第8話 ポニテノーム
トントン。
部屋の 扉をノックする音にハッとして意識を取り戻す。
「英にぃ、ご飯できたよー」
精神的な疲労からだろうか、いつの間にか寝ていたようだ。
スマホの時間を見ると七時半近かった。
「起きてるー?」と杏莉の呼びかけに「今行く」と答えて、起き上がった。
「じゃあ先行ってるから早く来てね」
足音が遠ざかっていく。
首を交互に左右に傾け「ゴキゴキ」と首の骨を鳴らし、両手の指を組み合わせて思い切り天井に向かってに腕を上げ伸びをする。最後に両手で両頬を「パンパン」と叩き覚醒を促した。
着たままだった制服からラフな格好に着替え、電気を消してから部屋を出る。
リビングに行くとその奥には今まさに夕飯を食べ始めるところだった。リビングの奥はそのままダイニングキッチンがあり、一つの部屋になっている。
いつもの席に座ると母から「宿題もしないで寝てたの?」とご飯の前に皮肉を食わされた。
寝起きじゃなくても似たようなことを周りからよく言われる。そんなに眠たそうな顔をしているだろうか?しかし母は本当に寝起きの時にしか言ってこない。さすが母親だ。
「飯食ったらやるよ」と面倒臭そうに言うと、「あっそ」と淡泊に言う。
「英にぃ、ご飯足りなかったら言ってね。おかわりよそってあげるから」
箸をもって「いただきます」と言って食べ始めようとすると、隣の杏莉が言ってきた。
最初の頃と比べだいぶ慣れてきのか、今の杏莉の姿に当初あったぎこちなさは無かった。
「杏莉ちゃん、あまり英幸を甘やかしちゃ駄目よ。甘やかし過ぎると男なんてすぐ駄目になっちゃうんだから」
「大丈夫ですよ春子さん。その辺は上手くやりますから。ね、英にぃ」
「英にぃ」のところでこちらに満面の笑みを向けてくるその顔は、対価を求めている様にも見える。
そのあざとい仕草に思わず顔を緩めると「キモッ」と正面に座る姉に引かれた。
テーブルは基本6人掛けで、人数が多い時は机の裏側に折りたたんだ補助を出せば8人掛けにもなる。毎週日曜日は祖父母も一緒にここでご飯を食べ、一階に住む下の姉は夕食をこの二階で食べるが、朝食は祖父母と一緒にとっている。
今食事をしているのは五人。俺はリビングから入って左側の一番手前。時計回りに杏莉、まだ帰って来ていない親父。親父の正面が母で和幸、下の姉「
その後歓談を交えながら夕食は進むが、俺は殆ど話すことはなかった。
我が家では食器を片付けるまでが食事の範囲で、和幸と愛幸はすでに食事を終え食器を流しに置きリビングから出て行った。母は食器洗いを始めており、俺と杏莉だけが残っている。
いつも食べるのは早い方だが、今日は食欲が湧かないので食は進まなかった。それでも出されたものだけは胃袋に詰め込みなんとか食べ終え、食器を片付けてからリビングのソファーに腰かけた。。杏莉も残り一口二口で、しっかり噛みながら食べている。やがて食べ終わると「ごちそうさまでした」と言ってから食器を運び、台ふきん片手に戻ってきて、そのままテーブルを拭き始めた。
「いつもありがとうね、本当に助かるわ。誰かさんも見習ってほしいわねぇ」
母の視線を軽くスルーしてテレビを点ける。あまりテレビを見る方ではないので、しばらく適当にザッピングしていると「よいしょ」と一仕事終えた杏莉が隣に座ってきた。きっと頼み事でもあるのだろう。
「お兄様。お勉強を教えて頂きたいのですけど、宜しいでしょうか?」
「お兄様はアザラシの生態について学んでいる最中なので、ご遠慮願いたいと存じま上げます」
恭しくお願いをしてくる杏莉に対してお道化ながら返す。アザラシはたまたまテレビに映っていた動物ドキュメンタリー番組で生態を説明しているところだ。
「いやそうじゃなくて、ちょっとだけで良いから教えてほしいの」
「どうした。中学校になって勉強についていけなくなったか?」
杏莉と和幸は今月から中学生で、俺が二年前に卒業したのと同じ学校に通っている。
「んー、英語がちょっとね。あまり勉強してこなかったから周りとの差を感じちゃうんだ」
杏莉は小学校六年生の時殆ど学校に行っていなかった。だからだろうか成績はあまり良くないらしい。だが頭は良いみたいだ。、三月に来た頃上の姉幸結によく勉強を教えてもらっていて、姉が曰く「呑み込みが早くて教え易い」とのこと。
「わかった。宿題かなにかあるのか?」
「うん裏表のプリントが一枚」
「だったらここでやろうか。俺も自分の分を持ってくるから。どうしても分からないことだけ教えやる。それでいいか?」
「ラジャー」と右手で敬礼する
「ついでに和幸も読んで来い。部屋でゲームしているだけだろうし、宿題もどうでせやってないだろ」
「うーん、和君は違うクラスだからわかんないや」
「別に英語じゃなくてもいいから。あの中学結構宿題が多いから何かしら出ているはずだ。とりあえずお前も宿題全部持ってこい。見てやるから」
「ありがとう。じゃあ和君も呼んでくるね」
ソファーから立ち上がり、ポニーテールを揺らしながらリビングを出て行った。
和幸は最初渋ったみたいだが、杏莉が上手く説得したらしい。和幸の希望で勉強はダイニングテーブルですることになった。その方が集中出来るみたいだ。
杏莉が拭いてくれたおかげでテーブルは綺麗になっており、そこに各々の課題を広げる。まだテーブルには親父の分が残っているが、補助テーブルも使っているので邪魔にはならない。
とりあえず解らないところは飛ばして最後に教えることにした。杏莉は俺の隣に陣取り、その正面に和幸が座る。
課題を始めてから二十分程経過したあたりで「頑張ってね」と母が声を掛けてきて、そのままリビングから居なくなった。
それから更に二十分は過ぎた頃に杏莉と俺が終わったので、まず杏莉の方を見てみることにした。国語、数学、英語の三教科があって、国語と数学はほぼ問題がない。苦手と言っていた英語も言うほど悪くはない。中一の一学期だからそんな難しいものでもないが、ちゃんと理解しようとする意志が見える。be動詞と一般動詞を少し勘違いしているのと単純なスペルミスだけだ。上の姉に英語は教えてもらっていなかったことを考えれば十分だと思う。
「杏莉、国語と数学はかなり良いんじゃないか。英語もbe動詞と一般動詞をキチンと理解出来れば問題ないよ」
「えへへ、ありがとう」
嬉しいのか、体を左右に揺らしながら照れ笑いしている。
「取り敢えずここの場合は‥‥‥‥」
間違えている箇所を丁寧に教えていくと、居住まいを正して素直に話に聞き入る杏莉。
十分位経過し、一通り終わったところで和幸に声を掛けた。
「ちゃんと出来たか?見せてみろ」
「うるさいなー。出来てるから見なくても大丈夫だよ」
確かに課題のプリントは殆ど埋まっていた。見た限り杏莉と同じ課題のようだ。しかし和幸は成績が良い方ではないので、杏莉ほど出来ているとは思えない。
「和君ここ間違ってるよ。途中の式も抜けてるし」
和幸のプリントをパッと持ち上げ、それを上から下に視線を流したあと安莉が指で指し示す。
「分かってるよ。今見直そうとしてたんだから余計なことするな」
杏莉の手からプリントを取り返し、口を尖らせる。
和幸は安莉にああだこうだと言われるのを極端に嫌がり、よく口喧嘩している。
身長は安莉の方が高く、勉強も安莉の方が優秀で、尚且つ家の手伝いをして家族に、主に女性陣によく褒められていた。
安莉が我が家に来る前まで和幸は甘やかされて育った。母は俺に対するのと比べて口うるさく言わないし、祖母も似たようなものだ。極めつけは姉二人。いつも和幸の味方で、和幸の我が侭が原因で俺と喧嘩した時も、理由も訊かずに「英幸が悪い」と断じてくる。流石に本当に道理が通って無いときだけは諭していたが、基本は王子様さま扱いに近い。反対に俺はヒエラルキー最下位だ。
そして安莉が家に来てから状況が変わる。
家の仕事を全くやらず成績も振るわない和幸に対し、異性とはいえ同い年のよく出来た子が家族に加わり、比較されるようになった。
安莉の少し天然っぼい可愛らしさや、彼女の事情も相まって、姉二人は可愛がりよく面倒を見ていた。両親も家族同然といって余所余所しくせずに接していた。
比較され今まで良しとされてきたものが、段々と許されないものへと変わっていく。それに不満を持った和幸が俺に八つ当たりをしてくることもあり、家族に諫められることがしばしばあった。
今までほぼ無条件で味方してくれた家族が、敵になることが多くなった。
俺にとってはそれが普通だと思うのだが、とにかく最近の和幸の立場は以前とは比べものにならないくらい下がった。
「余計なことってなによ。ただ間違ってるよって教えてあげただけじゃない」
「だからそれが余計だって言ってんの。少し勉強ができるからってうるさいんだよ」
「和君ができないだけでしょ。私は普通だし」
「嫌味にしか聞こえないね。小テストでいつも良い点取ってるの知ってんだからな」
「私より点数高い子なんて周りにいっぱい居るし、テストなんてまだ三回しかやってないじゃん。ていうか何でクラスが違うのに和君が私の点数知ってんのよ?」
「べ、べ別に今それ関係ねぇだろ」
「関係無いなんてことは無い。私仲良い友達にしか教えてないもん。あっ、もしかして勝手に見たの?」
「そんなことしねーよ」
「だったらどうして‥‥‥」
安莉が納得のいかない顔で問い詰めるが、和幸は安莉の言葉を遮り「もう宿題終わったから風呂入る」と言って急いで自分の物を片付け立ち上がった。その顔は焦ってるというより寧ろ照れている様に見えた。
「あちょっ‥話しはまだ終わってないのに」
立ち上がる和幸に対して安莉は止めようとするが、
取り付く島もなく和幸はリビングから出て行く。
「何なのよもー」と頬をリスみたいに膨らませ、「バタン」と閉まったドアを軽く睨む。やがて溜息をつき、机の上を片付け始めた。
「あーなんか和幸がごめん」
「ううん。英にぃは悪くないよ。私もつまらないことに拘っちゃったし」
「安莉が言うならそれでいいけど‥‥‥けどあいつ少し変わったなー」
「そう?和君って昔からあんな感じじゃん」
「そうでもないよ。昔のあいつならこうやって一緒に勉強することなんて殆どなかったからな。姉貴達はともかく、俺とは絶対にしなかったな」
「ふーん。私には兄弟がいないからよく分からないけど、普通兄弟で向かい合って勉強するなんてことしないんじゃないかなぁ」
「だからこそだよ。姉貴達は一緒にっていうより一方的に教えてたって感じかな。それこそ家庭教師みたいに。まぁ家族ってそんなもんだろう」
「じゃぁ私が家族じゃないってこと?まぁ私にもお父さんもお母さんもちゃんといるけど‥‥。でもなんかちょっと寂しいな‥‥」
そんなつもりで言った訳ではないが、悲しませてしまったことが申し訳ないので、
「心配するな。少なくとも俺は安莉のこと家族だと思ってるよ」
安莉の頭の上に手を乗せ優しく撫でてあげた。
「‥‥ありがとう、英にぃ」
安莉はパッと顔を明るくし、また体を左右に揺らし始めた。手は乗せたままだ。
しばしメトロノームの様に一定のリズムを刻んでいたそれは、手を離すと電池が無くなるが如くゆっくりと止まり、一緒に揺れていたじゃじゃ馬の尻尾も同時に静かになった。
そこに静寂を待たずして開口する。安莉が。
「英にぃも変わったよ」
何が?と思うのは当然だろう。そして当然、
「何がどう変わったの?」と訊き返す。
しかし彼女は俺の質問には答えず代わり言う。
「私はもう大丈夫だから安心してね」
『もう大丈夫』
その言葉が喫茶店で残したあの苦い味を甦らせた。
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