第3話
厚い雲に遮られ、月明かりすら届かない夜闇の底。
高架下にある、一本の街灯の下。そこで少女は膝を抱えて迷子のようにうずくまっていた。
『ガマンしなければいいのに』
悪魔はそっと忍び寄って驚かせようとしたのだけど、思わず呟いた。
はるか下にある黒い肩が大きく震える。
少女は膝と膝の間に顔をうずめているため、見えるものは暗闇しかない。その分他の感覚が敏感になっていて、耳に入る音が、冷たい空気の感覚が、枯れ草のにおいが、目の前の光景をまざまざと脳内に映し出している。
『どうして抗うんですの?さっきのお婆様で
も斬ってしまえば、そこまで苦しむことも
ないでしょうに』
脳内に浮かぶ悪魔の舐めるような視線が、少女をしっかり握りしめる包丁に向いた。急に包丁が重さを増す。
どうして?そんなの、決まってるだろう。
とことん意地の悪いクソ悪魔だ。
『……人殺しは…悪いこと、だから』
『ほう?それが理由ですの?あなたがどんな
重罪を犯そうと、気にしてくれる人なんて
いやしないでしょうに』
『それでもよくねぇ…よくねぇんだよ。
あたしは…』
頭上で、悪魔がゲラゲラと笑い声をあげた。
想像の中で悪魔は腰をおり、腹を抱え、大きな三日月型の口を上品に手で覆っている。
『あなたを叱る人も、慰める人も、愛する人
もいやしませんわ!可愛げのないしかめっ
面に暴君のような性格、一体どこの誰が気
にいるというんですの?』
『……勝手に決めつけんなよ!』
包丁を投げつけてしまいそうで、顔をあげずに叫んだ。
悪魔はピタリと笑うのをやめた。ただ、優しく、慈しむように、次の毒を吐く。
『唯一あなたを友人だとのたまう、あの小娘
がいる?でも、あなた、その子を殺してし
まったじゃないですの』
少女は、噛みちぎりそうだった下唇をそっと離した。
悔しいけど、その通りだった。悪魔のくせに何一つ間違っていない。でも•••だけど。
『……なぁ。あたしは、な、馬鹿なんだよ。
知ってるだろ?』
『えぇもちろん。義務教育すらロクに受けて
いませんものね。学もないし教養もないで
すわ』
『……クソ、はっきり言うな』
『悪魔に慰めなんて期待するのはお門違いで
してよ』
ふふ、と含み笑いが鼓膜を震わせる。少女は乾ききった舌を打ち、両膝を抱えた。
『馬鹿だから、あたしには、わかんねぇんだ
よ。ガマンの仕方、とか。だからいつも、ただ耐えることしか出来な くて、結局、やりたくねぇ犯罪ばっか、やっちまう。そういう代償だから、しゃーないっちゃあしゃーないけど…』
腕組みをして見下ろしてくる悪魔の姿がかき消えて、無機質に白い病室で眠る、女の子の姿が脳裏に浮かんだ。
真っ白な肌、細い腕、肩まである黒い髪。時折、わずかに震える綺麗に生え揃ったまつ毛。
かつては鈴のように落ち着いた声を響かせた唇は、氷のように冷え切って閉じていた。
たとえ今の苦しみが、そんな状態のアイツを救うためだとしても。友人に手をかけた報いだとしても。
『あたしは、嫌だ。肉を斬る感触も、血の生
温かさも、急に言うこときかなくなる自分
も、ぜんぶ、心底、気色悪い』
あの子が目を冷まして、今の自分を見たら、なんと言うだろう。
いつも感情のみえない仏頂面だったけれど…。
怒るだろうか。悲しむだろうか。気持ち悪いと思うだろうか。考え出すとおぞましくて、震えが止まらない。
『……仕方のないコですわね』
その時、ふぅ、と後頭部に吹き付けられる暖かい風。その暖かさが広がって、全身を覆っていく。
『えっ……?は?』
少女が驚いて顔をあげる頃には、少女の体を蝕んでいた毒はなりを潜め、綺麗さっぱり消え失せていた。震えが止まり、喉に潤いが戻ってくる。
『悪魔というのは気まぐれなものでしてよ。
でも、今回だけですわよ?』
信じられない思いで見上げると、悪魔の手が少女の髪に触れた。
前髪の隙間に薄紫の斑紋が入った、不思議なかたちの白い花が差し込まれる。動いてはいけない気がして体を強張らせていると、生きた花飾りをつけ終わった悪魔は満足げに微笑んだ。
『あぁ。やっぱりよく似合う!コウテイダリ
アも合いそうですけど、意味的にはこっち
の方がいいですわね』
どういう意味だよそれ、少女は訝しげに口を曲げる。
と、いうか。
『…お前って、そんな毒々しくない笑い方、
できたのか』
『あら、毒々しい微笑みをご所望で?』
『いらねーし。つぅかコレ、なんの花だ?
見たことねぇし、へんな模様だ』
『変とは失礼な。オドントグロッサムですわ
日本では栽培が難しいレアなものですよ』
思わず首を傾げた。花はよく分からない。少女は頭髪の隙間から咲く花びらにこわごわと触れた。
みずみずしくて、柔らかい、生きてる感触がした。
『あら、血が出てる』
強く噛みすぎて出血したらしい口元を、悪魔の細い指先が妙に優しい手つきで拭う。近くに寄せられた悪魔の顔をぼんやりと見上げていると、少女の視線に気付いた悪魔にニッコリと微笑みかけられた。•••本当に何のつもりなんだか分からない。
気分は沈んだままなのに気が抜けて、少女は背中と後頭部を後ろの壁にゴツンとつけ、息を吐きながら目を閉じた。
『誰にも、どうにもできないことなんて、
この世には無数にあるものですわ』
少女の髪を弄りながら言った悪魔の言葉に、少女はすぐに瞼を開く。
さっきの少女の弱音のことらしいが、まさかまともな反応を返してくるとは。今夜は珍しいことのオンパレードだ。
『わたくしだって悪魔ですけれど、ものすご
く欲しいと思ったモノが手に入らなくて、
死ぬほど歯痒い思いをしたことがありまし
てよ。悪魔ですらそんな始末だというのに
あなたごときが不条理を変えられるワケな
いでしょう』
『…お前の、死ぬほど欲しいモノって、
なんなんだよ』
何の気なしに聞くと、悪魔は面白かったのか、眉を寄せるような変な笑みを浮かべた。こんな笑い方をするのも珍しい。
『水をあげても咲かなくて、どんな土も合わ
なくて、弱いくせにしぶとく枯れない、醜
いトゲだらけの花ですわ』
『なんだそりゃ。
そんなもんが欲しいのかよ?』
『わたくしが絶対的な価値を感じられるのは
それだけですの。
花のくせに悪魔の手に渡ってくれないなん
て、酷いですわよね』
不思議そうな顔をする少女を見下ろして、悪魔は人工の明かりを背にくるりくるりと回った。
『そういう理不尽に出くわしたらね、思いっ
きり笑ってやるんですのよ。馬鹿にするつ
もりでね。こっちはその程度楽しめちゃう
ぞって感じでね。それが出来れば、もしか
したら悪魔のような神経の図太さを手に入
れられるかもしれなくてよ?』
『…うわぁ、いらねー』
少女が思わず苦笑いすると、悪魔は目元を歪めて笑った。
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