れようとするが、二つ目を入れる余裕がなかったので、適当な紙袋を母に出してもらい憲吾に渡す方をそれに入れた。
弁当は母と杏莉が作ってくれるが、朝食の最中パタパタと忙しなく働く母が「今日は杏莉ちゃんが全部作ってくれた」と教えてくれた。
それを聞いた和幸が恨めしそうにこちらを見てきたが、軽くスルーした。
鞄と紙袋を持って廊下にある一階へ続く階段の扉を開けると、ササっと足元を何かが横切る。
モフモフッとした毛並みに黒と茶色のトラ柄模様。我が家の飼い猫「キンタロー」だ。五年ほど前家に来た当初、普通子猫はどちらかというと痩せ細って見えるものなのだが、心配した和幸が金太郎みたいに大きく強くなってほしいと願いを込め付けた名前だ。
「キンタ、そっちは爺ちゃんたちがいるからいつも行っちゃ駄目だって言ってるだろ」
一階のドアの前で「んにゃ」と一鳴きしながらこちらを振り返る。祖父母は猫嫌いではないが、抜け毛の掃除や壁を爪でがりがりやられるのが嫌みたいで、下には連れてかない決まりになっている。
しかたがないので一旦下まで降りて捕まえてからまた二階へ上がる。廊下にキンタローをそっと置くとこちらをチラ見した後、のそのそと少し扉が開いていたリビングに入っていく。それを見送り一階へ降りて祖父母の家に入った。
居間に居た祖父母に「おはよー。行ってきます」と声を掛けると「おう」「行ってらっしゃい」といつものような感じで帰ってきて、そのまま家を出た。
いつもの朝の光景。
違うのは昨日の彼女を憂う感情と、右手に持った紙袋だろうか。
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