第2話 紫の地
どのくらい時間が経っただろう。
ようやく風が止んだので目を開けると、朱音は思わずへんな声をあげてしまった。
辺りは一面の紫になっていた。
さっきまでいた河川敷は見渡す限りの原野に変わり、紫色の花がこれでもかというほど咲いている。それは朱音たちの祖母が笑いながら語った景色そのものだった。
「デタラメじゃなかったんだ……」
朱音は呆然と景色を見つめながら、傍らで目を瞑ってじっとうずくまっている紫音の肩を叩いた。
「紫音、起きてみろ。なんかすごいぞ」
紫音は目を開けると、朱音と同じように目を見開いた。
「お、お姉ちゃん、ここ……どこ?」
「わからないけど、たぶんおばあちゃんが言ってた場所だよ」
「……デタラメじゃなかったんだ」
「驚いたよな。まあとにかくここにいても仕方ないし、ちょっと歩いてみよう」
「う、うん」
二人は立ち上がると、手を繋いだまま歩き始めた。
一面の紫はどこまでも続いていて、終わりはないように見える。辺りは暗いが、紫色の花がいちいちぼうっと光っているので歩くのに苦労はなかった。
「お姉ちゃん、私たち帰れるよね?」
「まあ大丈夫だろ。おばあちゃんだってちゃんと帰ってきてるんだから」
不安になりながらも、二人は進んでいくと、やがて開けた場所に出た。
二人はそこで立ち止まって身構えた。それは終わりがないように思えていた一面の紫が急に途切れたからではない。人が立っていたのだ。
『……』
奇妙な出で立ちの人だった。背がやたらと高く、ひょろっとしている。ベージュのコートに、帽子という服装。黒い革靴を履いたその姿はそれだけなら奇妙というほどではない。
じゃあなにが奇妙かって
―――その人には顔がなかったのだ。
帽子の下の本来顔があるべき場所には、底の見えない黒い影があるばかり。その見た目は、明らかにこの世のそれではなかった。
「お、お姉ちゃん……」
「だ、大丈夫だ。心配すんな」
そういう言葉と裏腹に、自分の声が震えていることに朱音は気がついていた。
しかしなんでもない風を装って妹の前に立つ。
黒い影は、本来なら目がある部分の暗闇をこちらに向けて、
『こんにちは』
案外気さくに話しかけてきた。
挨拶をされたので、朱音は戸惑いながらも「こんにちは」と返す。
『お待ちしておりました、どうかそんなに緊張なさらず』
「ま、待ってた?」
『ええ。その昔、あなた方のお婆様がこの地にいらして、この地のお嬢様と約束を交わしてからずっと、あなた方が来るのをお待ちしておりました。生憎とお嬢様本人が来ることは叶いませんでしたので、代わりに私がここにいるという次第でございます』
「約束って……?」
『これでございます』
黒い影はそう言うと、手に持っていた何かを二人の方へ見せた。
「あ、それ……」
それは河川敷で朱音が落としたお守りだった。
黒い影はその封をほどくと、中に入っていた粒のようなものを取り出した。
『ええ、確かに受けとりましたよ』
「な、なにそれ?」
『これはあなた方の世界の「紫草の種」でございます』
「種?」
『ええ、あなた方のお婆様はこの世界に生えている「ムラサキ」のことを大層気に入り、持ち帰りたいとお嬢様に仰りました。お嬢様も是非その願いを叶えてあげたかった。しかしこの世界の物を持って帰るには、その代わりが必要でございます。だから約束をしたのです。いつか必ず、向こうの世界の「紫草」をここに持ってくると』
「……ふーん?」
朱音はなんのことやら分からなかったが、一応頷いておいた。
黒い影は種子をコートのポケットに仕舞うと、空っぽになったお守りを朱音に手渡した。
『これで約束は果たされました。あなた方も、どれでも好きな一輪をお持ち帰りになるとよいでしょう』
「う、うん」
なんのことやら分からないが、とにかく周りに生えている紫色の花を摘んでいいということらしい。朱音は言う通りにすることにした。元々それが目的だし。
「紫音、どれがいい?」
「わ、わたし?」
後ろで固まったままの妹に話しかける。
紫音は戸惑っていたが、やがて「じゃあこれ」と一輪の花を指差した。すると花は誰が何をするでもなく自然に浮き上がり、ふわふわと紫音の手に収まった。
不思議だ。今さらだけど。
『ふむ。もうちょっと話していたいところですが、残念ながらその時間はないようですな』
黒い影がそう言うと、ここに来たときと同じような風が吹いてきて、
ごう、ごう、ごう、と、朱音たちのことを包み込んだ。
『元の世界に戻ったら、お婆様によろしくとお伝えください。お嬢様は今でもあなたのことを想っていますと』
「あ……ね、ねえ。最後に質問。結局、ここは何処なの?」
朱音がそう訊くと、黒い影は表情が見えないはずの暗闇をちょっと緩めて、
『ここは在りし日の「ムサシノ」でございます』
と言った。
「武蔵野?」
『昔も今もあなた方と共にある、そんな世界でございます』
「……そっか」
『ええ、では、またいつかお会いしましょう』
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