強く、やさしい、素直な君へ

矢田箍史

第1話


 透き通った寒い朝、物音ひとつ聞こえない林に、赤ん坊の声だけが鳴り響いていた。誰にもとどかないであろうその声は、激しく、ただ激しく響いていた。坂を急激に上り詰め、そして、ゆっくり降りてゆくように、声は大きくなり、そして、だんだんと小さくなっていった。最後の一歩を飛び降りるように大きく泣いて、止んだ。林には再び静寂が戻り、何事もなかったように、また時が静かに流れ始めた。竹前和尚は旧年からの山篭りの行を終え、寺に帰ろうとしていた。クシャミでハナをすすり、重い足取りながらも、神経は過敏になっている様子だ。ふと何かに、気づき、気配を伺うと、急に走り出した。また、足を止め、耳を澄ました。その時、はっきりと「ぎゃー」という赤ん坊の声を聞いた。それからの和尚は、一心不乱に走った。

 まるで、転がるように走った。自分の体など自分のもので無いように。和尚が住む寺にたどり着いた時、先ほどまで手に持っていた荷物はなにも無くなっていた。

赤ん坊の泣き声はもう聞こえなかった。しかし、和尚はそれがわかっているかのように、母屋に向かった。玄関先には藤のかごが置かれていた。物音ひとつせず、ただ、ひっそりとそれは置かれていたた。

駆け寄り中を覗き込むと、毛布に包まれた赤ん坊がいた。和尚は言葉にならぬ声を上げ、抱き寄せる。 顔をさすり、息とぬくもりを確かめようとする。体は冷たく、息をしているかもわからない。顔に生気はない。

 赤ん坊を抱いたまま、玄関を蹴破るように中に入り、寝室に飛び込んだ。押入れに片手を突っ込み布団と毛布を引っ張り出す。広げた布団の上に毛布を敷き、赤ん坊を寝かす。台所に行き、棚上の重なった鍋をひっくり返しながら、一番大きな鍋に水を入れ、ガスコンロに火を付けた。そして、寝室に戻ると、紫色の動かぬ赤ん坊に生気を吹き込もうと努力した。上体を起こし、背中をさすり、顔を撫で、唇に触れ、息を吹きかける。なんとか、目を覚まさせようと、いろいろ試してみるが、赤ん坊の目は開かない。

「おい、あの世なんかに行くな、こっちだ、こっちに来い。俺のところに来い」赤ん坊に、そして向こうで呼んでいるものに断るように。

 抱いたまま、台所に行き、沸騰した大鍋の火を止め、卓袱台に赤ん坊を置く、急いで風呂場からタライを持ってくると、湯を入れ、水を注ぐ。あせっているため、大量にこぼす。手を突っ込みかき回し、湯加減をみる。赤ん坊を毛布から出し、産着を脱がせると、丁寧に頭をささえ、ゆっくりとお湯につけた。大きく無骨な手で、柔らかな体をさすりはじめた。まず背中を、そして胸、腹、足、腕とさすり、手を軽くにぎりしめた。

「どうだ、あたたかいだろ、気持ちいいだろう。さあ、こっちに来い、おじさんと話そう」そう言って胸にお湯を少しかけたとき、赤ん坊の手がピクリと動き、軽い吐息を出した。そして「おぎゃーおぎゃー」といきなり泣き始めた。

 和尚は喜んだ。濡れた赤ん坊を上にかざし、お湯がたれるのも構わず、御輿のように揺らした。赤ん坊は堰を切ったように泣き始めた。

「おお、そうかそうか、元気だな、こっちに来たんだな」あやしながら、バスタオルに包んだ。


 壁には、日常、よく使う電話番号が貼ってある。日比野医院の電話番号を確かめ声に出して押す。

「あっ、もしもし、日比野先生ですか、どうも竹田です。急にすみません」

「はい、実は助けてほしくて、今、赤ん坊がいるんです。いや、犬の子じゃない人間のです。人間の」

「どこのって、わからない、家の前にいたんです。なんでってとにかくいたんです。ああ、電話じゃだめだ、すぐにうちに来てくれませんか。診てもらいたいんです。お願いします。はい、お待ちしています」

 二人は赤ん坊を挟んで話していた。

「まだ生まれて、一月経っていないな、いったいどこの子だ、親は誰だ。お和尚、心当たりはないのか、身に覚えがあるんじゃないだろうな」と日比野先生は赤ん坊の顔と和尚の顔を見比べながら真顔で聞いた。

「馬鹿なこと言わんでください、わしにそんな甲斐性があるわけないでしょう」和尚も真顔で否定した。

「ははは、冗談だよ、そんなにむきになることはない、そんなことがあったら本当ににうれしいがな。しかし、この子は誰じゃろう.何か手ががりになるものは、なかったのかい」

「少しの産着と上掛け、それに哺乳瓶にミルクが少し、あっそうだ、お守りが入っていました。浅草寺のお守りが」赤ん坊の顔を撫でながら和尚が答えた。

「浅草寺のお守り、東京の浅草か、しかし、置いて行くなら、この子を頼みますの手紙ぐらい入れてもいいものだがなあ」腕を組む日比野。

「もしかして、この子のおっか


さん、ここにおいてゆく気はなかったのか、」ふっと険しい顔になり、日比野は立ち上がり電話に寄った。

「佐々君に電話してみよう、何か情報が入っているかもしれない」手帳を出すと、数字を読みながらダイヤルを回す。

「おお、佐々君,実はな、急ぎの用が、なんだい急に、えっ、わしを探していた、どうした、うん、うん、で、身元は」

それから、日比野は黙って相手の話を聞いていた。

「わかったよ、こちらの急用も終わった、ああ、いいんだ。ありがとう、急ぎそちらに戻る。じゃあ、後で」日比野は静かに電話を置くと、眉をしかめ、低い声で話しかけた。

『清廉の滝で若い女性の死体があがった、靴も揃えて置いてあったそうだ。事故などではなく、身投げだろう。状況から多分その子のおっかさんじゃないだろうか。しかし、またなんで』目を落として考え込むように、一点を見つめた。

 和尚は落ち着き無く、歩き回り、耐えきれなくなり、日比野に問い詰めるように聞いた。

「本当ですか、この子の、母さんですか、誰だかわかったんですか」

「残念ながら身元がわかるものは、無かったらしい、これからわしも行って立ち会う、何かわかれば、連絡する。この子は大丈夫だ、もう、命にかかわることは無いと思う。しかし、もう少し放っておかれたら駄目だったろう。生命力の強い子だ。救急車を回してもらい、市の病院に連れて行ってもらおう。いろいろな事はその後だ」日比野は診察鞄を抱えると急ぎ足で出て行こうとした。

『先生、ありがとうございました。また、よろしくお願いいたます』和尚は玄関の靴を直しながら言った。

『和尚、またって、こんなことはもう無いよ。じゃあ』日比野は微笑みながら、早足で車に乗り込むと、車を発進させた。


 村役場にある村長室で、和尚、日比野医院長、常田小学校校長、そしてこの部屋の主である須藤村長が話し込んでいた。

「村長、女の人の身元はわかったのかい」日比野医院長がタバコに火をつけながら聞いた。

「いや、わからない、県警から照会もかけてもらっているが、今のところ該当無しだ、身元がわかるものが何もない。遺留品は浅草寺のお守りだけだ」」

「ああそれ、置き去りにされた赤ん坊も持っていたんだろう」たばこの煙を手で払いながら常田が話しかけた。

「ええっ」下を向いていた、和尚が口を開いた。

「間違いないな、その子のお母さんは」常田がうなずきながら言った。

「その子は今どうしているの」

「今,市立病院にいる、大丈夫、元気だよ」日比野が次のタバコに火をつけようとしながら言う。

「おまえ、タバコ吸いすぎだよ、医者のくせに」

「いいんだ、この年になったらストレス溜めるより、吸った方が精神衛生上良い。おまえこそ、我慢は体に悪いぞ、俺はおまえにタバコ教わったんだ、中学のころからだろう」

「しょうがないんだよ、ほかの先生の手前、それに子供たちに悪影響与えても困るし、お願いだから、俺の横で吸わないで」常田の哀願に日比野はタバコをもみ消した。

「その子はどうなるんだい」常田が村長に聞いた。

「親が見つからなれば病院から施設だよ、きちんと手続きを踏んで、戸籍を作り、生きていく道筋をつけてあげなければならない、社会の決め事だよ」

 その時、和尚は立ち上がり、強い口調で言った。「だから村長、電話でもお願いしたとおり、私があの子を引き取ります。私の養子にして育てます」

「馬鹿なことを言うんじゃない。子犬や子猫と違うんだ、結婚もしていない和尚がどうやって子供を育てると言うんだ。冗談も休み休み言え」村長は怒るように言った。

「冗談なんかじゃない、私があの子を立派に育ててみせます」

「育てるって、軽はずみなことを言うんじゃない。子供を育てるのは大変なことだ。自分の子だってえらく苦労するのに、ましてや、何の縁もない捨て子を育てるなんて」常田が諭すように言った。

「あの子は捨て子なんかじゃない、お母さんが俺に託していった.だから俺が預かります」

「和尚、無理だ、子供どころか嫁さんだって、もらってないじゃないか。だめだよ。」日比野が言う。

「よ、嫁さん?大きなお世話です。俺はあの子を育てたいんです。親になれなくたっていい。あの子の面倒を見る」

「勘弁してくれ、そんなことはできないよ。和尚も子供も不幸になる。あとできっと後悔するよ、なあ、考え直してくれよ」哀願するように村長。

「後悔などしない、ここで止めたら、それこそ一生の後悔だ。あの子には俺が必要です。そう、俺にもあの子が必要だ、育てる、それが仏のみちびきだ。協力してくれないなら、一生祟ってやる。坊主の祟りは恐ろしいですよ」和尚は3人を睨みつけた。三人はため息とともに押し黙ってしまった。その沈黙を押し切るように、和尚は神妙に話だした。

「なあ、お願いです。協力してください。この子を育てさせて、どうか、どうか頼みます」和尚は土下座して、頭を床に何度もこすりつけた。

3人とも、肩を下げ、頭を下ろし目を閉じていた、役場の終了を知らせるチャイムが鳴った。

村長が知り合いの弁護士を訪ねたのは翌日の午後だった。

 

和尚は村一番の大婆場、梅さんの家にいた。

赤ん坊を湯につけながら、和尚が聞く「梅さん、こんな感じでいいんですか、これで大丈夫」

「だめだよ、そんな、おっかなびっくりじゃ、危なくて見ていられないよ、肩の力をぬいて、ほら、しっかりおし」と赤ん坊を受け取りながら、造作なく、背中をぴしゃりとやった。

「いてっ、」「いてっ、じゃない。だめなお父ちゃんだね、満足にお風呂も入れてくれないよ」と赤ん坊をやさしく湯につけながら頭を撫でた。

「お、お父ちゃん、お、俺ですか」とあわてて聞き返した。

「他に、誰がおるんじゃ、この子の面倒みるのはあんたしかおらんじゃろ」

「うん、そうだ、俺が父ちゃんです」とつぶやきながら、照れて、すぐに話を移そうとした。

「しかし、梅さん、すごいな。どっしりと構えて、その華奢な腕が、俺には丸太のように見えます。さすがに、子八人、孫二十八人、曾孫8人を育ててきた大母ちゃんだ」

「もうすぐ、非曾孫だよ」

「ええっ、本当に、そりゃすごい、おめでとうございます、誰に」

「東京に行ってる、博之、幸三の息子だよ」細い腕は動きを止めずに丁寧に赤ん坊をお湯につける。

「幸三さんとこの、顔が浮かばないけど、いくつでしたっけ」

「二十歳だ、まだ、結婚もしてねえのに、先に子供だ」

「あっ、ひゃー、幸三さんも心配だね」

「怒りまくって、東京行ったよ、堕ろさせるだ、別れさせるだって、すごい剣幕で、でも、子どもにゃ罪はねえ、宝だよ。なあ、坊、こんなにかわいいもんなあ、気持ちよくて眠くなったか」とお湯からだし、用意してあったバスタオルに包んで拭く。手際よく、産着に着替えさせると布団に寝かせた。

「でっ、どうしました」 

「幸三、博之の顔がひん曲がるほど殴ってから、相手の親御さんのとこ連れてって、二人して土下座して謝って、籍入れて,産んでもらうこと、認めてもらったって、親御さん博之の腫れた顔見て、びっくりしたらしいよ」

「ああっ、幸三さんらしいな」思わず苦笑する。

「うちゃまだいいよ、生まれてくる子にゃ母ちゃんいるし、それより和尚さんどうするだね、この子の面倒、なんでこんなことしたんだね」和尚は最初黙っていたが、胸の中を打ち明けるように話しだした。

「どうしても、預かりたかった。この子の母ちゃんは俺に託していった、安置所でこの子の母ちゃんに、坊主として面会している。その時「頼みます」って言われた気がした。そして約束した。この子を預かるって。」真剣なまなざしで赤ん坊を見つめていた。

「ばか者が、でもやっぱり和尚さんだ。大丈夫、子どもはスクスク育つ。このやさしいお父ちゃんがついているんだもの、いい子になるよ、間違いないさ、がんばって」

「梅さん、ありがとう。いろいろ教えてください」

「もちろん、困ったことがあったらいつでも来な。そう言えば、名前は決まったのかい」

「はい、健史です。健やかに自分の歴史をつくって行ってもらいたいので、画数も良かったんです」

「健史ちゃんかいい名前だね、男の子らしくて。たけちゃん良かったね、いいお父ちゃんができて」言いながらやさしく頬を突っついた。

「あっそう、幸江が先々月産んだじゃろ、あの娘は体丈夫だし、お乳も多いから健史ちゃんもらい乳しな。こどもは絶対母乳飲ましとったほうがいい、抵抗力がつく。なっ、連絡しとくから、毎日大変だったら、曜日決めていけばいい」

「えっ、そんな幸江さん大丈夫ですか、聞きもしないで」

「何の、あの娘はばあちゃん子で,気性もようわかっとる。こういうことなら喜んでするよ。心配いらん、そうしな」ニコニコ顔でそう言った。

「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」」和尚は深々と頭をさげた。健史は気持ちよさそうに眠り、時々、寝返っていた。二人はそれを飽きることなくみつめていた。


 舗装されていない砂利道を、バイクは走ってゆく。背中にはオンブひもで括られた健史がいる。雲雀の鳴き声につられてか、空を見上げて声を出している。

 ねぎの香りを抜け、せせらぎの音を渡り、でこぼこ道ではバイクを降りて押しながら進んでゆく。

 途中人に会うことは少ないが、虫や鳥や小動物には出くわす。

 二十分ほど走ったころ、松林が見えてくる。そこを右に曲がり、門番がわりの大きな二本の桜の木を抜け、まるで校舎のような平屋立ての大きな家の前でバイクを止める。排気音でニワトリやヤギ、犬たちが家人に来客を伝えるように騒ぎ立てる。

 和尚は、エンジンを切ると、背中の健史の位置を確かめまっすぐに直した。

縁側に向けて大きな声で、「こんにちは、竹田です」と言うが早いか、色の黒い、がっちりした女性が笑顔で飛び出てきた。

「和尚さん、いらっしゃい。ご苦労様、さあ、どうぞ」と玄関にまわり招き入れる。

「すみません、いつも、やっかいになります。どうですか、みっちゃんは」

「元気よ、今、オッパイ飲んで寝たとこ、、でもね、昼寝過ぎると、夜泣きがひどくてこっちが寝不足よ」

「ハハッ、わかるよ、つらいよね、夜泣きはほんと、憎らしくなる」

「健史ちゃんの体調はどうなの」幸江は顔を覗き込みながら聞いた。

「はい、おかげさまで体重も増えて、首もしっかりとしてきました」

 幸子は先に立って廊下を歩くと、縁側続きの陽あたりのよい部屋に二人を案内した。

 和尚に座布団を勧め、目の前にこども布団を敷いた。

「さあ、健史ちゃんどうぞ」その言葉に和尚は健史を背中からおろし、布団に寝かせるとその横に座った。

幸子は健史を抱えると、トレーナーをまくりあげ、ブラジャーを上にずらした。健史の顔を乳房につけた。健史はその感触に反応し、口を動かし始めた。そして乳首を探しあてると、まるで機械仕掛けのように吸い付き一定のリズムでお乳を飲み始めた。和尚はその様をまばたきもせずに見ていた。

「やだよ、和尚さんそんなに見つめたら、恥ずかしくて出るもんも出なくなってしまうよ」

 和尚はびっくりして、目を伏せ、顔はみるみる真っ赤になった。

「いや、そんな、健史があんまり夢中なんで、つい,見とれてしまって、すみません」おどおどと下を向いてうろたえた。

「ははっ、冗談だよ。和尚さん顔を赤くして、かわいいね」顔を覗き込みながら笑った。

「はははっ、いやぁ」頭を掻きながら愛想笑いを返した。

 健史は母乳を夢中で吸い続け満足したのか、口は止まっていた。幸江は健史を起こし、

自分の肩のところに頭をつけさせると、軽く背中を叩く。軽いゲップ音を確かめると、

「はい、おりこうさん」と健史を再び寝かせた。乳房をしまい、身づくろいを済ませた時、まるで、隠れていたかのように、襖の陰から女の子が飛び出してきた。

 顔を、幸江のしまいかけた胸にうずめ体を揺する。

「奈緒、どうした」女の子はなにも言わずに顔をこすりつける。

「奈緒ちゃんはおかあさんが、恋しくなったのかな」和尚が語りかける。

「ほら、奈緒はもう、おねえちゃんだろ、みっともないよ」離そうとする幸江の手を避けてひざの上にちょこんと座り込んだ。

「さて、そろそろ失礼しようかな、健史も十分満足したようだし、幸江さんありがとございました」

「あら、もう、ごめんなさいね、なにもお構いもしませんで」

「とんでもない、健史のためにすみません。奈緒ちゃんごめんね。おじさんたち帰るからお母さんに存分に甘えてね」手際よく荷物をまとめると健史を背負った。

幸江は奈緒を抱っこして、二人を送りに出た。

「また、あさって、来てくださいね。あっそうそう、何か健史ちゃんのことで何かわからないことあったらいつでも電話ください」

「心強いです。わからない事だらけで、あっ、ここで結構です。じゃあね」玄関口に降りると、奈緒の頭を撫でて、手を振った。奈緒も手を振った

 外に出て少し歩くと、母子が戯れるやさしくてあたたかい声が聞こえた。バイクに跨り、エンジンをかける。健史を背負い直しながら、ひとりごとのように声をかけた。「母ちゃん恋しいか」健史はただ、おとなしく空を見上げていた。


 村のほぼ中央に役場があり、その隣に小学校と中学校が並んでいた。役場の前には広大な敷地を使って村民公園と公民館が併設されている。

数種類の桜と多種の針葉樹が植えられている。中央広場には屋根付の大きな盆踊りステージが常設されていた。ここは村民の憩いの場所であり、数少ない娯楽施設であった。

 村民の生活を支える大切な店が中心地をとり囲むように集まっていた。桜木医院もそのひとつである。

和尚は健史の定期診断で、桜木医院にいた。

「先生、健史の夜泣きがひどくて、どこか悪いのでしょうか」

「大丈夫だよ、健史くんは元気に育っている。多少の夜泣きはどんな子でもある。子供は泣くのが仕事だよ」話しながらも目、舌、首筋、お腹、と丹念に触診を繰り返していた。

「うん、大丈夫だ、異常なし。ただちょっとお尻がかぶれている。軟膏を出しておこう。日に3回くらい、清潔にして塗りこんであげて風呂上りとかいいね」

「はい、わかりました」

「しかし、和尚はがんばるね。だけど、子ども育てるのはたいへんだろう」

「いやぁ、こんなに大変だとは思いませんでした、よく聞く話ですけど、親の大変さとありがたさがでよくわかりましたよ」

「はははっ、そうだろう、みんなそうして育ててもらったんだ、でも和尚無理せんでな、もう一人の体じゃないんだ、充分自愛なさいよ」

「はあ、ありがとうございます。でもやっぱりこいつが心配です。こいつが大丈夫なら、私は平気です」

「和尚らしいな、おおうそうだ。ビタミン剤一本打っとこう、疲れ取れるぞ」言うが早いか、腕まくりをすると、薬を注射器に入れさっさと注射の針を左手に打ち込んでしまった。


 和尚は慣れた手つきでオムツを取り替えている。片手で腰を浮かせ、一方の手で便の突いた紙おむつを丸める。「ありゃ、ウンチが付いちゃった、でも健史のだと全然汚いと思えないよ、ホレ、もったないから舐めちゃった。」鼻歌を歌いながらおどけて健史をあやした。健史はケタケタと笑い返した。

 ベビーオイルを染み込ませたガーゼで軽く拭きおえると、覗き込みながら、手で肌の状態を確かめる。赤くなった部分を見つけると、桜木医院でもらった軟膏を塗り、ガーゼで軽く叩くように、やさしく押さえてゆく。

「やっぱり少し荒れえてるなあ、痛くないか」健史はお礼の言葉を返したいかのように「あー」と声を出して和尚を見る。その言葉にうなずくと、「お・し・ま・い」と軽くお尻を叩いて抱っこした。

「さて、健史出かけるか」と自分にいい聞かせて準備を始める。素っ裸になり、ふんどしから着ける、普段は普通の白いパンツを穿いているが、独経のお勤めに出るときはふんどしにして気分を引き締める。下着を着て白装束、そして、袈裟を着ける。健史にも紺の絣の外着を着せる。背中から頭を守る頭巾をかぶせ、オンブひもで背中に括る。

「さあ、行こう」両手で顔をパンパンと張ると、草履に足を通し、戸を開け外に出た。

この村で出かけるときに家に鍵を掛けるものは誰もいない。和尚も例外ではない。

袈裟をまくって、愛車の桜花号に跨るとキーまわした。桜花号は静かに稼動してゆっくりと進み始めた。


 寺の朝は早い、四季を通して四時半には起き、朝食準備の七時前には最低限の日課としている体操、独経、写経の修行を終わらせる。これを朝飯前に終わらせることが決まりごとで、生活のリズムとなる。健史が来てからも基本的には変わっていない。ただ健史の世話が加わっただけである。

 決まった時間に目が覚める。健史に2時間ほど前にミルクを与えたばかりだが、やはり目は覚める。隣で寝ている健史の様子を見てから、背伸びをして飛び起きる。ジャージに着替え、さっと洗面を済ませると本堂に移る

 本堂は、母屋の隣に立てられたプレハブ作りの質素な離れである。但し、いろいろな行事が行えるよう床は頑丈な板張りで、広さは五十畳ほどもある。ここでの体操から一日が始まる。

 軽い柔軟体操から腕力、腹筋、背筋、脚力を鍛える運動を各二十回から五十回ずつ、三セット少しの休みを入れてこなしてゆく。やる運動は工夫して変えてゆく。三分間の縄跳びを2回行う。テキパキとリズムを保って行っていくので、時間は三十分ほどで終わる。汗を拭い、息を整える。

 本堂の奥にある、仏壇の前で、床に直接正座する。目を閉じ黙想を始める。三十秒ほどのタイミングで目を開けると、完全に独経の世界に入り込む。自分の所作を意識するように、独本を拡げ、バチを準備する。

 独経が始まると、それは瞑想の世界になる。お経は考えることなく口から自然に発せられ、耳に音として届く、音に反応するように、思い描くイメージが脳・心に広がり自分の世界に浸りこんでゆく、和尚にとってのお経は、まるでジャズ演奏家のアドリブのように、心地よい自分空間だった。お経ほど自分を空っぽに満たしてくれるものは無かった。しかし、ここ最近どうしても、寝室で一人で寝ている健史のことが気になり、集中ができなくなっていた。

そこで、健史を本堂に連れてきてお経を読む時は隣に寝かせるようにした。

 最初はお経の声に驚き、泣き出したが、何回か続けるうちに、慣れたようで、和尚の声に反応して、笑いかけるようになってきた。また、木魚のリズムに「あーあー」とまるで歌っているかのように声をだすこともあった。

 この独経が終わると、最後に写経を始める。大学ノートに経を書き写してゆく。筆は筆ペンを使う。口に出して、意味を考えながら書き写してゆく。

和尚にとってのお経は生活の一部、食べることや、寝ることと一緒である。そして、この修行が好きである。三十年以上に渡って続けてきたのに、飽きないのである。そして今までひとりで続けてきた習慣に、健史が加わった。それはまるで同志を得たような新しい喜びであり、健史と自分が、言葉どおり「身内」なのだと思えることだった。

 一連の修行を終えるのは時間にして一時間と少し。健史を連れて暮らしの母屋に戻り朝食の準備にかかる。まず、健史のミルク。さすがに、手馴れてきた。市販の粉ミルクから、適量、適温のミルクを作り出す。健史はそれがわかるかのように、おとなしく待っている。

 ゆっくり、健史の表情を楽しみながら与える。満足顔の健史のゲップまで済ませ、ふとんに寝かせる。

 自分の朝食にとりかかる。米櫃から五合の米を出し、小気味の良い音を立て、米を研ぎ、電器釜のスイッチを入れる。冷蔵庫に保存している、昆布と削り節から作っただし汁を冷蔵庫から一杯分小鍋に移し、戻しておいたわかめを放り込み味噌を入れる。前の晩につけておいたきゅうりと大根を糠から出し、サッと洗い、大きく切って小皿に盛る。炊事は修行以上に年季が入っており、素材選びから、調理、後片付けまで無駄の無い方法が身についている。

 もっとも、材料は吟味などしなくても、旬の野菜、手作り味噌、産みたての卵等、すべて村の衆からのもらいもので賄える。それらを食す時、そのうまさと有難さに、幸福感と感謝の念が胃袋に沁みこむ。

 「ありがとうございます。いただきます。」和尚はおいしそうによく食べる。茶碗に米一粒、糠付けの一切れも残さない。最後に茶碗に白湯を注ぎ飲み干して朝食を終える。

「ごちそうさまでした。ありがとうございました」と手を合わせ頭を下げる


 和尚は健史を育て始めてから、一度も他人に預けていない。当然、用事で外に出るときは健史をおんぶして連れてゆく。

 村の衆のなかでも、和尚の事情がわかっているので、「健史ちゃん預かろか」といってくれるおかみさんもいるのだが、「まだ、俺が駄目だ」と何だかわからないことを言い、手離さない。

 檀家の法要などに連れて行く訳にも行かず、和尚は事前に電話を入れて断っていた。しかし、熱烈な和尚ファンの村人は、収入のことなど心配して、ぜひ、和尚に来てほしいと頼み込んだ。「健史ちゃんを連れてきても構わないから」と言ってくれるうちもあった。

 最初はていねいに断っていたが、ついに断りきれずに斉藤さんのおじいちゃんの一周忌に行くこととなった。

 法要の当日、いつもと変わらぬ修行を行い、朝飯を済ませる。朝風呂で自分と健史の体を洗い、少し伸びた髭を丁寧に剃った。洗い立ての僧侶服と袈裟を身につける。顔面を両手で叩き、気合を入れると健史を背負った。健史はおとなしくおぶさっていた。

 斉藤さんの家は寺からバイクで十分ほどのところにあり、村では一番の近所である。

 晴天のなかバイクを走らせた。すがすがしい風が二人に当たる。やがて、斉藤さんの広い敷地に入ってきた。そこには車が十台ほども止まっていた。車の隙をぬって母屋の近くにバイクを止める。

 和尚を見つけて中年の男性が声をかける。中村さんだ。

「おおっ和尚、今日は、健史ちゃんと一緒か、元気かい」

「ええ、おかげさまでいつもすみません。気にかけてもらって、この間いただいてきたベビー用品助かっています」

「良かった。役にたてて、和尚さんは人が困った時は飛んで助けに来てくれるのに、自分の時は黙っちゃて、水くさいよ、村のみんな和尚さんの力になりたいのに」陽に焼けた穏和な顔がのぞき込む。

「あ、ありがとうございます」和尚は恥ずかしそうに微笑む。

「また、遊びにおいでよ、健史ちゃん連れて」 「はい」2人は軽く会釈をして別れた。

 そのあとも、何人も和尚に声をかける村人は続いた。皆それぞれ和尚と健史を心配していた。

 五十畳ほどの大広間に斉藤家親族と村の世話約が集結していた。ほとんどが互いに知った顔である。和尚が中に入って行くと、皆が笑顔を向けた。その中で、列の前に座っていた丸顔の見るからに気立ての良さそうな女性があわてて立ち上がり、和尚に近寄った。

「和尚さんごめんね、無理言って、健史ちゃん連れて大変だったでしょう」

「いえ、いえ」

「ほら、おじいちゃん、和尚さんびいきだったでしょ、亡くなる前からずっと言ってたの、俺へのお経は和尚さん以外聞かないって。死んじゃって聞く聞かないもないけど」

「本当に、おじいちゃんにはかわいがってもらいました。よくその縁側で酒をごちそうになりました。なんか昨日のことのような、今でもそこにおじいちゃんが座っていて、笑ってくれるような気がします」和尚は気配を感じとるように目を閉じた。その言葉に頷き、女性は目を潤ませた。

「おーい、由美、そろそろ健史ちゃんを奥の部屋で寝かしてやれ」女性の旦那でこの法要の主である斉藤さんが近寄ってくる。

「ごめんなさい、疲れたでしょう。健史ちゃんも楽になろうね」

由美は和尚の後ろにまわり、健史を背中から降ろそうとした。しかし、由美の手が触れるや泣き出した。

「あらあらご機嫌がわるいのかしら」しきりにあやすがおさまるどころか顔を真っ赤にして泣き出す。由美は困り果て、和尚もどうしてよいのかわからず、汗をかくばかりである。

 見かねた近くのベテランかあさんたち、何十年と子供や孫たちを育てたであろう強者さんたちが十八番の技でご機嫌を取ろうとする。が、皆、見事に打ち破られる。ただ一つ和尚の背中だけが許された場所として平穏を得る。無理矢理連れて行こうとすると、獣のような叫びをあげる。それを聞くとまた、和尚は居ても立ってもいられない。そんな状態がしばらく続き、周りの我慢が限界に近づいた時。和尚は意を決したように、健史を背負ったままその場に土下座した。「お集まりの皆さん、斉藤さん申し訳ない。大切な、おじいちゃんの1周忌をこんな状態にしてしまって、この子の躾は私の責任です」そう言うと額を床にすりつけた。

「おい、おい、和尚、躾の責任ってオーバーじゃないか」そんな声が村人の中から届く。「そうだよ、たかが赤ん坊が泣いているだけじゃ」また届く。

「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります。実は甘えついでにお願いがあります。こいつを背負ったまま読経させてください」

「無理だよ、泣いている子を背負ってお経を読むなんて、こんなに泣いているのに」村人ではない、親戚筋の神経質そうな中年男性が迷惑そうに答える。

「私は大丈夫はです、集中できます。健史も大丈夫です。この子にはお経は子守歌代わりです。きっと静かになります。この子はお経が大好きなんです」和尚は真剣に話す。

「ばかな、お経好きの赤ん坊なんて」神経質そうな中年男性が刺々しい見下した物言いで答える。

「本当です。いつも私のお経を聞いているんで、安心するんです」和尚は生真面目に答えた。

「いいかげんんしろ、あんた坊主だろ真面目にやれ、神聖な場所に赤ん坊なんか連れてきてどう責任を取るつもりだ」男は詰め寄る。和尚は頭を下げる。

「そんな言い方はないだろう」養鶏場の喜多じいが声を荒げて男に食ってかかる。

「和尚さんは不真面目ではない、嘘をつく男でもないそれは村の誰もが知っている」田中さんも追随して発言する。

「そうだ、事情も知らないで」村の住人は一様に皆、頷く。想いはひとつ。

「事情?」男が問いただそうとした時、和尚がまた謝る。

「すみません、本当に申し訳ありません」深々と頭を下げた。

その時、主の斉藤さんが和尚の隣にきて一緒に頭を下げた。

「お集まりの皆さん、いろいろ心配させてしまってすみません。喪主としてお詫び申し上げます。ただ、斉藤繁男の息子としてひとつだけ言わせてもらえれば、親父はこの和尚に全幅の信頼をよせていました。もしこの場にいれば、自分の一周忌にいるわけはないですが、でも、まちがいなくやりたいようにやらせたはずです。私にはそれがわかります。ですから、その意志を尊重して、和尚にやってもらいます。それが供養です」そう言い終わると、和尚を見てニコッと笑った。

「さあ、始めましょう」斉藤さんのその一言に村人たちは一斉に沸いた。

「いいぞ、斉藤家。それでこそじっちゃんの倅だ」

 和尚の目は潤んでいた。しかし、まわりからの「和尚」「和尚」の声に答えるように、立ち上がると服装を整え、姿勢を正し、健史を背負い直す。そして静かに仏壇の前に正座した。

 自分のペースを整えるように木魚を直し、仏壇に一礼すると読経を始める。当然のことながら皆の視線は背中の健史に集まった。当の健史は周りの人の気配に反応して興奮していたが、和尚の読経が始まると、明らかにその声に聞き入るようになり、おとなしくなった。

「ほう、今日の和尚は気合いが入っているね、とても深い良い声じゃ、腹に響くは」松林の婆さまが竹林の婆さまに話しかける。

「本当にいつも素敵な声ですけど、また今日は特別ね」

「坊もさっきの騒ぎがうそのようじゃ」

「ええ、和尚さんの言ってたとおりね」二人は小声で囁きあった。

 やがて、健史は静かに眠ってしまった。和尚は振りかえらなくてもそれがわかるのだろうか、お経の響きが変わった。

約三十分分の読経が終わった時、始まる前の喧噪と不安など、こっぱ微塵に吹き飛んでいた。そこにはただ、一生懸命な和尚と安心しきった健史が在った。村人も事情を知らない親戚筋も二人の絆を信じた。

 焼香が始まると和尚は立ち上がり、健史を背中から降ろした。顔をのぞき込み「健史いい子だったな」と頭を撫でる。目を覚ますが泣かない。そのまま由美さんが奥に用意してくれた布団に寝かせる。和尚がその場を離れようとしても泣く気配もない。和尚は一息つくと、皆が焼香している仏壇の横に正座して、見守った。

 焼香が終わると、仏前に一礼して皆の正面に向き、話し始めた。「皆さんお疲れ様でた。また、ご迷惑おかけして申し訳ございませんでした。慎んでお詫び申し上げます。想えば私はずっと故人に世話をかけていました。恩返しの一つもできなかったことを後悔していました。そしてまた、やってしまいました。この世だけでは足りず、あの世まで迷惑をかけてしまいました。でも、じっちゃんがあの暖かい目で見守ってくれました。「ばかだなお前って」励ましてくれた気がします。法要は故人を忍び弔う行事ですが、同時に故人を想いだし、この世の私たちが励まされることなのだと実感しています。

斉藤さんのじっちゃんが亡くなり、もう一年が経ちました。皆さんには故人との思い出がそれぞれあると思います。そして、今、もし斉藤さんのじっちゃんがいればすぐにでも相談したいでしょう。どうぞ、皆さんのイメージにあるじっちゃんに話しかけてください。なにか、心の奥から包んでくれるものがあると思います。嬉しいこと、辛いこと、悲しいこと、すべてを含んで、生きている今への感謝が湧いてくると思います。今日、故人を偲び、そして、私たちも癒され、また、明日からの頑張りの糧にいたしましょう。過去も、現在も、未来もすべてひとつです。大丈夫です、斉藤のじっちゃんは見守ってくれてます。今日は本当にありがとうございました」

 和尚は深くお辞儀をした。静かにそして、力強く拍手が起こった。その拍手に驚いたように照れて笑った。皆の視線のなか、和尚は立ち上がり健史を寝かしつけてある奥の部屋に急いで向かう。その時ほとんどの者が、和尚の背中にしっかりと描かれた地図と滴りを見た。

「しっかし、ほんとうに驚いたよな。まさか赤ん坊を背負ったままお経を読むとはな」村田さんが赤ら顔の笑顔で話す。石田さんも笑顔でうなずく。他の者も皆多少の差はあれ、赤ら顔で笑顔だ。

和尚はところどころで、同じような内容の会話を聞きながら恥ずかしそうに、酒をついでまわる。

「もう、勘弁してくださいその事は」和尚が懇願する。

「いいや、止めない、これは永劫末代まで語り継ぐ」斉藤さんが和尚に返杯しながら強い口調でしゃべる。

「村の者は皆、心配していた、あなたと子供のことを、でも、機会がなかった。きっとじっちゃんもあの世で心配していたんだ、だから今日は正解だ。また、じっちゃんのおせっかいが。だいたい・・・」とこの時ピシャッと斉藤さんの頭が叩かれた。

「あなたは酔っぱらうとひつこいんだから」由美さんだ。かなり、できあがっている。   

「もういいのよ、二人が元気で、仲のいいのもよくわかったんだし、うじうじと言っちゃだめ」コップのビールを一気に飲み干す。

「でも」斉藤さんが機嫌を伺うように返す。「デモもストもないの。だいたい、あなた和尚さんがじっちゃんに気に入られてたから嫉妬してたでしょ 、まっ、いいわ」そう言うとふらふらと向きを変えた。

「だけど、和尚さん、この人が二人のこと心配していたのはほんとなの、気が小ちゃくてなにもできないけど、ずうっと心配していたの、今回の法要も、親戚、皆に言い張って決めたの、信頼できるやさしい人よ」言いながら由美はテーブルに顔を伏せた。まもなく、寝息が聞こえてきた。

「こいつにはかなわないな」斉藤さんが由美さんの肩に手を置きながら囁く。

「羨ましいな、こんなすばらしい理解者がいて」和尚のつぶやきには答えず、斉藤さんはただ、微笑み返した。

 一通り和尚があいさつを周り終えた頃には、もう席などというものはなくなっていた。それぞれが思い思いの表現をして、互いの親交を深めていた。笑う人、泣く人、怒る人、異種混沌とした、しかし和やかな雰囲気の中で皆、自由に語っていた。

和尚はこの輪の中で感激していた。皆が自分と健史を心配してくれる、励ましてくれる、人と人とのつながりのありがたさを痛感していた。酔いも手伝って涙声でお礼と握手を繰り返している。

斉藤さんからお開きの挨拶と和尚親子は今日はここに泊まる旨が伝えられた時、大広間の柱時計は零時の鐘を打っていた。

 斉藤家の法事以来、和尚は健史をできるだけ人前に連れて行くように心がけていた。そして人に会う度に健史の顔をよく見せて「息子の健史です。今後ともよろしくお願いします」と頭を下げた。そして、大きな声で相手の名前を健史に言って聞かせる。「健史、森島さんだ、あの大きな牛を飼っているところだ」健史は、もちろん、きょとんとしたままだ。

 相手はその健史の素振りを見て「可愛い子だね」と誉める。和尚はこの言葉に目を細めて、この儀式を終える。


 梅の花が咲く頃、健史が和尚の家にきて、3ヶ月が過ぎていた。季節は寒から暖へと変わろうとしていた。健史との生活にもリズムができ、育児の要領を得るに連れ、健史一辺倒であった和尚の心にも体にも余裕ができてきた。

 そして、もうすぐ、和尚の大好きな時期がやってくる。それは桜と花見の季節である。

 和尚は毎年、季節ごとの行事を村人のために催す。それは、年始の鏡開きに始まり、各々、季節の行事を催し、年末の餅つき会でその年を締める。ほとんどの行事の対象は子供たちで、お年寄りもまたオブザーバーとして参加してくれる。あまり娯楽のない村では子供やお年寄りには楽しみな、そして、親や先生にとっても有り難い催しとなる。もちろん村主催の夏祭りやいろいろな会にも参加するので、和尚の一年は行事で忙しい。しかし、今年は健史の世話で

鏡開きと節分の豆まきは中止にしてもらっていた。育児のコツが少し分かりかけてきた今、そろそろ、和尚の世話焼きの虫が鳴き始めていた。

 花見は和尚が催すなかでは、数少ない大人のための行事でしかも大掛かりな行事であった。桜は大好きな花であり、お酒にも目がない、この二つが楽しめるのだから、和尚にとっては毎々年、待ち遠しい最高の楽しみである。いつもこの時期になるとソワソワして落ち着かないが、今年はそこに健史がいるのである。和尚の入れ込み様はいつもの比較ではなかった。

 大凡の参加人数の確認、場所の確保、飲食物の依頼等ほとんどお金をかけずに、参加者の志で賄う。主催者である和尚の気苦労は大変なものであるが、持ち前の明るさと何事にも真摯な態度はそれを感じさせない。だからこそ人も物も集まるのであるが。

 今年は田中家の二本桜が観賞されることに決まった。もちろん、何年周期かで行われている馴染みの場所ではあるが、いろいろな 準備と大きな迷惑が間違いなく家主にはかかる。。

 去年行われた松金家は3俵の米俵を炊き出し、鶏も十羽絞めた。 

そして、村中から魚、肉、菜さらに鍋、釜、器が集まる。近所のおかみさん部隊が二昼夜に渡り、交代で煮しめなどに腕を振るう。大勢のおかみさんたちが大量の食材を前に忙しく立ち働いている様は壮観で見ている者には、至極楽しい。各家のこどもたちは自分の母の仕事ぶりをのぞき、はしゃぐ。和尚もこの雰囲気が大好きで、毎年激励に訪れては味見に預かる。祭りの準備は楽しい。それは祭りより楽しいかもしれない。

 この時、酒は五樽用意したが、みるみる空っぽになり、隣県にある、校長の親戚筋の造り酒屋から三樽、トラックで急遽取り寄せた。

 酒の過ちも多く、酔っぱらった酒豪自慢の若い衆が、「樽の酒を全部飲み干す」と言い張り、皆が止めるのも振り切り、樽に顔を突っ込んだが、酒は全然減らず、酔いの所為で中で溺れそうになった。パニックでもがき、酒を大量に飲み込んでしまった。酒は随分減った。結局、酒樽を倒しての救助となった。酒樽は

空っぽになった。

 下戸の桜木先生が人工呼吸の後、指を突っ込んで吐かせ、大量に水を飲ませ、点滴で処置した。大事には至らなかったが、村始まって依頼の人身事故に発展するところだった。

 その若い衆は二日間唸りながら寝込み、 回復した三日目には「もう一生酒は口にしない」と言っていたらしいが、それから、三日後には、酔っぱらってくだを巻いているところを桜木先生に見つかっている。

 この村の、この花見にはいろいろなことが起こる。それら全部含めて和尚と世話役で面倒をみるのである。

 和尚は田中家に健史の母乳を授かりに訪れていた。

「幸江さん、ありがとうございます、花見の世話役引き受けてもらって」

「いいえ、こちらこそ、和尚さんまた、大変ね」

「いや、私は楽しみですから。本当に世話役さんには負担がかかってしまって、最近は断りたいという家もいるみたいで、今年は田中家で引き受けてもらってほっとしています」

「うちは大婆ちゃんと子供たちがもう大騒ぎよ、料理や出し物のことで、村の皆だって楽しみにしているわ、只、世代で若干の感覚の違いがあるのかしら、でもこれからもずっと続けていけるように悪いところは改めて、変えていけばいいの、皆で話し合えばいいのよ」

 和尚はきちっと正座して、両手をまっすぐひざにあてて、幸江の話

を聞いていた。

「全体的にパワーをもう少し押さえた方がいいのかな」

「お酒のむちゃ飲みは止めたほうがいいわ、体にも悪いし、見ていて怖くなる」

「去年は酷かったからな、子供たちも見ているし、節度を守った飲み方をしてもらえるよう青年団に申し入れしておこう」和尚はうなずいて立ち上がり健史を抱き抱えた。

「健史ちゃんにお乳をあげましょうね」幸江は和尚から健史を受け取ると奥の間に歩いていった。

 花見の当日、会場には二本の桜を中心にシートとゴザが数十ヶ所に規則的に敷かれた。各ゴザには、有志のおかみさんたちが作った見事な手料理が重箱とラップで覆われた大皿にきれいに盛られ配膳されていた。和尚は準備が終わって、その景観を見たとき、おもわずため息をつき、静かに拝礼した。

 村の住人が全員集まったのではないかと思うほど、老若男女多くの人が集まった。天気にも恵まれ四月の桜は、ほぼ満開の見頃、文句のない春だった。

 宴は、決まり通りに、村長の挨拶で始まった。村長の長い挨拶を

待ちきれないように、婦人会有志の面々が、出し物トップの日本舞踊を、横で練習し始める。それを横目で睨みながら、村長は渋々話を切り上げる。これも予定通りであった。

 例年なら、この辺りから和尚は急ピッチで飲み始める。各、円座を酒を持って廻り、返杯につぐ返杯で相当な量を飲む。途中断る事は無い。大笑いで飲み干す明るい酒だ。 しかし健史のいる今年は違っていた。 満面の笑みは全く変わらないが、大酒飲みは消えていた。

 和尚は桜の幹に陣取り、胡座に健史を乗せ、膝枕であやした。健史の顔をのぞき込んでは語りかけ、コップ酒をチビリとやる。桜に目をやり、またチビリとやる。

 去年までの花見会と違う和尚の姿に、和尚贔屓の村の衆は最初戸惑ったが、幸せそうなその姿に目を細めた。そして、二人に声をかけようと、和尚の回りには人の輪ができた。

「和尚、いい親父になったな」一人が声をかける、「全くだ」誰かが合いの手を入れる。和尚は笑って照れている。

 しばらく、掛け合いが続いた後、梅婆が小脇に置いていた、三味を引き始めた。それに合わせて校長が唄いだす。皆が手拍子ではやし立てる。

 和尚はその手拍子に体が勝手に動いてしまうかのように、踊り出した。真打ちの登場にまわりはやんやの喝采である。

「和尚さんの変な踊り、始まったよ」子供が大声で叫んで友達を呼びに走る。ほうぼうから、子供たちが集まってきた。

子供たちは和尚の踊りに大げさに反応して笑い声をあげる。

 和尚のお得意はひょっとこ踊りとどじょうすくいが混ざったようなおかしな踊りだ。これを真剣に変な顔で踊る。健史を両手で抱えながら踊る。健史を上に掲げ、拝むように動き回る。健史はケタケタと笑いながら和尚を見ている。

「アー、ヨイヤサッ、ヨイヤサッ、健史は日本一の良いお子や、アッ、ソレ、ヨイヤサッのヨイヤサッ」和尚はまるで健史と二人で踊っているように踊り出す。

 異常に笑っていた一人の子供が笑うのに飽きたのか、こんどは和尚の後について踊り出す。和尚は喜んでうなずく。その子のめちゃくちゃな踊りが、また皆の笑いを誘う。そして、笑うのに飽きたと思われる子供たちが次々と踊りの輪の中に入っていった。

 和尚と健史、そしてたくさんの子供たちが、夢中になり変な顔で変な踊りをおどる。

年若い夫婦と思える男女が笑いながら話している。

「ねえ、見て繁のあの格好、面白い」

「ああっ、本当だ、しまったな、ビデオカメラ持ってくればよかった。家では絶対にあんなことしないのに」

「ここで踊っているのはみんな、和尚さんwithイベント仲間ね」若い女性は子供に向かって手を振った。

春の月が星空の真上に届くころ、花見会は終わりを迎えていた。老若男女村の衆が、飲んで、食べて、歌って、踊ってそして笑った大花見会。子どもたちと母親はもうとっくに家路についていた。片付け班のおかみさんたちのきつい視線の先には、一升瓶にトコブシのようにへばり付いた、飲んべえたちが生息していた。

和尚はいつもの年ならこのころには酔いつぶれて寝てしまっているのが、常であったが、今年は、おくるみで防御した健史をしっかりと抱きかかえて、世話になっている人たちに挨拶にまわっていた。

「幸江さん、ありがとう。無事に終わってよかった」和尚は後片付けに動きまわる幸恵に声をかけた。

「和尚さん、お疲れ様でした。本当に今年は楽しかったわ。もうずっと笑いぱっなし、踊り可笑しいんですもの」ゴミ袋を手にした幸江が笑った

「もう、うれしくて、楽しくて、はしゃいじゃいました。本当に失礼しました」和尚は恥ずかしそうに笑った。

「健史ちゃんは大丈夫?」

「ええっ、最初は人の多さに興奮していたみたいですが、元気に過ごして、寝てしまいました」と健志の寝顔を見せる。

「冷えてきたから、健史ちゃんに風邪ひかせないように、早く帰ってください。後は大丈夫ですから、ねっ」

「なんだか名残惜しくて、帰れない、子供みたいですよね、でも肌寒くなってきたんで、帰ります、すみません」深々と頭を下げて、まわりに声をかけ、健史をおくるみごとおんぶ紐で背負うと、静かに歩き出した。酔ってなどいない、しっかりした足取りだった。

 一升瓶からひっぺがされた飲んべえたちはすごすごと、各棲家へ帰ってゆく。最後の最後まで粘っていた村長も、片付けを終えた奥さんにひっぺがされ、引きずられるように家路に着く。

 真っ暗な夜道をあるきながら、奥さんの機嫌をとるかのように、村長が話し出す。

「なあ、母さん、和尚は父親だな、あの子のために本当の父親になろうとしている。」奥さんも黙ってうなずく。

「本当に真剣だ。あの男はいつだって、困っている者や弱い者に一生懸命、力になろうとする。自分の損得や打算などこれぽっちも考えない。あの真面目さに私は胸が熱くなる。自分が心のどこかに閉じこめてしまった大切なものを思い出す」

「何、お父さん急に熱く語り始めて。飲みすぎでしょう。いつまでも意地汚く飲んでるから、」

「違うよ、飲みすぎてなんかいないよ、俺が言いたいのは和尚が真面目で本当に良い奴だってことだ。ううっ、気持ち悪い」村長は道端にうずくまりだした。

「ダメよ、そんなところで、吐いちゃ、もう、そんなこと解かっているわよ、和尚さんは本当に純粋な良い人よ」その言葉に反応して村長は急に顔を上げる。反吐がつながっている。

「ダメ、服に付くわよ、もう、汚い親父ね」奥さんは怒って、ひっぱたきそうな勢いである。

「だから、不安になる、なんとかしてあげたい。なあわかるだろ」そう言って村長は奥さんに抱きつこうとする。

「きゃあ、やめて」奥さんはしっかり手で払いのけ、且つ、よけた。村長はそのまま転がった。

奥さんは村長の後ろにまわり込み、支えるように起し上げる。

「私たちも一生懸命応援してあげましょう。私たちが付いているって、だからかんばってって」

「うん、がんばってほしいな」反吐と泥でぐしゃぐしゃになった村長は優しくつぶやいた。


和尚の新米お父さんとしての生活は続いていた。育児で慣れてきたことも多いが、まだまだ驚かされることが多かった。(飲ませるミルクの量はどのくらい増やす)、(ウンチの色が緑色だどうした)、校長にもらった育児書は手放せなくなり、幸江さんや、梅ばあに教わる電話も増えた。しかし、なによりも和尚を驚かせたのは、子供の成長の速さである。

体はみるみる大きくなり、モグラのようだった顔は人のそれに変わってきた。そして、喜怒哀楽の表情がわかるようになり、和尚に対しても、いろいろな表情で、意思表示をするようになってきた。その一つ一つに答えて、笑い、よろこび、感心した。

どの親にも必ず辿る気持ちと同じように、和尚にとって健史は自分よりも大切な、何よりも大事な存在になっていた。

  日々の生活と育児に追われる生活が続いた。普通の男であれば、とっくに音を上げ、立ち行かない情況に追い込まれていたであろう。

一般的には男が、一人で家事をこなして、生活してゆくことは難しいと思われる。しかし、和尚にはそれは当てはまらなかった。家事一般が苦にならない、と言うより、好きなのである。

その根底には、日々の生活こそが、人間の基本であり、楽しんで、感謝して、生きたいという和尚の人生観があった。また、幼少からの寺の修行で生活の知恵が身に付いていたことも幸いした。

 今、和尚は健史を育てることのやりがいと喜びを実感していた。

小さな紅葉のような健史の手が、無骨な和尚の指にしがみつき、しゃぶろうとする仕種に、この小さな命を何としても守ろうという使命感が体全体に沸き立った。

 その気持ちの強さに比例して、子供の健康のこと、経済的なこと、将来のことなどが漠然とした不安になって、心を圧迫していることも確かであった。しかしそれは、和尚にとっては独り暮らしでは感じられなかった、生きるエネルギーとなるものであった。

健史の柔らかな微笑みが優しく解いてくれた。

 

  朝の修行と食事が終ったあと、和尚は健史を抱いて外に出る。

五月の空は快晴で、さわやかな風に新緑の香りがそよぐ。運動と食事で熱くなった体には、この季節のさっぱりとした涼しさが心地よい。

 健史は外が大好きだ。外に出ると体をゆすり、「ほうっ、ほうっ」声を発する。気持ちが良いのだとすぐにわかる。

 玄関から裏に回り、自作の畑の横を抜けて小道に出る。この道は畑の管理用に作られた長く続く道であり、もちろん、周りはすべて畑、日除けになるものなど何もない。

和尚は晴れた日にここを歩くと太陽が自分のために陽を与えてくれているような気持ちになる。

立ち止まり、大きく口をあけて陽を取り込み、そして飲み込む。体の中に陽が入った気持になり、体が熱くなる。

 和尚は健史に教えるように陽を飲み込んでから、健史を太陽に向けた。偶然に、大きな欠伸をして、口を開け、閉じた。

「おおっ、健史も太陽を飲み込んだか、元気ないい子になるぞ」和尚は喜んで健史の頭を撫でた。

 細道をまっすぐ十五分ほど歩くと川に出る。さほど大きくないが、このあたりの田んぼや畑はここの水を引き入れている。

 川辺に立つと、足元の濡れたつゆ草の鮮やかな緑と青が目に入る。滑らぬように腰を落として進むと、ネコヤナギが頬をかすめる。思わず引き抜き健史の首で小刻みに回しいたずらを仕掛ける。

健史は「ケタケタ」と笑い、両手を振りまわしネコヤナギを掴もうとするが、まだうまく掴めない。和尚がそっと掴ませると、すぐに口に持ってゆこうとする。それをあわてて取り上げる。

 和尚は土が乾き、枯れ葉の敷き詰められた場所を見つけると、ごろっと仰向けに寝る。健史も仰向けに重なって寝たようにラッコ抱っこされる。

「健史、気持ちいいな、お陽様、眩しいか」健史の顔の前に手をかざして射光をさえぎる。健史はその手を掴む。

 二匹の紋黄蝶が舞ってきて、川面に交互に触れる。まるで、一つのもののように対に動いて、向こう岸に渡っていった。

 健史の食事は四時間おきのミルクから、離乳食に変わりつつあった。ミルクもよく飲んだが、離乳食もよく食べる。梅婆さんに教わった粥と幸江さんから聞いた使いやすい市販の離乳食とを情況に応じて使い分けていた。ただ、健史の食欲は和尚手作りの粥のほうが進む気がして、こまめに作っていた。

 よく食べるせいか、定期健診等で同時期の赤ん坊と較べてもひとまわり大きい。それが和尚には嬉しくて、会う人ごとにその自慢をしてしまう。

 「他の子より一回りも二回りも大きいんだ、将来は相撲取りかな、野球選手かな」満面の笑みで和尚が問いかける。

 「和尚、それは先週から五回聞いたよ、本当にすごいと思っているよ、プロレスラーにもなれるかもしれないね」と校長がうなずく。

「プロレスラーはちょっとなあ」和尚は真剣に答えて首を横に振る。

「はあっ」校長はため息をつく。

 和尚が風呂場で洗濯をしている。いっぱい食べる健史は、いっぱい出る健史でもある。和尚は金ダライでおむつを洗う。ミルクだけのときは甘酸っぱいソレであったが、物を食べるようになって、それは大人のモノに変化してきた。しかし和尚は平気でオムツを素手で洗う。

洗濯板にオムツのシミをこすりつけながら、和尚は考え込む「お金か」とため息のような言葉がでる。シミがとれたのを確認し、水をタライにため、ていねいにすすぐ。「頑張るしかないな」自分に言い聞かせるようにつぶやくと、渾身の力でオムツを絞った。

 その次の日、和尚はいつものように朝の日課をこなすと、健史を背負いカブに跨った。 

 スタータのスィッチを捻ろうとした時、不意に気が付いたように空を見上げた。暗くて、今にも降り出しそうな雲が覆い、なま暖かい風が頬を撫でた。

 和尚はカブから降りると急いで家に入り、大きな傘を用意した。子供ごと被れるポンチョも手荷物の風呂敷にいれた。

 スクーターなら二十分もかからない、スーパー萬屋に着いたのは昼を過ぎていた。途中降り出した雨の中、健史を背負い二時間近くも歩いていたことになる。

 濡れた二人を見つけると、勝婆はレジ横に掛けてあった手拭いを掴み、不自由な足を引きづりながら走るように、近寄ってきた。

 「なんだね、和尚さん。こんな日にわざわざ来なくても、何かいるなら、和に配達させるのに」話しかけながら、健史のまわりを撫でるように拭いてゆく。

「いやっ、村長のとこに寄るので、饅頭でも持っていこうと思って来ました」

勝婆が健史を拭きやすいように、屈んで低くなる。

「ほら、和尚さん抱っこしてるから、オンブひも外して楽になりなさい」後ろから、健史の尻に手を添え、ひもが緩むと、器用に反転させ、抱っこした。

「えらいなあ、健史ちゃんはこんな雨のなか、全然泣きもしないで、いつものニコちゃん」背中から降ろすと、笑顔で抱きしめて頬擦りしていた。

「まだ相当降っているだろ」「ええっ、当分上がらないでしょう」

和尚は入り口で空を見上げた。

「よし、じゃあ決まり。もう少し、この子を婆に抱っこさせなさい。そうすりゃ、和が配達から戻ってくる。村長のところまで車で連れてってもらえばいい。帰りもそのまま、待たせて家まで送らせる」断言すると、また、健史をあやし始める。

「和君も忙しいんじゃ・・・」和尚は言い掛けてやめる。そして、黙って頭を下げる。

「百合子さん、百合子さん」勝婆がレジ奥の引き戸をあけて、大声で呼ぶ。

「はーい、ただいま」叫びながら、Gパンにエプロンをした娘が中から、元気よく飛び出してきた。勢いあまって、よろける。顔を起こす時に、心配した和尚と目が合い、恥ずかしそうに微笑む。

「あっ、和尚さんどうも。健史ちゃんも一緒で、この天気じゃ、大変だったでしょう」弾んだ、明るい声で話す。

「まったく、そそっかしいんだから」勝婆が笑いながら背中を撫でる。

「へへっ、おばあちゃん、お茶でいいですか」舌を軽く出して、百合子が答える。

「お茶もだが、坊になにか飲むものを、ヤクルトが冷蔵庫にあるだろう」

「はい、わかりました」百合子はまた早足で奥へ入っていった。

「可愛い娘さんですね」和尚の言葉に、勝婆はまるで自分が言われているかのように照れて、首をふりながら、答えた。

「いやいや、でも、気立ての良い娘じゃ、親御さんが愛情一杯に育てられたのだろう」 

和尚は頷きながら健史を見つめた。

二人がそれぞれお茶とヤクルトをごちそうになり、飲み終えた頃、和君が配達から帰ってきた。そして、休む間もなく、勝婆に村長の家行きを命ぜられた。和君は和尚と健史に笑顔を向けると、百合子さんをちらっと見た。勝婆はその仕草に「大丈夫じゃ、百合子さんはどこにも行きゃあせんから」とからかうように和君に大声で言った。

二人はあわてて目を逸らした。

降り止まぬ雨の中、正面につけてくれた車に乗り込もうとすると、勝婆は棚にあったタマゴボーロを和尚のカバンに詰め込む。

「ニコちゃんのおやつじゃ、また来てくださいよ」。和尚は、黙って頭を下げた。健史は和尚の背中でおとなしくしている。

 配達車は二人を届けに走りだした。

 村長は大きな傘をさして出迎えてくれた。

「ご苦労さん、大変だったね。おちびちゃんは濡れなかったかい」

「はい、大丈夫です」和尚は大きくお辞儀をすると、さしかけてくれた傘に村長を押し戻すように身を捌いた。

「ほら、早く中へ、和くんも降りて来なさい。」引き戸を開けて、手招きあ

「和君、ありがとう。帰りは大丈夫だから」

「祖母ちゃんに頼まれましたから、それに待っていればここでゆっくり本が読めます」和君は本を取り出して見せる。

「百合子ちゃんが心配するよ」和尚が真顔で聞く。

「また、和尚さんまで祖母ちゃんみたいなことを言う」顔の前で大げさに手を振る。

「はははあ、ごめん、そんなつもりで言ったんじゃ、言ったかな」楽しそうに笑う和尚。

「意地悪だなあ」和君は笑いながら口を尖らせている。

「和君なんだい、また、勝さんにからかわれたか、」村長の言葉に体を落とす和君

「はあっ、お察しのとおりです」

「本当に解りやすい素直な子だな、わかった。悪いが二人を待っていてやってくれ。何か飲み物でも持て来るから」村長は中に入っていった。

「本当に申し訳ない、早く済ませるので」和尚が顔の前で拝むように手を打つ。

「いえいえ、お気になさらす、ごゆっくり」そう言うと和君は車に

乗り込み本を開いた。

 和尚は部屋に入ると、すぐに、村長にお湯を沸かすように頼んだ。そして、バッグから白い袋を取り出した。お手製であろうその袋には丁寧に(健史ミルク)とマジックで書かれていた。

 中から三段式の、粉が収まったカップをとりだすと、片手で器用に外し、そのまま、ほ乳瓶に移した。お湯が沸くと、予定分量に合わせて、混ぜながら入れる。ほ乳瓶を流水で冷まして、最後に手の甲にたらし、温度をたしかめる。動きに無駄がない。

「はあっ、すごいもんだね、手際がいいね」村長が目をまるくして誉める。

「そうですか」膝を立て、椅子のようにして、ミルクを飲ませながら答える。その間も片方の手で静かにオムツや下着の状態を診て、ガーゼで汗を拭いてあげる和尚。

「確かに、あなたはまめな人だと思っていたが、ここまでやるとは」村長はまた、感嘆の声を上げる。

「慣れですよ、慣れ。すべてのお母さんが当たり前にやっていることです」

「しかし、君は女ではないし、結婚だってしていない」

「村長、またその話しですか、いい加減にしてください」怒った口調になる。

「いや、そういうつもりではない。私は三人の子供の親だけど、しかし、和尚が今、したことは、これっぽっちもできないぞ」そう言って小指を弾いてみせた。

「それは村長にそんな必要が無かったからです。奥さんがお子さんのことはすべてやってくださっていたんでしょう」

「ああっ、その通りだが」

「もし、村長が私の立場だったら、いろいろな事ができるようになりますよ」そう言いながら、ほ乳瓶の減り具合をみて、立てた。

「そんなものかな」「ええっ、そんなものです」

「でも、そうすると、加奈子は、家内は、全部できたのか、すごいものだな」村長はアゴの無精髭を撫でながら呟いた。

「はい、女性は、お母さんは、すごいものです。私も健史を育ててみて、その大変さがわかりました」

「そうか、私は育児なんて、考えもしなかった。男は仕事。家庭はすべて加奈子にまかせた。大変だったのか、辛かったんだろうな子育ては」村長は寂しそうに宙をみた。

和尚はミルクを飲み終えた健史を抱っこして、背中を軽く叩く、軽いゲップをする。

「いえ、大変ですけど、喜びはその何倍もあります。もちろん、奥さんはそれを知っておられた」

「もっと子育てのことで、家内と話し合えばよかった。そうすれば協力できた。私たちは悲しみは分け合って、半分にしてきたが、喜びを分かち合って二倍にできなかったかもしれない。すべては私のせいだ。」村長はため息と共に肩を落とした。

「それは時代です。村長の世代は皆、同じですよ。楽しみより、生きることが先決でした。」

「一生懸命働いて、女房子供を養っていくことが私の使命で誇りだった。でも、それで家内は本当に幸せだったのか」拳を握りしめ、畳に擦り付ける。

「ええっ、奥さんはきっと幸せでしたよ。愛する人と子供を育て、その人は汗水垂らして働いてくれる。感謝するに決まってます。実際、奥さんに聞かされました」和尚は微笑みを浮かべ村長を見た。

「えっ、何のこと」

「生まれ変わってもお父さんと一緒になりたい。そう言っておられました」

「まさか、そんな事一度も聞いたことはない。和尚、悪い冗談だろう」手で汗を拭いながら聞き返す。

「いいえ、奥さんは確かに、おしゃいました。その言葉が、私には少し気恥ずかしくて、そして、村長が羨ましかったことを、今でも覚えています」

村長はしきりに額をこすりながら首を振る。明らかに動揺していた。

「すまんが、吸わせてもらうよ」と言うと,健史から離れて、窓を開けた。せわしく胸ポケットからしわくちゃの箱を出し、たばこをくわえた。ゆっくりと確かめるように百円ライターで火を点ける。大きく吸い込み、まるで、魂を吐き出すように静かに、丁寧に煙を吐き出した。そして

窓から流れる煙をぼんやりと眺めていた。和尚は眠りに就いた健史を抱いたまま、村長の背中を見つめていた。


 「和尚、相談って何だろう。」快活さを取り戻した村長が尋ねた。

「言い辛いですが、お金のことでして、この子のことを考えると今の収入ではとてもやっていけない。何かアルバイトのようなことができないかと思いまして」和尚は頭を下げた。

「お金か、そうだよな、お金かかるよな。しかも和尚は檀家も少ないし、お金を集めるような坊さんではないもの」

「はあっ、この子の将来に備えて貯金もしていきたいし、定期的に収入を得たいと思います。独り身だったら、家は吉田さんが使わせてくれているし、皆さんに分けてもらえる物で何とか食うには困らない。着るものなんてねえ」自分の着ているものを見て元気に笑った。

「和尚はそういうことには無頓着だからな。でも子供がいるとそうはいかない。さしあたっては大丈夫なの、少しぐらいの金は用意できるよ。」村長は奥の部屋に入ろうとする。

「あっいや、すぐに必要ではありません」あわてて村長を引き留める。

「本当か、遠慮なんかするなよ。」

「はい、これから先、この子のために少しでも多く自分で稼いでいきたいんです」

「そうか、わかったよ。でも、しばらくは赤ん坊をみながらだよな」

「ええっ、できれば」和尚は頭を下げる。村長は頭を上げさせるように肩を揉む仕種をした。和尚はくすぐったそうに顔をおこした。

「役場でのパートと、何件かは心当たりに当たってみよう。農作業の手伝いだって健史ちゃんを預かって貰えればできるものな」

「はい、よろしくお願いします」和尚はまた、深く頭をさげた。

「ほら、そんなに心配するな、大丈夫。そうだ、本業のほうももっと実入りがあるように、ばんばん、葬式でも、あっそりゃまずいな。せめて、法事や供養を増やすように、村議で話そう」

「いやそこまでは」かしこまる和尚の両手を掴み、握り込むと、

「和尚とこの子には、村のみんなが付いているよ。任せて」と、二人を包み込むように抱きかかえた。目が覚めた健史は機嫌よく語りかけるように、笑っていた。


 和尚は飯田家の畑の草むしりを手伝っていた。村長が村議で話して、五軒の農家の手伝いを決めてくれていた。各二日間計十日間を働く。報酬も一律で決まっていた。この後も季節ごとに定期的に働かせてもらえる。どの家も喜んで応じてくれた。

 働いている間は健史は幸江さんの家で預かって貰えた。

「一人も、二人も一緒だから」と預かってくれた。お金など要らないと言われたが作業報酬が出たときは、一部をミルク代として取ってもらえるように、和尚は頼み込んだ。

健史はもらい乳をしている幸江さんには、もちろんなついており、また、この頃には前のような人見知りでぐずるようなことはなくなっていた。


 「和尚さん、お父さん、少し休みましょう」軽トラで走ってきた、飯田さんの奥さんが窓を開けて叫んだ。

「おうよ」飯田さんも大声で答えた。奥さんが来たのも気がつかず、一心に鎌で草を刈っていた和尚もその声に手を止めた。

畦道の段々には奥さんがゴザを敷き、まるで、ピクニックのように、いっぱいの飲み物と食べ物を拡げていた。坊主頭の男の子が二人、料理を見据えて構えていた。

「なんだ次郎太も三朗太も付いてきたのか」飯田さんが声をかけても二人は料理を見つめたまま動かない。

「そうなのよ、ごめんなさい、準備をしていたら、もう離れないの、こら、次郎太」料理に伸ばした手をぴしゃりとたたく。

「和尚さんが食べてから」と睨む。

「どうぞ、そんな、気になさらないでください」申し訳なさそうに和尚。

二人は奥さんの顔を伺う。

「しょうがないわね」頷く奥さん。

その声を聞くや、次郎太と三郎太が同時に手を伸ばす。

「オレ、唐揚げ」「オレも唐揚げ」片手では足りずもう一方も伸ばす。相手に負けじと、次々に口に放り込む。一杯になってもまだ掴み、入れようとする。

「こら、おまえたち、いい加減にしろ。みっともない。」ふたりは一瞬で静かになる。

「だって、三郎太が」唐揚げがこぼれぬように手で押さえて、

訴える。

「にいちゃんが・・・」弟は大きく飲み込んで反論しようとしたが、急にもがきだした。

「ほら、ほら、あわてて食べるからのどにつかえて」奥さんが背中をさするが、詰まったものはとれない。本人はどうすることもできない。苦しさで首を振るので口に指を突っ込むこともできない。顔はみるみる真っ赤になり、体はもがく。その異様な様に奥さんは驚いて助けようとするがなにもできない。そして、「お父さん、お父さん」と半ば泣き声で叫ぶ。

「何をやっているんだお前は」飯田さんは怒り出す。がしかし、三郎太はそれどころではない。「苦しい、苦しい」と足をバタつかせている。ピックニックのように楽しい昼食はいきなり、修羅場と化した。

和尚はしばらく黙って見ていたが、ひとつ深呼吸をすると、三郎太の横に近寄り、立て膝を付いた。三郎太の背中を、立てた膝につけると、右手を開き、おまじないのように息をハアッとかける、腕を一杯に広げて上方に構えると一気に三郎太の胸にめがけて、「ソリャッ」の掛け声もろとも打ち下ろした。

打たれた反動で三郎太の体が跳ねたとき、唐揚げは弧を描いて舞った、三回転半ぐらいの着地を決め静かに止まった。

はじめはキョトンとしていた三郎太がびっくりして大声で泣きだした。奥さんはそれをなだめながら、しきりに和尚に頭を下げる。飯田さんは和尚の手を両手でにぎり、お礼の言葉を述べる。「本当にありがとう、ありがとうございます」

和尚は「良かったです。ごめんね、三郎太君、驚かせてしまって」母親に泣き伏している三郎太の背中を撫でる。さっきまでもがいていた顔は突っ込んだまま、首を横に振る。そして小さな声で「ありがとう」とつぶやいた。

お昼に騒動など無かったように午後の仕事も順調に進んだ。「そろそろ終わりにしましょか」飯田さんが汗を拭きながら、声をかける

「すみません、もう少しやらせてください。区切りのいいところまで」手を休めることなく返事がある。

「おれもがんばるほうだけど、和尚さんにはかなわないな」

和尚はやり出すと、もう止まらない。一生懸命に目の前の仕事に取り組む。

 作業を終え、軽トラックで帰る道。夕暮れのきれいなセピア色。心地よい疲れと相まって眠く、なぜか人恋しくなる時間

「予定の倍以上、進みましたね」運転する飯田さんが、くわえ煙草で話しかける。

助手席でうつらうつらしていた和尚はあわてて返事をする。

「そ、そうですか、よかった」

「いろいろご迷惑をおかけしてしまって、疲れたでしょう。今夜はうちで風呂にでも入って、ゆっくりしていって下さい」

「いえっ、健史を迎えに行きますんで」

「はい、この足で迎えに行って、お二人一緒に」飯田さんは煙草をもみ消しながらハンドルをにぎりしめた。


 飯田家の食卓はにぎやかである。おじいちゃん、おばちゃん、飯田夫妻と三人の男兄弟、七人の家族が特製の大テーブルで一緒に食べる。

 そして、その日は和尚と健史が加わり、うるさいほどの夕食になった。三兄弟のヤンチャぶりには目を見張る。食べ物を取り合って叫ぶ。そして取っ組み合いの喧嘩になる。しばらく見ていた和尚はその原因がだんだ解ってきた。末っ子の三郎太が兄二人に対してまったく引かないのである。三郎太はまるで二人の兄に友達か弟のように接する。長男の一郎太は八歳の小学三年生、動きからもおっとりとした性格に見える。次男の二郎太は五歳の幼稚園年長さんこの子は小さいが活発に動き回り、利発そうに見える。そして、三郎太、四歳。今日、唐揚げをのどに詰まらせ、危ないところを、和尚に助けられた彼である。次男より体は一回りでかい。子供ながら、筋肉質で動きも早く、攻撃的である。幼稚園の年中さんであるが、お母さんがこぼしていた、先生や父兄への謝罪話から、すでに年長さんも支配下に置く、園のボスとのことである。村の幼稚園はひとつで二郎太も通っていることから察すれば、弟に締められていることになる。三郎太がチョッカイをだし、二郎太が応戦する。兄のプライドと弟の負けん気がぶつかり、決着がつかない。そして最後には一郎太が取りなしてなんとか終わる。それは夕食では、三郎太が自分の好きなポテトフライを二郎太の皿から取ろうとして始まり、ハンバーグ、スパゲティと取り合い、食べてはこぼし、最後は一郎太が自分の分を二人に分け与えて終わる。飯田さん夫妻が交互に怒ると、祖父母はふたり揃って「男の子なんだから元気があっていい」とかばう。子供たちは大人たちのことなど、まるで眼中にないように動き回る。

 和尚はしばし、その様をみつめていた。きっと何度もくりかえされているであろうその光景をまるで、レビューのフィナーレでも見るように楽しんでいた。

(家族っていいな、俺もこんな家庭が欲しいな)そして、健史の成長を思う。

 食事の後には、飯田さん自慢の風呂がまっていた。その風呂は南側の日当たりのいい場所に家屋とは別棟に建っている。飯田さんとおじいちゃんが協力して一ヶ月で建てたものだと言う。

飯田さんがわざわざ案内してくれた。二郎太も三郎太うれしそうについてきた。

 天井は斜めに向いたガラス張り、湯船につかりながら音楽が聞ける防水性のスピーカーと脱衣所のガラス越しにテレビが見れるように設計されている。そして風呂は総桧製である。

 この風呂場に案内され、入った時、和尚はまず、その清々しい香りに驚き、天井から注ぐ月明かりに胸を踊らせた。

「わっ、すごいな。名所旅館の浴場みたいです」修学旅行の生徒のように興奮した声で言った。二人の兄弟もはしゃいで飛び回っている。

 「そんなに喜んでいただけると、ご招待した甲斐があります。どうぞ、ごゆっくり入っていってください」飯田さんは風呂場の戸をあけ、入ってゆくと、湯船の蓋を開け、大きく手でかき回した。

「うん、いい湯加減だ、さあ、行こう」兄弟の背中を押して出ようとした。その時「飯田さん、みんなで入りましょうよ、この広さなら湯船と洗い場で交代すれば、充分入れる、おじいちゃんも子供たちも、なあっ、三郎太くん」和尚は兄弟に笑いかけた。ふたりはすぐに食いついてきた。何か楽しそうなことには、すぐに首を突っ込んでくるのが子供の本能だ。

「わおっ、みんなでおふろだ」二郎太が喜びの声をあげた。

「おとこのはだかまつりだ」三郎太がおどけて踊りだした。

「はだか、てんごく、ホテル、いいだ」TV コマーシャルの替え歌を歌いながら二人は踊る。 

 お父さんは当然怒る。「おまえたち何ふざけているんだ」三郎太の背中を叩こうとする。「飯田さん怒らないでください。みんなで一緒に入るのはだめですか」和尚が真顔で聞く。

和尚の真剣な眼差しにいやとは言えずに、半笑いでうなずく。こどもたちはお父さんの後ろで万歳だ。

 健史も入れて男七人の家族風呂はまた楽しくにぎやかなものになった。

子供たちは、いつもとは違う雰囲気に興奮してはしゃぎまくる。大人は風呂場造りの苦労話に花を咲かせる。縁に座り、湯船に足を浸けて、語り合う。そして和尚が一度やってみたかったという輪になっての背中の流しっこ。健史を片手で背中におんぶして、健史の背中は二郎太が洗ってくれている。和尚は三郎太を洗っている。三郎太は飯田さんを飯田さんは一郎太を洗っている。一郎太はおじいちゃんを、おじいちゃんは二郎太を洗っている。七人が円になって

洗っている。子供が喜ぶのは当たり前だが、おじいちゃんもそして、最初渋渋であった飯田さんも恵比須顔で泡だらけになっていた。

「飯田さん楽しいですね」和尚が泡を両手で集めて吹いて飛ばす。

「ええっ、なんだか子供にもどたみたいで。いつもはこいつらを洗うことに一生懸命で、怒りっぱなしで。それがちょっととしたことで、こんなに楽しくなるんだ」

「こんなことができるのはこのお風呂だからです。すばらしいです」和尚は健史の顔に泡をつけて遊んでいた。

「のぼせてきた」おじいちゃんの言葉が上がる合図になった。

子供たちはまだ遊んでいたくてぐずっていたが、飯田さんは恐いお父さんに戻って子供たちを押し出した。

風呂から上がると、仲間に入れなかったお母さんとおばあちゃんが子供たちにはサイダーを大人にはビールを用意してくれていた。よく冷えた瓶には大汗をかいたような粒がつき、待ってましたとばかりに置かれていた。

 「まあ、ひとつどうぞ、どうぞ」「くーっ、きくなあ」二郎太と三郎太は大人口調でお互いに注ぎ合って飲み始めた。それを無視して、一郎太は腰に手を当て、一気に飲もうとして、ひとりむせている。

和尚は振って、炭酸を抜いたサイダーをほ乳瓶に入れて、健史に飲ませている。健史の頬は湯上がりできれいな桜色。和尚はついつい触れてしまう。

ビールと2つのコップを持った飯田さんが和尚に近づいてきた「健史ちゃんは家内に任せて、さあ、一杯どうぞ」並べたコップにビールを注ぐ。奥さんは和尚から健史を優しく奪い、大事に抱きかかえてあいさつをした。

飯田さんは一気に飲み干した。「ああっ、うまい、いつもより数段うまい」

和尚もつられて、コップを空ける。「ふう、最高だ、しあわせです」

二人は顔を見合わせて笑い互いにつぎ合った。

「二郎太、三郎太もう寝なさい」奥さんの声が響いた。最初は聞こえないように動き回っていた。がそれで終わるはずはなかった。

「聞こえないの」より力強い声が二人に襲いかかった。「えーだって」抵抗しようとするが、母親には逆らえない。そして、父とお客さんにすがるような目で訴えたが、まるで見ず知らずの通行人のように視線を外した。この場面では権力者に従うだけである。

「和尚さんとお父さんにお休みなさいは」「おやすみなさい」「おやすみなさい」観念した二匹の子ライオンは母ライオンにとぼとぼついて行った。

「飯田さん、すみません。いろいろ気を使っていただいて」

「こちらこそ、楽しかったです。大変ですが、しばらく、お願いいたします」

「では、そろそろ」和尚はコップに残ったビールを一気に飲みきると立ち上がった。

「えっ、まだいいじゃないですか。健史ちゃんはもう寝たようですし、もう少し飲みましょう」飯田さんはビールをすすめる。

「すみません、健史についていてあげたいもので」申し訳なさそうに詫びる和尚に、飯田さんもそれ以上は言えなかった。

 暗闇の中、健史に添い寝する和尚。

「飯田さん家族は素敵だな、にぎやかで楽しくて、竹田家も二人でがんばろうな。そして、おまえの奥さんも子供もみんな一緒に暮らそ‥、おっ、そうか、その前に健史のかあちゃんか。うーん、そいつはむずかしいかな」

健史に話しかけながら、和尚はうとうとしていた。

 すぐに、眠ってしまった和尚であったが、健史の気配で目を覚まし、暗闇の中、耳と手で健史を探る。吐息と手足の温かさで、状態まあうたりひを知り安心して,すぐにまた眠りにつく。毎日この繰り返しであるが、睡眠不足にはならない。それは自分の眠りのサイクルを

体が覚えており、眠りの深い時には、緊急の異常でもない限り目を覚まさず、浅い時に起きて様子を見る。これでほとんどは問題はない。健史はただ、ただ健やかに眠るだけだ。

 小鳥のさえずりとオレンジ色の光と、体を包む温かさに目が覚める和尚。健史は目を開けて、きょろきょろとまわりを見ている。

「おはよう、健史」声をかけながら、お尻のおむつを確かめる。

「濡れているな、変えてあげような」健史は理解しているように、和尚の顔をじっと見る。片手で健史を作業しやすいように移しながら、もう一方の手で、愛用バックからすばやくビニール袋に入れた濡れタオルと紙おむつ、そしてゴミ袋を取り出す。その骨太な風体からは思いも寄らない手慣れた所作でおむつを替えると、一安心の印、お尻を軽くポンポンとたたく。さらに、唇に手をやり、反応を確かめる。「おなかも空いたな」とこれもまた一連の動きでバッグからポット、粉ミルク、ほ乳瓶の三点セットを取り出し器用に作り終える。そして、クーラーボックスでほ乳瓶を冷まし素早く与える。健史は夢中でむしゃぶりつき、あっと言う間に空にする。和尚は満足げにほ乳瓶を取り上げ、今度は背中をポンポンと叩く。

健史のミルクのあとは和尚の朝の日課である。その場で音を立てぬように腕立て、スクワット、腹筋トレーニングをこなす。汗を拭いて、息を整える。そして、正座をしての独経。この間も健史はおとなしくつぶらな瞳で和尚をじっと見ている。最後の経を唱えたとき、「ふうっ、よしっ、今日も頑張るぞ」和尚は両手で顔を張った。

健史はその音に目を丸くして驚いていた。

 飯田宅のそばには、村の者がセミの森という林がある。ここを飯田、竹田ファミリーで朝の散歩に出た。昨日からのお客さんに、はしゃいでいる子供たちの提案だ。イベントは一つでも多い方がいい。両手に虫網とカゴを持っている

今日は奥さん、おばあちゃんも加わっての、大所帯の散歩だ。

「ここは蝉の泣き声でうるさいくらいですね」

「ええっ、本当に」おばちゃんが優しく答える。

「でも、こんなにうるさいのに、なぜ心は落ち着くんだろう」和尚は大木を見上げながら張り手をするが、びくともしない。

「七年も待ってやっと出てきて、一生懸命鳴いているんだ、命がけだもの、心にも響くし、落ち着くさ」おじいちゃんがつぶやくようにいった。和尚は大きく頷いた。

 三郎太が蝉を取ろうと、木によじ登り始めた。虫網を持ったまま器用に登る。木の下では次郎太が真剣に見ている。そーっと網を伸ばしていく。

ふっと蝉の声が止まった。あせる次郎太、急いで網をかぶせる。蝉はまるで網と反発するかのように避けて逃げた。次郎太への反撃も忘れずに。

 「冷たい、小便だ」咄嗟に手を離した瞬間に次郎太は木から滑り落ちた。

「わあっ」驚いて逃げる次郎太。

『痛え」落ちて転がる三郎太。「大丈夫か」和尚が駆け寄った。

三郎太はそのまま転がってすくっと立つと、両手を伸ばし「9、9」と叫んだ。

和尚は楽しそうに笑って「三郎太くんはすごいな、恐れを知らない。行動力の固まりだ」

その時、急に、次郎太が「僕だってできるよ」と和尚に訴えた。和尚は頷いて「ああっ、次郎太君もできるさ」と答えた。

次郎太は安心したように、何も言わなかった。

 蝉の森の散歩の後、皆で朝食をいただく。お母さんとおばあちゃんが早起きして、作ってくれた豪華版。

海苔、刻みネギたっぷりの納豆、甘い卵焼き、あじのひもの、ピリ辛きんぴらごぼう、ひじきと油揚げの煮付け、そして季節の野菜がたっぷり入った味噌汁。お膳いっぱいの料理にはしゃぐ子供たち。健史には摺り下ろしたリンゴが用意されている。

 「おう、豪勢だな、栄養つけて、今日も一日頑張りましょう。いただきます」飯田さんの声に 一斉に箸が動く。

和尚はリンゴ汁の上澄みをとり、膝に乗せている健史の口元に丁寧に運ぶ。健史の食欲が収まった

大きな茶碗のご飯を箸で四つに区切る、和尚は四口でそれを食べる、食べている様に見える。納豆をかけ海苔でくるみ大きな口でパクリ。味噌汁をすすり、大好物のぬか漬けを食べる。

「日本人に生まれてよかった」和尚がおいしいご飯を食べるときに言う決まり文句。

子供たちのおかず攻防の今回の標的は、やわらかふんわり卵焼き。三郎太はまた、口いっぱいに頬張り、まだ入れようともがいている。

次郎太も負け時と口に。今回は次郎太が吹き出して、お母さんから、大目玉を頂戴して終了となった。

和尚もご飯、味噌汁、最後にお茶お代わりをして満足のご飯を終えた。

この日の農作業も和尚の頑張りで予想以上に進み、3日間の予定が2日間で終わった。そしてその夜はファミリー大宴会となった。和尚は十八番の裸踊りを披露して子供たちからの人気を不動のものにした。

宴会も終わり健史と寝床に入って、和尚はいつものように健史に話しかける「健史今日も疲れたよ、でも楽しかった。あの子たちは愉快だな、兄弟は本当に良いもんだ、健史には兄弟はいないのかな」健史の顔を撫でながらつぶやいた。

 飯田家の次には村瀬家への手伝いが決まっていた。村瀬夫妻は七十代の老夫婦で三人の子供たちはそれぞれに家庭を持ち都会で暮らしていた。村瀬さんは村でも評判の頑固者で通っていた。 笑った顔など滅多に見せず、ほとんど口も利かなかった。その年には見えぬ筋肉質の体格と眉間の大きな傷は近寄りがたく、例えるならまるで鬼のような形相を呈していた。和尚はわがままで泣いていた子供が村瀬さんを見て、急に泣き止んだのを見たことがある。

しかし、その時の村瀬さんの子供を見る目が優しかったことも和尚の記憶には残っている。和尚は暇があると尾崎さんを訪ねた。邪魔をせぬよう、農作業が終わる夕方に顔を出し、まだ、終わっていなければ手伝う。後片づけまで済ませると、二人は畑を見ながら畦道の土手に腰を降ろす、。尾崎さんはいこいを出すと百円ライターで火をつけ、うまそうにくゆらせる。和尚はタバコを吸わないが、なぜかその臭いと雰囲気が好きである。懐かしくて、安心するような、一言で言えば父親の匂いをそこに感じるのである。だから和尚は黙って隣に座っている。

奥さんが来ているときは、お茶とお香こなどを出してくれる。奥さんは村瀬さんとはまったく逆の小柄でいつも微笑んでいるような可愛い人である。夫婦はだんだん似てくるなどという人がいるが、他人が、この二人を見て、夫婦だとは絶対に思わないだろう。雰囲気がかけ離れている。しかしこの二人は仲がいい、和尚はいつも見ているとうらやましい。

夫婦の理想像をこの二人に見ている。独り者の和尚のあこがれがだった。

 良くついたお香こをあじわいながら、お茶を飲む。三人はセピア色に染まった畑をぼんやり見ている。心地よい安心した寂しさが和尚の心を満たしていた。

「さあ、暗くなってきました。帰りましょう」奥さんが静かに立ち上がり、片付けながらささやいた。村瀬さんはうなずいて、かごに入れた農耕具を背負い、両手に奥さんが持っていた荷物を取った。和尚はあわてて村瀬さんから荷物を奪い取った。

奥さんは歩きながら童謡を歌った。村瀬さんは黙って聴いていた。表情はまったく変わらないが、その歩き方は主人と散歩に出かける子犬のように

軽やかで、喜びに満ちて見えた。和尚は手拍子と合いの手で一所懸命

奥さんに答えていた。この帰り道は三人にとって間違いなく娯楽であった。

村瀬さんのうちは平屋建ての普通の家だが、その広い庭にいろいろな花を植えていた。奥さんの話では手の掛からないものばかり選んでいると言っていたが、百花繚乱咲き乱れ,、花畑の中にかわいい家が生えているようで、和尚はいつもおとぎのくにのおうちを思い浮かべる。ガーベラとひまわりに挟まれた小道を抜けるとツタが作り物のように絡まったアーチ型の門をくぐる。その時奥さんは門に括り付けた鳥の巣箱のようなポストを確かめる。

そこは郵便物が長く来ない時は本当に鳥が入っていると村瀬さんが言っていた。「ああっやっぱり」という奥さんの声に、和尚は鳥がいたのかと、急いでのぞき込む、しかし、奥さんはポストの扉を開け中から封筒を取り出すと、うれしそうに村瀬さんに話しかけた。

「お父さん、君子からの手紙、何となくそんな気がしていたの、わっ、みぃちゃんの写真入っている。また、大きくなっているみたい」奥さんはハイテンションで写真を手に持って、さわいでいる。

「ほら、みっともない早く家にあがって和尚さんに冷たいものでもお出ししろ」村瀬さんは諭すように言った。

「わかっているわよ、和尚さん、「強く、やさしい、素直な君へ」

もうビールよね。キンキンに冷えた奴、昨日から準備しているのよ、枝豆も冷やしてあるの。みぃちゃんの写真もゆっくりみせてあげるは」奥さんは写真を振りながらウインクした。「ばかやろう、誰が人の孫なんか喜んで見るか」怒った口調で村瀬さんが言い返した。「人の孫じゃないわよ、うちの可愛いみぃちゃんよ」奥さんの口は尖っている。

村瀬さんは目を閉じた。そして、それ以上しゃべるのをやめ、黙ってさっさと家に入っていった。反撃の準備をしていた奥さんも拍子抜けしたように、続いた。

部屋は日中の照り返しで多少暑くはなっていたが、戸締まりをせず網戸のままだったので、風が通り、和尚が想像していた熱さとは違っていた。

「和尚さん、疲れたでしょ。ビールにします、先にお風呂にしますか」

「汗かいてしまって、汚いし臭いと思いますので水を浴びさせてもらえればありがたいです」

「大丈夫うちのはガス式でひねればすぐにお湯が出てくるから5分でたまるからちょっと待っていて」言うが早いか走っていった。

「まったく急がしいばあさんだ」村瀬さんは縁側のガラス戸を全開させ、逆の窓も開けた。縁側で服をはたき、首に巻いた手拭いを外すと汗をふいた。奥の和ダンスまで歩いて行くと上に載っていた大きな缶のようなものを

持って、中央のちゃぶ台の前に胡座をかいた。缶は蚊取り線香だった。煙草用の盆に載ったマッチを擦り 、火を点けるとすぐになつかしい匂いがした。「日本の夏蚊取り線香」和尚がうれしそうにつぶやいた。

「ここはご覧のとおりの植物御殿で藪蚊が多いんだ」缶を縁側手前の廊下に置き、また、ちゃぶ台の前に胡座をかいた。何も言わず煙草に火を点け、くゆらせ始めた。奥さんバスタオルと浴衣を持って現れた。

「和尚さんお待たせ、ひとっ風呂浴びてください、お父さんのでちょっと小さいかもしれないけど」和尚は受け取りながら、驚いたように言った。

「わっ浴衣が糊でぱりぱり、まるで旅館のものみたいですね」子どものように頬でさすってみる。

「お父さんが、これでなかなかうるさいの」奥さんが村瀬さんの顔を見るが、

反応せず、平然と煙をだしている。和尚はふたりに頭を下げ風呂場に向かった。

「ああっ、気持ちよかった。遠慮なくお先いただきました」オートメーションで洗ったピッカピカの牛乳瓶のように顔は輝いていた。

「浴衣はやっぱり寸足らずだね、西郷さんみたい」奥さんが声をかける。

和尚は笑って胸を張り、銅像のように構えた。

「ほんとうに糊のかかった浴衣は背筋がしゃんと伸びます」ラベルにまで霜の降りたビールと、これもよく冷えているであろう枝豆がテーブルにでている。

和尚はテーブルに着く前に、電話を借りると梅婆の家に電話を入れて健史の様子を確かめた。

「健史ちゃんはどうだったの」奥さんが聞いた。「大丈夫です。何も心配ないと、藤村さん家の皆さんに可愛がってもらって上機嫌のようです」

「健史ちゃんは本当に誰にでもなつくし、皆のアイドルね」

「私に育児の方針なんてありませんが、あるとすればひとつだけ」

奥さんがビール瓶を鍋つかみで掴んで、これもまた氷のようなグラスに注いでくれる。三人でグラスを合わせ、口をつける。

「やだ、唇が痛い」「ええっ、のどが凍ったようです。たまりません」

村瀬さんは、「うっ」と言ったきり、後頭部を押さえている。

「お父さんたら」奥さんはそう言いながら、村瀬さんのコメカミと瞼の間あたりをつねる。

「何ですか、奥さんそれ」「こうすると、後頭部のズキンとした痛みがとれるの」「本当ですか」自分にやってみる和尚。村瀬さんは何もなかったようにまた、ビールを飲み始めた。

冷蔵庫のビールが空になった頃、奥さんは泣いていた。涙ぐむというよりも

ウォン、ウォンと号泣していた。

「だって、みぃちゃんがかわいそうで、かわいそうで」この言葉を何度も聞かされた。

「あの子は生まれたときから何も見ていないの、花も、犬も、空も、おかあさんの顔でさえ」村瀬さんはその言葉一つ一つを何も言わずに聞いている。「わたしの目があげられればいいのに、私はもう十分見たもの、でもだめ、それは無理らしい」奥さんはまた大粒の涙を流す。村瀬さんの顔は蒼ざめ、目は硬く閉じられた。

二人の様子に和尚も目を滲ませていた。

「きっと、今の医学の進歩なら治せる道が見つかります。信じて待ちましょう」「ええ、うん」返事をしながら奥さんは酔いつぶれてしまった。

村瀬さんは静かに立ち上がり、奥の部屋に入り、しばらくして戻ってくると奥さんを抱えて、また入っていった。先ほどより、時間が掛かり帰ってくると、そのまま、台所に寄り、置物のたぬきが持っているような荒縄の付いた大きな徳利の芋焼酎と大きな盆に奥さんが作り置きしてくれたであろう肴の小皿をいっぱいのせて来た。

「今夜は飲もう」言うが早いか和尚のコップに焼酎をぐいぐいつぎ、自分のコップにも同じようについだ。

和尚は目を丸くしながらも、嬉しそうに村瀬さんと杯を重ねた。

酔いが回ってきた和尚が聞く「奥さん今日は飲み過ぎたれすか」全然酔っている風情には見えない村瀬さんが答える「この頃ずっとあんな感じだ」

「つらいれすね」定まらぬ焦点で村瀬を見つめる。

「邦男が死んだときもそうだった、もう戻らないのに、ああでもない、こうでもないの繰り返しで、もっくりかえして、自分が衰弱してゆく。あれは誰のせいでもない。運が悪かった」

「和尚の提案でこの庭を花畑にして、一生懸命二人で没頭して、だんだん花が咲いてうれしくて、やっとあいつも切り替えたと思ったら、まただ、女ってこういう生き物なのか、えっ和尚」強い口調で問いかけた。

「ぼくにはわかりましぇん」ひょいと頭を下げたとき、はずみでちゃぶ台におでこを打ち付け、その拍子に「すみません」とあやまった。

「あっははは、やっぱり、和尚はおもしろい」村瀬さんはそれまでの渋い寡黙の表情など吹き飛んで、はしゃいで笑った。

ダウン寸前の和尚だったが、村瀬さんの笑い声に喜んで、さらに笑った。そして、そのまま寝てしまった。

村瀬さんは瓶に残った酒を自分のコップにつぐと一気に飲み干し、大きく背伸びをした。寝室と対面の部屋に入り準備してあった布団を敷き、真っ白で、パリッとしたシーツを付けた。それは清々しい香りがした。

い朝、和尚は朝の光で目が覚めた。驚いたように飛び起きて辺りを見回した。「あちゃー、何もおぼえていない」障子を開けて部屋を出る。そこは皆で飲んでいた居間である。しかし二人はいない。他の部屋も見回すがやはり、いない。柱の時計は6時15分を指している。その時外から奥さんの声が聞こえた。急いで縁側に出て、声の聞こえた庭を見ると、二人は草花の世話をしていた。村瀬さんはドラムホースで水をやり、奥さんは

植木ばさみで選定をしていた。和尚を見つけた奥さんが声をかけた

「もう起きてしまったのゆっくり寝ていればいいのに」和尚は何も言えず、ただ頭を掻いていた。「大丈夫二日酔いじゃない」和尚は「奥さんのほ・・・」といって言葉を飲み込んだ。そして、朝早くから元気に働く二人に敬礼をした。

三人で卓袱台を囲んでの食卓になった。お豆腐と油揚げのお味噌汁にぴりっと辛い青首大根おろし、別添えのしらす干し、そして昨日の夕飯残りの肉じゃが、味がとろとろに滲みている。一晩置いた煮物はその甘辛い味が素材本来のもののように馴染んでいる。

後は奥さん自慢のぬか漬け、漬け物に目がない和尚はすぐに食べて味を誉める。「奥さんのぬか漬けはとにかくうまい。ここのを食べると、しばらく味が忘れられない。村瀬さんは幸せものだ」とばくばく食べる。奥さんはまた新しいものを出してきて勧める。すべて平らげる。和尚は根っからの人気者である。

 満足の食事を終えたところで、電話を借りて健史の様子を伺う。

「どうも、武田です。ありがとうございます。ええっ昨夜は久しぶりにお酒をごちそうになり、つぶれました」

「もちろん、大丈夫です。わかっています。はい、健史をですか」

「おうっ、健史か、父ちゃんだぞ、わかるか」

「はっはっそうか、わかるのかとうちゃんのこと、そうか」

「早く迎えに行くからな、いい子にして待っていろよ、うん、うん」

くだけた笑顔で頷いていた和尚が、真顔に戻った。

「あっすみませんでした、ええっ、なにか健史もわかったようでありがとうございました」

「はい、早めにお伺いいたします、いえ、だめです。今日連れて帰ります。ありがとうございます」電話を置くとうれしそうに顎をなでた。

奥さんが何か言いたそうな和尚に声をかけた。「健史ちゃんはどうでした」

目を大きくして和尚が話す「健史と今、電話で話したんです、あっ話したというか通じたんです何か」和尚は目を輝かせて訴える。「健史ちゃんのことになると本当にうれしそう」奥さんは笑って和尚のひざをたたいた。ちらり村瀬さんの顔を見ると、たばこをくわえたままだが、目尻は下がり、明らかに優しい顔で和尚をみていた。奥さんはその横顔を見つめていたが、村瀬さんさんがその視線に気づくと、すぐにそらした。

和尚は真ん丸い目に笑顔をたたえたままで何も気づかなかった。

その日の和尚の仕事ぶりはすさまじいものであった。ほとんど動きを止めずに、草刈に集中した。普通の人の三人前、四人前の仕事量であった。

この荒地の草刈は三日から四日を予定していたが二日で終わってしまった

夕方にはまた、土手に座って一服をつけ、三人で歌いながら帰ってきた。

しかし、和尚が昨日に比べて早く歩くので、家に着くころには三人とも息が上がっていた。和尚はすすめられた風呂も断った。

「今日もご飯たべて泊まっていけばいいのに」奥さんが寂しそうに言った。

「少しでも早く、健史の顔が見たいです、。すみません」和尚が頭を下げる。

「そうよね、健史ちゃんが待っているものね」「では、これおつかれさまでした」奥さんが封筒を渡した。和尚はすまなそうに不器用に受け取った。

「ありがとうございます」深々と頭を下げた。顔を上げると和尚スマイルが広がった。

「こちらこそありがとうございました。和尚さんの仕事ぶりは尋常じゃないもの、普通の人の三倍、四倍すごいわ、疲れたでしょう、ほらお父さんもお礼言って」奥さんは村瀬さんの袖を引っ張った。「ああっ」

「まったく、このひとったら」奥さんが村瀬さんの尻をたたいた。

「ご馳走にばかりなっちゃって、楽しかったです。また寄せさせてください」

健史の待つ田中家まで、村瀬さんが軽トラックで送ってくれた。車の中で村瀬さんは一言もしゃべらなかった。そして、降りるときに一言「ありがとう、健史ちゃんと泊まりに来てください。お願いします」と言った。和尚大きな声で「はい、ぜひ」と言って車を降りた。そして、車が見えなくなるまで見送った。

 不意に思い出したように小走りで玄関に寄ると、挨拶よりも早く木戸を開け、家の人が応対にくるのも待たずに靴を脱ぎ捨て、板張りの廊下に上がり込んだ。幸枝さんが現れた時には部屋に入る寸前であった。

「まあっ、びっくりした。和尚さんたら」幸枝さんは驚いたように叫んだ。

もともと、この田舎町の人々は皆が皆を良く知っている。家に鍵など掛けないし、他人が上がり込んでいても問題など起こらない。村ぐるみ親戚のような所である。だから普通なら和尚が勝手に部屋に入っても誰も文句など言うはずもない。だが、逆に村中の皆が和尚の気性や人となりを良く知り尽くしている。だから驚いたのだ。

 幸枝さんに不意に声をかけられて、和尚が返した言葉は「健史はどこですか」だった。

幸枝さんは思わず笑い出した。

 「まるで、人さらいから取り戻しに来たみたい」

「すみません、失礼でした」和尚はあわててお辞儀をした。

後ろでしわがれた大きな声がした。「かっかっかっ、人さらいの総大将梅婆

だ」健史をおんぶ紐で背中にくくりつけていた。

 健史を見つけた和尚は「おおうっ」と吼えた。同時に健史も「おきゃ」と啼いた。

「なんだい、この二人はくやしいね」梅婆が和尚の顔を見ながら、不満そうにつぶやいた。

「そうね、相思相愛ね」ひやかすように幸枝さん。健史は和尚の方に行こうと両手を振っていた。

「あんなに婆になついていた坊はどこへ行ったんじゃ悲しいぞ」

しかし、健史はそんなことにはお構いなしに和尚に抱きつこうとしている。

「健史」和尚は無骨で大きくそして暖かい手で、健史を掴んだ。

健史は、ほうっと声をあげた。

悔しそうだった梅婆も「よかったの」と、手の甲で健史の頬をなでる。まるで

頭を下げているように健史は首を振る。

 「この子は賢いの」とうなずく。

 その時赤ん坊の大きな鳴き声がした。

 「おっ、家の宝が起き出したようじゃ、どれ見てくるかの」梅婆はいそいそと奥に戻っていった。

顔にまとわりつく健史をいなしながら、幸枝さんに頭を下げる。

「いつも、いつもありがとうございます。ご迷惑ばかりですみません」

かぶりをふって幸枝さんが答える。「とんでもない、ご覧のとおりおばあちゃんは喜んでいます」エクボスマイルがまぶしい。

「でも、家の子たちは少しやきもちをやいているかも」

「あっ、みっちゃんですか」目を合わせられずに和尚が聞く。

「そう、それから茂太も」

「茂太ちゃんて、健史と同じ赤ん坊じゃないですか」健史が頬をぺたぺた叩く。

「こらっ、健史」手を柔らかく払いのける。

「そう、赤ん坊。でもわかるの。ううん、だからわかるの、誰を可愛がっているか」和尚をのぞき込むように、顔を近づける。 

和尚の目が大きく見開き、健史を盾にして苦しそうに離れる。

「ああっ」ため息とも、うめきともわからぬ声を発する。

「健史ちゃんは誰にでも人なつこくって、可愛いの。だから子どもの親として嫉妬しちゃう」幸枝の顔は笑っていたが、目が本気なのはすぐわかった。

和尚は我に帰ったように、姿勢を正し、唇をかみしめる。

「幸枝さん、ごめんなさい」健史を見つめる。

「なんで、あやまるの、私変なこと言っちゃった。私こそごめんなさい」

幸枝さんは大きく頭を下げ、冷たいものでもと言って、和尚たちを居間に上げると奥に入っていった。

健史は和尚にくっついて、奇声をあげていた。


和尚と健史は久しぶりに家風呂を楽しんでいた。健史をガーゼタオルと赤ちゃん石鹸できれいに洗い上げ、専用シャンプーで髪も終わった。自分も頭から足の先まで石鹸を塗りたくり、タワシでこすった。きれいに洗い流し終え、二人で湯船に浸かり、くつろいでいた。和尚は鼻歌を歌いかけ、途中でため息に変えた。

「健史、人付き合いはむずかしいな。お前が可愛いからってねたまれてもな、お前のせいじゃない」健史は湯船の中で和尚が立てたひざの上に座り、お湯を叩いて遊んでいる。たまに、和尚の顔にお湯がかかる。顔を拭うが、怒ったり、止めたりはしない。やがて、健史は真っ赤になって、ぐずりだす。

「のぼせたか、十分暖まったな。おいしいチュウチュウ飲もう」健史の体を拭き寝間に着替えさせ、和尚は半裸で居間に座った。お約束のチュウチュウのほ乳瓶を含ませ、やさしくウチワで扇ぐ、座布団を合わせて健史を寝かせると、「父ちゃんもチュウチュウの液体だ」と冷蔵庫からビールを出してきた。わざと泡をたてながら大きいコップに注ぐ。

「ほら、ビアジョッキー」健史に見せる。「ようし、一気」大きく息を吐いて、コップを両手で持つと、グイッと底を上げた。白い雲ののった黄金色の液体はストレートに流れてみるみるうちに無くなった。飲み終えると白い髭を上向きに吹き飛ばした。健史はその様を手を叩いて喜んだ。

「お前は何にでも喜んでくれるな」ひとりうなずくと、左手グローブにげんこつボールをたたき込んだ。そして、また、うなずくと、「それがすべてだ。がんばるぞ」と自分に宣言するように大きな声で叫んだ。



蝉の声が村を埋め尽くす夏の盛り、和尚は健史の夜泣きに悩まされていた、その年の狂ったような猛暑と健史の夜泣きが和尚の睡眠を奪っていた。

 「健史、どうしてそんなに泣くんだ、どこか痛いのか、とうちゃんには、わからないよ、どうしたらいいんだ」

抱きかかえいくらあやしても健史は泣きやまない、ただ、只泣くばかりである。

 熱を計ってみる、平熱である。オムツを替えてみる、濡れてはいない。ミルクを作ってみる、飲みはしない。いろいろ考え試してみる。しかし、効果は無い。健史は泣きやまない。また、あやし声をかける。また一段と泣き声は大きくなる。いや、そう感じる。

 和尚は、育児書をまた読む。何度も読んだ部分だがまた、読み返す。同じところを何度も読む。赤ん坊への不安と自分の睡眠不足であきらかに、ノイローゼ気味の行動である。

 「健史、どうしたらいい」と声を荒げて聞く。そして、健史はまた、大きな声で泣くこんなことの繰り返しに、和尚は参っていた。

 

 「うるさい」咄嗟に和尚は手を上げた。「あっ」下げたその手を見つめる。

「俺はなにをしているんだ、赤ん坊に」健史は変わらず泣いている。

「ごめんな、健史、父ちゃんバカだな。まだ、まだだ、お前は何もわからない、わからないから泣いているんだ。熱は無い、顔色も良い、オムツも大丈夫、でも泣きたいから泣いている」和尚は健史の顔を撫でた。

「これは父ちゃんの修行だ。大丈夫、健史、父ちゃんずっとそばにいる、おまえを見ているよ、いくら泣いてもいい、父ちゃんずっと起きている。」和尚は健史を優しく抱いて微笑んだ。健史はまだ泣いていた。抱いている和尚の手は極度の疲れか震えていた、しかし顔は穏やかな表情で健史を見つめていた。

それから数日で夜泣きはぴたりと止んだ。

和尚は定期検診と報告で日野医院をおとずれていた。

「先生、夜泣きが止みました」

「それは良かった。何かやったのか」健史の股関節を触診しながら、聴く。

「いえ、何も、ただ、先生にも相談したとおり、ぜんぜん泣き止まず、不眠でノイローゼになりかけ、健史に手を上げそうになりました。」

「えっ、手を上げるって赤ん坊だぞ」和尚はうつ向いて、小さな声ですみませんと言った。

日野先生は宙を見てため息をつくと「和尚がそんな状態になるなんてよほど困ったんだな」そう言いながら、健史の目を診た。

「はい、ほんとうに参りました、でも手を上げた自分に気付いた時、もう情けなくて、悲しくて」和尚は下を向いたまま話した。

「結局はなにもしなかったんだろ」「ええ、体では、しかし心では完全に健史を叩いていました」

「そんなに自分をせめるな。親なら誰でも経験することだ。和尚、健史親子は本物だ」返事をしない和尚。日野先生は触診を終え、不慣れな手つきで産着を着せ始めた。和尚はあわてて日野先生から引き継ぐ。

「今日は婦長が孫の七五三で休みでな、すまんな」右手の二本指をこめかみにつけ軽く敬礼を返した。和尚の顔に少し笑みが戻った。

 「しかし、皆、子供が大切じゃ。家庭はすべて子供が中心。親も、年寄りも自分は我慢して子供を一番に。いいのか、悪いのか。確かに日本人は子供を大切にする。日本の行事はほとんどが子供を楽しませるものだ」ここで息を吸って一気に語り始めた。「正月のお年玉から始まって、節分の豆撒き、雛祭り、端午の節句、七夕、花火大会、秋の大運動会、最後にクリスマスのプレゼントだ」そこまで語って一休み机に置いてあったペットボトルのお茶に口をつけた。そしてまた話出す。「もちろん子供は未来だ、大事にしなければいけない。しかし過去もましてや、現在を大切にして生きなきゃだめだ」日野先生はひとりうなずく。「親が居なければ、子供は存在しないんだ。和尚あっての健史なんだ」

「だから、堂々としていろ、気に食わなきゃ、ひっぱたけばいい。それでも子供はちゃんと育つ」日野先生の激励の言葉は和尚に響いた。下げていた顔を上げ。先生を見つめた。「よし、定期検診は終了だ。どこも異常なし、至って健康。しかし、なぜ急に夜泣きが治まったのかな」日野先生が和尚の顔を伺う。

「何が原因なのかはわかりません。ただ手を上げようとした自分に気づいた 後、これは不眠と世話の行だと思い、徹する気持ちなりました」 

「和尚らしいな、それから治まったのか」和尚は黙ってうなずく。

「単に時期的なものだったのか、それとも心の移り変わりが伝わったのか、

何とも言えないが、医学でもわからないことは山ほどある。人は不思議だな和尚」あごを掻きながらつぶやく。

「はい」入ってきた時よりもあきらかに明るい顔になった、健史の父ちゃんが返事をした。


異常に暑かった夏が終わり、火照りの冷めた秋が来た。野外労働で太陽熱に焼かれた和尚は真っ黒になり、ところどころの皮ががむけていた。

健史は春より、ひとまわり、ふたまわり大きくなり、動きも活発になっていた。

 竹田家の電話が鳴る。駆け寄る和尚。「はい、竹田です。三郷村の島野さん、どうも、どうも、しばらくです。一昨年の祭りの飲み比べで後塵を拝して以来ですね、島野さんウワバミだ。はははまた、なにかお誘い、えっ、別、ご先祖供養あっ、はい、すみません9月23日は先に入っておりまして、はい前後と次の日曜日もだめで、25日の午前中でしたら大丈夫です。赤ん坊、健史ですね。わかりました連れて行きます。ありがとうございます」電話にお辞儀をして、切る。「健史、まただ、父ちゃんお努めが入った。健史連れてきてくれだって、春に一緒に行ってから明らかに、お前目当ての依頼が増えた」

「よし、準備だ。おまえのカワイイ外出着を買わなくてわな」健史の顔を見て話しかける。「大丈夫だ夏のアルバイトで皆さんがはずんでくれたお金がある。もちろん大切に使わなければいけない大事なお金だが、おまえの着るものなら皆さんに喜んでいただける」健史の鼻を撫でると、台所に行って朝食の準備をはじめた。

ごはんを竈でたき、みそ汁をつくり、そして健史の離乳食に野菜を蒸して

裏ごす。

和尚の朝ご飯はいつもと同じ麦飯、野菜のたくさん入ったみそ汁、タクアン、納豆である。

納豆を混ぜている。「健史、あのな納豆は混ぜれば混ぜるほど美味しいんだ、早く健史にも食べさせてあげたいな、そうだ、離乳食にいいのか、幸枝さんに聞いてみるか」よく混ぜたまるでホイップクリームのような納豆をご飯に掛けた。いつものように茶碗のご飯を箸で四つに分け、ほぼ四口で食べる。和尚はどんな食べ物でも大きな口でうまそうに食べる。

「ああっこのたくあんも美味しいな、瀬戸さんの旦那さんが漬けたんだ、ぬか漬けは奥さんだけど、たくあんだけは別らしい」

最後に残ったたくあんを一切れ口に入れ、ご飯茶碗に魔法瓶のお湯を注ぎ、箸できれいに中をこすり、最後に濁った白湯を飲み干す。そして、和尚は健史の顔を見ながら両手を合わせて「ごちそうさまでした」と食事を終える。健史もわかるのか、合図のように何か言葉を発して、瞬きをする。こうして二人の朝食が終わる

夜明けとともに起き、体の鍛練、読経、朝食と終えると、午前中は家事をこなす。まず、食べ終えた食器を洗い、水切りに上げる。次は洗濯。健史の汚れ物が中心で少し和尚の下着が混ざる。洗濯機を回す間に部屋とお堂の掃除。部屋には濡らして絞った新聞紙を撒き、ほうきで掃きながら棉埃を集めていき、最後にちりとりで取る。お堂は水拭きのぞうきんがけをする。この時は健史をおぶって腰を低くして、お堂の端から端を拭く。

健史は喜んで和尚の上で跳ねる。掃除が終わる頃には洗濯が終わっており、健史を背負ったまま、晴れていれば外に干しに出る。和尚が作った丸太の物干し台が十分な間隔を置いて五本並んでいる。パンッ、パンッと洗濯物を伸ばしながら、手際よく丸太棒に干してゆく。このとき、和尚は童謡を大きな声で唄う。健史に聞かせるために。健史は身を乗り出して自分も唄っているように体を揺する。

「秋の夕日に照る山、紅葉、濃いも薄いも数あるなかに、秋を彩るかえでや、つたは山のふもとのすそ模様」「キンコンカンコン、キンコンカンコン」和尚が自分で鐘を鳴らす。ワンマンショーが終わり、部屋に戻ると、水を切っておいた食器を棚にしまう。最後に健史の離乳食用キリンさん椀を置き、カバさんスプーンを箸立てにたてると終了。この頃には健史ははしゃぎ疲れて寝ている。和尚は目を覚まさせないように背中からそっと降ろし、昼寝用のベビーベッドに寝かせる。肩をさすり、首を回しながら居間の卓袱台の前に腰をおろす。「よっこらっしょと」思わず言葉が出る。お茶盆から急須と茶筒を出し、大きな湯飲み茶碗にお茶を注ぐ。湯気を見ながら、ゆっくりお茶を含み、肩を降ろす。また、お茶を飲み、卓袱台に頬杖をつく。「ふあああ」大きなあくびで、ごろりと横になる。腕枕で横を向くが、急に何かに気がついたように急いで体を起こし、立ち上がる。そのまま健史の寝ているベッドに行く。健史の顔に顔を近づけ様子を伺う。健史は軽い寝息をたてて眠っている。「何でもないか、大丈夫か」そう言って、今度は健史のそばに横になる。ただ、ただ健史を見ている。横になって見ていると顔がよく見えないのか、だんだん体を起こしてしまう。そしてついに正座して健史を見つめていた。そのうち健史は目を覚まし、大声で泣き出した。和尚は急いで立ち上がると、背中に手を回しおしめを調べた。「おしっこしてるな、あれ、うんこもか」そう言うと急いで替えを取りに走った。手際よくおしめを替え、外したおしめを見る。「いっぱいしたな、色も良いぞ。これじゃあお腹も空いただろ。マンマにしよう」健史に話しかけ抱えて台所へ行く。

ママ友に教えてもらった生後6ヶ月から座れるイスに腰掛けさせると、離乳食の準備にかかる、和尚はなるべく、既製の缶詰やレトルトパックのものを使わない。野菜や果物は下ろし金で摺り、必要なら裏越す。多めに作って期間を決めて保存する。

今日の献立は三分粥、茹でたじゃがいもと人参を裏漉しし、みじん切りのキュウリをさらに細かく切り、鱈を薄味で甘辛く煮て潰す。さらに、豆腐とゴマの和え物、デザートフルーツにおろしたリンゴ、潰したバナナそして70cc ほどのミルクを用意した。和尚の昼は朝の残りの味噌汁をぐつぐつと煮立て、そこにひきわり納豆と刻み葱を入れ、それをご飯にぶっかけたものだ。健史の御飯の準備が終わるとこれを作って冷ましておく。

テーブルに並んだ手作り料理を少しずつスプーンで食べさせていく。

「健史、マンマ美味しいか。いっぱい食べろよ。健史と居るときはいつも楽しいけど、ご飯の時が一番だ」次々に食べ物を口に運んではその表情を確かめる。「おっ、豆腐が好きか、やっぱりとうちゃんの子だな」ひとりで深くうなづく。キュウリを口に入れるとイヤイヤをした。「だめだ健史、野菜をとらなきゃ、しなやかになれんぞ」かぶりを振る。「そう、魚を食べると目んめがきれいになる」こぼれんばかりの笑顔になる。最後にミルクを飲ませる「健史うんとうんと飲んで、でかっくなれよ。早く父ちゃんを見下ろしてくれよ」食後の背中たたきを終えると、健史を座らせたまま、さっき作った、ぶっかけご飯をかっこむ、早い、簡単に言えばひと飲みだ。「ふうっ食った。さあ少し休んだら町に買い物に出かけような健史」そう言って立ち上がると、すぐに、食べ終わった食器を洗い始めた。

 外は秋晴れのお出かけ日和だった。健史を背負いながら、バス停まではいつものスクーターで行く。スクーターは邪魔にならないように置いていく。バスは二十分ほどで来た。乗るとすぐに、運転手が声をかけてきた。

「和尚さんお出かけですか」制帽、黒縁メガネ、バス会社の刺繍の入ったネクタイをきちんと締めた運転手は丁寧に聞いてきた。

「丸木屋にこの子の着るものを買いに行きます」和尚ははっきりこたえた。運転手は微笑んでうなずいた。そして優しい声で「バスが発車いたします、危険ですのでお座りください」とアナウスした。和尚は近くの座席に健史を気にしながら、ななめに腰掛け、手すりに掴まった。運転手はそれを確認すると、ギアを入れ、静かな声で「発車オーライ」とつぶやいてゆっくりと動かし始めた。

 和尚は健史に流れる外の景色を見せようと体をずらし、ぼんやりと外を見ていた。健史はバスの大きな窓に顔と手をくっつけ驚きの声を上げていた。

その時、バスの後ろから「和尚さん、和尚さん」と呼ぶ声が聞こえた。和尚が何気なく振り返ると、後ろの出口ドアーの横座席で手を振る年輩のカップルがいた。

「あれ、奥山さんじゃないですか」和尚は大きな声で手を振り返した。

「今、そちらに行きます」窓に吸いついている健史を離し、よだれの付いた窓を袖で拭うと、おぶり紐を締め直し、座席の取手と吊革に掴まりながら移動した。健史をずらし体格の良い真っ黒な男性の横に座った。

「お久しぶりね和尚さん、」隣の婦人が声をかけた。痩せているが身長は170cm以上ある。日焼けした端正な顔だちはまるで外人のようだ

「この間はお米とじゃがいもありがとうございました」和尚が深々とお辞儀をする。「留守みたいだったんで、玄関においていったんだけどわかった」真っ黒な奥山さんが問いかける。「もちろんです。この時期になると、いつも楽しみにしてしまいます、ご負担ばかりかけてすみません」

「とんでもない、喜んでいただければ、なによりです」奥山さんが微笑み返す。「今年から健史がいるもんで、すごい助かります。健史はいただいたお米で作ったお粥も、蒸かしたじゃがいもも大好きです」「あら、もうお芋も食べれるの」奥さんが身を乗り出して聞いてくる。「ええっ裏漉しして食べさせています」「相変わらず和尚さんはまめね、うちのにも見習わせたいはねえ」と語尾強くだんなさんをみる奥さん。だんなさんは目をそらし、不意に健史の腕を掴むと「大きくなったね」と和尚に視線を預けた。和尚は軽くうなずくと「はい、よく食べるし、よく動くし、あと声も大きいです。たまに見ているうちに大きくなっているんじゃないかと思ってしまいます」二人を交互に見ながら話した。

「まあ、大げさ、健史ちゃんが可愛くてしょうがないのね、しあわせね」奥さんはそう言うと、ふっと遠くを見ているような表情になった。目をそらしていたはずのだんなさんが奥さんの顔色を伺うように急にしゃべり出した「冴子、今日は私が特製のビーフシチューを作ろう、牛福でたらふくの肉と、あと君の好きなボルドの赤ワインを買って帰ろう」陽気に弾むように真剣に語りかけたが、奥さんの瞳が輝やいたようにはみえなかった。しかし「ありがとう、あなた」奥さんは笑顔で返した。和尚は二人に何かを話しかけようとすするが、口は半開きのまま、言葉が出てこない。その時急に健史が両手を開き二人の方に行きたがった。和尚は健史を抱えて二人の間に向けた。健史は嬉しそうに「ホウホウ」と声をあげて手足をバタつかせて、二人に両手をかけ、腕を掴んだ。「健史ちゃんどうしたの、何か言いたいの」奥さんが声をかけると健史は、さらに喜んで腕を掴んで力を入れた、二人は引っ張られるような格好で近づいた。今度は二人の顔に健史が顔を突っ込んだ。和尚はあわててその動作についていった。四人が顔をつき合わせるよような姿勢になり、健史が中心にいる。その中から花火が打ち上げられるように大喜びの健史がはしゃいで弾けた。健史は両手上げて、踊るように手を振り、大声をあげた。顔を近づけていた、大人三人は耳元で騒がれ、驚いて開いた。そして皆が全く同じように目を丸くして、口を尖らせていることに気づき、お互いに大笑いになった。今度は健史がその笑い声に驚いてキョトンした顔になり、「しょぼう」と言った。いや、そう聞こえた。その健史の言葉もどきと情けなさそうな顔がまた、皆に穏やかな笑いを誘った。

大人たちの優しい笑顔で健史はまた元気になり、はしゃぎだした。「健史ちゃんありがとう、なんだかいっぱい励まされたみたい。元気になったわ。そう、健史ちゃんみたいに一生懸命にはしゃいだり、しょぼんとしたり、それが当たり前なのよね」奥さんは自分に確かめるようにそう言った。

健史は奥さんの顔を見て「しゅてき」と言った。ように聞こえた。奥山さんは健史と奥さんのその様子を見ていて、目が山なりの糸くずになりっぱなしで、和尚は何か言いたいのだが、何も言えなくて口がロクロで失敗した茶器のようになっていた。

バスは田舎道から抜け出し、舗装された町の道路を走り出していた。

「次は尾道駅前終点、文化の総合デパート丸木屋はバス停そば、本日営業です」運転手さんの声に外を見る奥山さん「ああっ、もうこんなところか、健史ちゃんを見ていたらあっと言う間だったな」頬とあごをこすりながらそう言う。「ところで、和尚さんたちも丸木屋にいくんでしょ」奥さんが健史と手を取り合い、まるでミュージカルのようにリズムをとって和尚に聞く。「はい」リズムにのれていない

白い豪奢な造りの丸木屋はまるで城のように見える。和尚が正面エントランスで、ジャンプする二匹の大理石白イルカを撫でる。健史も反応して触りたがり手足をバタバタさせる。

「ここに来ると心が躍ります。いくつになっても楽しみです」

「私もよ、ここは特別、よく、この人ともデートに来たわ。店内を目的もなく歩き回って、屋上で町や住んでる村をただ眺めて、くだらないことを何時間も話して、あっ、誕生日にハートのネックレスを買ってもらったりした」

「それは俺じゃないよ」苦笑いの奥山さん

「あら、そうだったかしら」素知らぬ顔の奥さんは淡々とつぶやく。

健史はイルカにチューをしていた。「健史もここが気に入ったようだ」


店内に入り、案内板を見て奥さんが宣言した。「もうお昼だし七階お昼にしましょう。」奥さんは健史の手を離さない。

「おう、そうだそれがいい。汗もかいたし、丸木屋和定食にビールだ。いいだろ冴子」奥山さんが奥さんの顔色を伺う。

「二人の時はビールなんて絶対言わないのに」

「そりゃ、冴子さん、和尚さんだっているんだし、のど乾きましたよねえ」一生懸命同意をもとめる奥山さん。和尚は健気に奥さんに向かって頭を下げお願いしますと言った。「まあっ連携プレーね。私も健史ちゃんとおいしいもの食べよ」奥さんは健史の顔を見ながら何が良いと訊ねていた。健史はただ、うれしそうにうなずいていた。

十一時お昼にはまだ時間がある。開店したばかりで客もまばらなお好み食堂のテーブルを四人は囲んでいた。駆けつけ三杯と、奥山さんが和尚に

ビールを勧める、自分も手酌でグイグイグラスを空けていた。

奥さんの注文で、グラスも置けないほどの料理がテーブルに並んだ。健のための粥や、ポテトグラタン、フルーツ盛り合わせなどもつぎつぎ運ばれ、隣のテーブルも連結された。

「おい、冴子こんなに食べきれるのか」ビール瓶とグラスを持った奥山さんがたずねた。

「食べるのよ、何よ、これぐらい。男は食べてなんぼよ。ねえ、和尚さん」

奥さんに振られると急いで目の前のエビ天にかぶりついた。

奥さんは健史の口に冷や奴を運び、自分も残りを食べた。

四人は二時間かけてテーブルの料理を全部平らげた。そして、食べ終えた後も三十分は席を立てなかった。

会計を済ませた奥さんに和尚はお礼を言った。

「奥さん、ごちそう様でした。いつもいつも、ありがとうございます」

「どういたしまして、それより、ごめんなさいね、無理やり食べさせちゃってお腹痛くない」

「とんでもない、健史も私も、久しぶりにおいしいものを腹一杯で。感激です」

「そう、言っていただけると嬉しいわ。ねぇっ、あなた」お腹をさすっていた奥山さんが、あわててうなずく。食事の後、うとうとしていた、健史は和尚の背中で完全に眠っていた。

「和尚さんはたちはこれからどうするんですか」奥山さんが聞いた。

「健史の着るものの生地を買いに行こうと思っています」

「生地って、和尚さんが縫われるの」

「はい、健史に袈裟を縫ってやろうと思います」和尚がまじめに答える。

「袈裟って、あのお坊さんの」奥山さんが驚いたように聞く。

「ご存知のことですが、法事のとき健史を連れて行きますでしょう、それが評判がよくて、最近は先方様から健史を絶対連れてきてとリクエストが入るんです。それで衣装を私と揃えようと思いまして」健史の頭を撫でながら照れている和尚。

[面白い、すごいアイデアね。演出上手は商売上手。あなた、私たちもご一緒しましょうよ」冴子さんは袖を引っ張っている。

「ええっ、和尚さんお邪魔じゃないですか」

「とんでもない、こちらこそ。もし、来ていただいてアドバイス願えるなら、心強いです」

「はい、じゃ決まり、反物は四階ね。行きましょう」冴子さんは長い足で大股に歩き始めた。他の者は引き連れられるように従って歩く。

 四人は買い物を終えてバス停に立っていた。

「和尚さん楽しみね、どんなものできるのか」奥さんが問いかける。

「本当、助かりました。簡単に考えていましたが、仕立てるとなると、型紙やら生地の向き不向きなどまったくわかりませんでした。奥さんがいなかったらどうしようもなかった。しかしいろいろなことご存知ですね」

「冴子は着物の着付けはもちろんだけど、和裁も洋裁もやるんだ」奥山さんが自慢そうに話す。

「そんな、専門的なものじゃないけど、洋裁の教室には通ってたことあるの自分のものや子どものものが作れればいいなと思って、でも結局だめね中途半端になっちゃった」奥さんが遠い目をする。奥山さんはまたそわそわと心配な表情になる。

だんなさんの心配をよそに、奥さんが明るく、「だからね、この健史ちゃんの袈裟は楽しみなの、そこで、和尚さんにお願い。私に縫わせてくださいませんか」

「はい、ありがとうございます。実は今日の買い物で私の浅はかな思いつきを後悔してこれからどうしようかと。すみません、本当に渡りに舟です。お願いできますでしょうか」頭を深く下げる。

「嬉しい、私一生懸命仕立てるわ」

「助かります。よかったぞ健史おまえの袈裟を作っていただける」健史の両手を握って万歳させる。その動作が楽しいのか、状況がわかったのか喜んんでいた。その後も和尚は何度も頭を下げていた。奥さんは生地や型紙が入った紙袋を大事そうに抱え、奥山さんは奥さんを大切にエスコートしていた。夫妻はまだ丸木屋に用事があるとのことだったので、和尚たちは二人で帰路に着いた。

 丸木屋での買い物からちょうど一週間がたった。和尚と健史は奥山家の居間にいた。

和尚は健史と衣装を合わせるために袈裟を着ていた。

奥さんは健史の産着の上から仕立てたばかりの袈裟を着せていた。健史は嫌がることなく素直に、いやまるで、喜んでいるように袖を通していた。

「やはり、少し大きかったかしら」奥さんがかぶりを振る。


「いや、すぐに大きくなりますので、大きいぐらいが丁度いいのです」

「そうね、本当にすぐ大きくなりますもんね」

袈裟を着た和尚と袈裟を着た健史。「すごい似合うな健史」和尚は嬉しくて、嬉しくてしょうがないような満面の笑みで部屋の中を歩き回る。

「落ち着いてください、まるで動物園のクマのようですよ」奥山さんは笑っている。

「奥さんありがとうございます。こんな素晴らしいものを作っていただいて、なんてお礼を申し上げたらいいのか」

「私もとても楽しかったわ、そしてこうして実際に健史ちゃんに着てもらえるんですもの」奥さんは健史を両手でいっぱいに上げ、下から目を細めて見ていた。

「素敵よ、とても似合うわ」健史は抱き上げられて、大喜び。

「喜んでる。おばさんの気持ちわかるのね」頬ずりをすると健史はくすぐったそうに笑った。

そんな2人を見て和尚も喜んでいた。その時、奥山さんが和尚の脇ににそっと立った。

「健史ちゃんは可愛いね。いい子だ。冴子は大ファンですよ。見てください目の色が違います」

「奥さんには何といったらいいか。感謝しております。」

「竹田さん、実はお願いがあります」奥山さんが神妙な顔で和尚に向いた

「どうしました、急にかしこまって竹田さんなんて、びっくりするな」

「思い切って、言います。健史ちゃんを私たち夫婦に預からせてもらえませんか」


「えっ・・・」和尚は言葉にその詰まった。その顔は、驚きととともに深い困惑の表情だった。

「びっくりしたでしょう。でも急な思いつきなんかじゃないんです。ご存知のとおり私たち夫婦には子供ができない。私は冴子をとても愛している

その気持ちはもちろん誰にも負けない。だから、夜だってとても愛している。あっ、いや、そのできる範囲でですが、冴子は情熱的で、理性的で、家庭的で、素敵な女性です。そして素晴らしい母親になります。」段々口調に熱気を帯びてきた奥山さんに奥さんも気づいて、健史を抱いたま、壁側に寄ってきた。まるで遊びに入れない、人見知りの少女のように。二人を見つめていた。

和尚の顔は苦渋に満ちていた。

「竹田さん、大切に育てます。絶対に不自由はさせない。お願いです。健史ちゃんを私たちに預けてください。失礼な言い方ですけれど、子供には両親が揃っていた方が良いと思いませんか」両手は和尚の手を握って

いた。和尚は黙って目を閉じていた。

「ねえ、竹田さんお願いです」奥山さんが和尚の体を揺する。

和尚の体は震えていた。

「奥山さん、すみません。だめです。健史のことを考えたらおっしゃるとおりかもしれません。でも、ぼくは離れられません。健史との縁はもう切れません。」和尚からは大きな涙が流れていた。

奥さんに抱かれて喜んでいた健史が、和尚の異変に気づいたように泣き出した。そして、抱いている手を振り切るように暴れ、和尚のほうに行きたがった。

奥さんはあやそうと窓辺に行き、外を見せるが、健史は泣き止まず、さらにひどく、叫びのようなしゃっくりから、痙攣でも起こしそうな様子で暴れた。

「健史」和尚は急いで顔を袖でぬぐい、健史の元に駆け寄り、丁寧に健史を受け取り、胸に抱いた。

「どうした、健史。大丈夫だ、とうちゃんここにいるぞ」顔を撫でる。

健史は夢中で和尚にしがみつき、確かめるように顔を叩く。その仕草に和尚はまた、泣いてしまう。その涙が健史の手に触れる。健史は和尚の顔をのぞき込み、心配そうな声を発する。和尚は急いで両手で顔を叩き、涙を落とす。「ほら、健史、高い、高いだ」健史をガッチリつかみ高く上げる。

不安そうな様子は治まり、健史は和尚の言葉ににケタケタ笑う。

二人を見ながら奥さんは突然に泣き出した。

「ごめんなさい、私が健史ちゃんを預かりたいなんて言ったから、和尚さんにも心配させて、でも二人は親子、ずっと一緒」

震えているおくさんの肩に奥山さんはそっと手を置いた。その手を頼りに

奥さんは胸に抱きついた

「あなた、私」「ああっ」奥山さんはきつく抱きしめた。

 健史はきょとんと二人を見ていた。そして奥さんと目が会うと、手を上げて「いーっ」と言い、片目をつぶった。いや、そんな仕草に見えた。奥さんは、その一瞬のことに「んっ」と不思議な顔をしたが、すぐに自然に微笑んだ。

 

 お揃いの衣装を着てのお披露目の日が来た。二人はいつものように朝の修行をして、朝食を済ませ、お出かけの準備をした。

 最後に健史の袈裟の形を整え、抱いたまま二人を武道稽古用の姿見に映した。

「健史、いよいよだな。皆、喜んでくれるかな」記念撮影のように畏まって、二人で並んだ。

 外出用の育児セットと沸かしたお湯を入れたポットをお決まりのトートバッグに入れ、おぶり紐で健史を背負い、戸締りを済ませると愛車のカブに跨った。

よい天気だった。すがすがしい晴天の中をカブは快調に走った。途中、村人に出会と、皆、和尚と健史に声をかけてくれる。そして、和尚も挨拶を返す。

三十分ほど走ると、立派な門構えの家があらわれた。広い敷地のなかにカブが入って行く。軽トラックや乗用車等、十台ほどの車が止まっている。

「健史、着いたぞ、市松さん家だ、立派なお家だな。もう皆さんいらしているみたいだ」

玄関をあけると、下駄箱に入りきれない男物、女物、そして子供の靴がきれいに並べられていた。 和尚は他の靴を踏まないように玄関から板の間に上がると、その端にきちんと揃えて草履をおいた。なにげなく気配をうかがうと、

廊下の奥の部屋より大勢の人の活気が伝わってくる。

すると、奥の襖が空いて、初老の男性が出てきた。廁に入ろうとして、振り向いた瞬間、和尚と目が合った。

「和尚、今来たのか、待っとったぞ。噂の健史ちゃんと、おーい、皆の衆、お待ちかねの和尚と健史ちゃんがいらっしゃたぞ」

その声に反応して、年輩の婦人が三名飛びだしてきた。

「まあ、健史ちゃん和尚さんとお揃いの袈裟を着て可愛いこと」

五十代か六十代と思われる三人はすぐに健史を囲み、一人が和尚から奪いとるように抱きかかえると、他の二人はすぐに脇に付いた。

「本当に素敵、よく似合って、とても利発そうね」小柄で色白の婦人がつぶやくと二人はうなづいた。浅黒いがっちりした体格の婦人が顔に触りながら健史に向かって語りかける。「健史ちゃんお願い。うちの息子夫婦にも赤ちゃんを、できたら男の子を」と言って、手を合わせる。もちろん健史は何もわからず、相手をしてもらい喜んでいる。

和尚も婦人の言葉に気がつかないようだった。奥の大広間より声がかかり、早く入るように即された。

婦人三人組は健史をかまっていたいようだったが、あきらめて大広間に入る。続いて二人も入った。

そのとたんに、割れるような拍手が起こった。

驚く和尚と健史、「えっ、いったい何が起こったんですか」不意に健史を守るように身構える。その身振りでまた、どっと湧く。

「皆、待っていたんだよ、噂の二人を、健史ちゃんをぜひ、拝みたいと。」菊池さんのおじいちゃんが答える

「噂ってなんですか。健史のですか」真顔で応える和尚。

「そう、健史ちゃん。奥山さんの奥さん発、」

「はい、ご夫妻にはいつもお 世話になっていますが、何かありましたか」

先程、健史に群がったがっちりした婦人が割り込んでしゃべりだした。

「奥さんが、健史ちゃんが子供を授けてくれたって言うの、そんなばかなこと無いと思うんだけど、泣きながら手を合わせて話すんだもの、それにあれだけ永いことできなかたでしょう、なんだかもしかしてって」納得するようにうなずく、婦人。

「確かに、子供が出来たって、旦那さんが興奮されて電話してきて、ありがとう、ありがとうって、何度もおしゃっていましたが、まさか健史が授けたなんて、ばかばかしい」和尚は手を振りながら笑った。「私だってそう思ったわ。でも、ご夫婦で、いろいろな医者に通っても原因はわからず、評判の良い薬や食物もたくさん試して、旦那さまもずいぶんがんばったらしいの、あら、やだそれはいいわね。最後は祈祷師にまで頼ったらしい、それでも20 年だめだったて」こんどは三人組の中の色白な婦人がそこまで一気に話して息をつき、また話はじめた。

「それがね、健史ちゃんと接して、別れる時にウインクで合図してくれたって、その時はよくわからなっかったらしいんだけど、少し体調に異変があって、その時にピンときたんだって。すぐに旦那さんと産婦人科に行ったらおめでただったそうよ。それを目に一杯涙をためて話すのよ、わたしもついつい、もらい泣き」

「ああつ、わしも旦那さんから直接聞いたよ、嬉しそうっだな。健史ちゃん、健史ちゃんって、興奮していた」初老の男性がゴマ塩頭を撫でながら話す。広間では他にも、私も、俺もと声が上がった。

「ねえ、だからうちの嫁にも授けて欲しいの」

色白の小柄な婦人が健史と和尚の前に出て、詰め寄った。

それまで、笑っていた和尚もその真剣な眼差しに圧倒され、裏返った声で言い訳を始めた。

「しかし、いくらなんでも健史が赤ちゃんを連れてきたなんて、コウノトリじゃないんですから冷静に考えてみてください、そんなことありえませんよ」

「わかっていますわ、でもあれだけ苦労した本人が言っていることですもの、非常識でも夢のようでも、溺れる者はワラでも掴みたいのよ、ねえ、皆さん」拍手と同調の声がきこえた。

「私は何か特別なことを和尚さんや、健史ちゃんにしてもらいたいんじゃないのよ、もちろんそんなことできないってわかっているわ、でもなんだか不思議な力、いえ、縁ね、不思議な縁のある健史ちゃんに接していたいの、いいでしょう和尚さん」婦人は愛らしく笑った。

一言、一言にうなずきながら聞いていた和尚が言葉を選ぶように話し始めた。

「ごめんなさい、最初、思ってもいない話でしたので、笑ってしまいましたが、真剣なお話しで、でも健史 にそんな不思議な力があるとは思っていません。ただ、ここにいらっしゃる皆様がご存知のとおりの事情で健史を預かってから、今、健史は私のすべてになりつつあります。不 甲斐ない、身寄りもない父親がこの子を思って考えることは、私がしていただいているように皆さんに可愛がっていただくことです。親子共々何のお役にも立てないかもしれません。ただ、私達親子は皆様といしょに皆様の幸せを願います。それがこの子の幸せにつながります。どうぞ、健史をよろしくお願いいたします」和尚は健史を抱え、一緒にお辞儀をするように深々と頭を下げた。全員の大きな拍手が起こった。健史は反応して喜んで一緒に手を叩いた。先ほどの婦人三人組はすばやく立ち上がると「せーの、私達、健史ちゃんファンクラブ」と声を揃えて叫んだ。「じゃあ、わしは応援団だ」ひげの中年男性が間髪を入れずに合いの手を入れると、広間は笑い声でどよめいた。

「奥山さんの旦那さんが応援団長をやるぞ」誰かがまた、口をはさんだ。

和やかな雰囲気の中で、和尚の表情は笑顔に感激の涙が加わっていた。

その素振りをみてもらい泣きする年寄りもいた。

喪主の市松さんがそろそろと立ち上がり前に出てきた。

「健史ちゃんはここにいる皆で応援して行きましょう。和尚さん任せてください。それで、そろそろ爺様の法事、よろしいでしょうか」

市松さんはすまなそうに小声で問いかけた。

「市松さん、すみません。皆さんの温かい応援に感激してしまいました。さあ、お祖父様の法事始めましょう」そういうと右側奥にいた直系親族に一礼して、正面に飾られた遺影に向かった。


自宅の電話で話している和尚

「冴子さんがいろいろおしゃるから、健史がえらいことになりまして、いや、迷惑ということではなくて、びっくりしました。皆さんが健史のことを思ってくださって、涙が出るほどうれしかったです。これも奥山さんご夫婦のおかげです。」

「でも、健史が赤ちゃんを連れてきたなんてありえませんから、そのような事はおっしゃらないでやめてください。えっ、本当のことだ、ばかなことを、お願いしますよ。」

「ところで赤ちゃんのほうは順調ですか、それは良かった。桜木先生に診てもらっているんですね。ええ、また健史と近いうちに寄せさせていただきます。では、失礼いたします。奥山さんによろしくお伝えください」

受話器を置くと まっすぐに窓際の健史のベッドに近づいた。

「健史、冴子さん、まだ、言っていたぞお前が赤ちゃん連れてきたって、何だかな。うん、

良い人たちに囲まれて父ちゃんも健史も幸せだな。父ちゃんもっともっとがんばるぞ」

健史を抱き上げると肩車のようにかぶせ、両手で押さえながら、大股歩きで踏み出し、大きな声で「ガンバレ、ガンバレ」と部屋を回った。

健史も間の手を入れるように大きな喜びの声を出していた。


年も暮れ、健史が和尚のところにきて一年が経とうとしていた。健史の誕生日は和尚と会った一月一日に和尚は決めていた。

「年始は正月と健史の誕生日を初めて祝う、竹田家の最重要日だ」

十二月二十八日竹田家前の原っぱで餅つきが行われていた。

毎年この時期に行われているが、最初は和尚が使わなくなった古い臼をもらい、近所のこどもたちを集め、突き始めた。和尚の人柄と制約のない気易さから、村人が材料や道具を各々持ち寄って加わることで大所帯となり、いつの間にか村の歳末行事となった。そして、今年はこれまで以上に盛大となった。テキヤの屋台も出て

多く村人で賑わっていた。

軽トラックやワゴン車が隣道を埋め尽くし、老若男女が集まり笑顔で言葉を交わしている。

臼を中心に十五ほどのグループができ、もちこまれたテーブルやゴザを拡げ、それぞれが思い思いに餅つきを楽しんでいた。

子供たちがはやしたてる輪の中心に、健史を背負った和尚がいた。大きなかけ声とともに杵を振り下ろす。絶妙な間の手は校長が務めていた。

このグループには近所の子供達が集まり、桜木先生も楽しそうに眺めていた。

この愉快なコンビに小学校の児童たちは大はしゃぎで声援を送っている。

「せいやっ」「ほいな」

「そいやっ」「はいな」

「もいっちょ」「これしょっと」二人の面白いかけ声に子供達の笑い声がかぶる。

「すいません、ちょっと汗を拭かせてください」和尚が手を止める。「待ってました」と校長が溜め息をつく。

脇で観ていた校長夫人の恵美さんがが急いでタオルを二人に渡す。

「ありがとうございます」汗を拭う和尚

恵美さんが近づき声をかける。

「竹田さん、健史ちゃん背負ったままじゃ大変でしょう、しばらく私が抱っこしていましょうか」

「大丈夫です」「健史ちゃんも窮屈そうですよ」背中の健史を見やる。

「そうですか、すみません。お言葉に甘えます」恵美さんが後ろに回り込み健史を外し、抱きかかえる。健史は最初、和尚と離れるのを嫌がったが、恵美さんが抱えたまま上体を起して和尚の姿を見せるようにあやすと喜んで手を打ち始めた。

身軽になった和尚は近くで応援していた低学年の女の子に、

「桃ちゃん、お餅突いてみますか」と優しく聞いた。

急に聞かれた女の子は少し後ずさりをしながら側の校長を見る。

「大丈夫、和尚が一緒に突いてくれますよ」校長は笑って頷いて、女の子に答えた。

和尚は柄の上部と下部を持ち、真ん中を女の子に持たせて、校長に向かって、「お願いします」と声をかける。 校長は「喜んで」と声を返した。

いつのまにか、和尚の後ろに一列に並んだ子供達が全員突き終わる頃には、陽は少し傾いていた。

和尚と校長コンビの臼はあまり多くの餅を突けなかったが、まわりの村人たちからの差し入れ分と合わせて、恵美さんとおかみさん部隊がからみ餅を作ってくれた、大根おろし、あんこ、黄粉等のからみ餅は突き立ての湯気が立ち、子供達に出されると歓喜の声が上がった。親が呼びに来ても戻らず、和尚と校長のまわりで夢中で食べている。

 『急いで食べてのどに詰まらせるなよ』と校長は児童に声をかけながら、自分はぽろぽろと食べこぼしている。側についた夫人がそっとハンカチで拭き取る。

子供達は見ていないようで、しっかり見ている。女の子がその動作を隣の子に真似て「だめね」と大人言葉でつぶやいた。

夫人は下を向いて笑いを堪え、校長は苦笑いをするよりなかった。

 和尚は健史に噛んだ餅を与えていた。健史はおいしそうに食べていた。

 それぞれのグループで突きたての餅を楽しんだ後は、各家庭の正月用の 伸し餅を作り、それぞれ散会となる。

和尚は健史を背負い皆を見送っている。

 「和尚、ありがとう、子供達の相手してもらって、はかがいきました。お餅余分に出来たんで置いていきます」

「すみません。遠慮なくいただきます、どうぞ、良いお年を」

『和尚さんも、健史ちゃんバイバイ」手を振りながら車で去って行く

 和尚と仲の良い人たちが。声をかけ、挨拶と手土産を置いていく。和尚は健史を見せながら、感謝の言葉と年末の挨拶を交わしていた。

 次々に路地の車、自転車がいなくなり、テキヤの屋台がくずされ、軽トラックに積み込まれて出て行く。

 準備から後片付けを担当してくれた校長夫妻とPTA有志のおかみさん隊が帰るころには、積み上げられたごみの山がオレンジ色に染まっていた。

 手土産の荷物を片付ける和尚が独り言のように健史に話かけていた。

「終わったな、ついさっきまですごい人出だったのに、静かになった。さっきの喧騒が夢のようだ。また二人にもどったな。」

「今度の正月は楽しいぞ、お前が来てくれてちょうど一年。去年は父さん一人だったけど、今年は二人で誕生日と元旦が祝える。とても楽しみだ、いい年になる。よし、もうひと頑張り、正月飾りを済ませてしまおう」

いつのまにか、健史は背中で寝息をたてていた。

大晦日の朝も和尚はいつもと同じく、朝の鍛錬と修行をこなし、健史の世話を終えた。普段なら、ここから洗濯、掃除だが、この日はお節の準備が加わり慌ただしく立ち働いていた。

二台のガスコンロにはそれぞれ豆と野菜が煮しめられ、外の物干しにはすでにオムツが季節外れの鯉のぼりのように冬の青空に泳いでいた。

 朝から働きづめて、ようやく、こたつに座れるころには、すでに紅白歌合戦がはじまっていた。まだ、鍋には、また、別の豆が炊かれている。和尚は歌手にあわせて口ずさんでいる。テレビの正面席には、首が据わってきた健史のために、和尚が木工で土台を作り固定させた特製の座椅子が置かれ、健史は真剣に歌を見ていた。

和尚はテレビから目を離し、健史を見つめるといつものように話しかけた。

「健史、もう今年も終わる。すごい一年だった。お前と暮らすことができて、とうさんの人生のなかでも素晴らしい驚きの年だった。来年はもっと頑張るよ、よろしくな」

健史も嬉しそうに話す和尚の顔をじっとみていた。

元旦の朝、朝焼け前の紫煙がひろがるような山道を、白い息を吐きながら、和尚は健史を背負い歩いていた。しばらく歩くと目前には幅一間足らずの滝が三間の高さから飛沫を立てて落ちていた。

 滝に向かって一礼した和尚。「ここはとうちゃんがいつも修行に来る滝だ、去年もちょうど今頃に。おまえがもう少し大きくなったら一緒に打たれに来よう」

 滝脇の中腹に平地の茂みがあり、和尚はそこに手荷物を置き、健史を背中からおろし胸に抱えるように背負い紐を変えた。健史に気を使い、低い姿勢で滝つぼのほとりに立つ。飛沫の少ないところに両手を入れ、軽く洗うと手で水を掬い口を濯ぐ。次に健史の手と口に水をつけて、手ぬぐいで拭き取った。

手拭いを上着にしまい、荷物は置いたままにして、滝の脇にさらに上に延びる小路を這うように歩きだした。

 しばらく行くと一気に視界が開けた平地に着いた。低い山であるが、そこは山頂になる。東方は連なる山脈がパノラマのように見渡せ、西方には日々暮らす村が一望できる。

 「健史、着いたぞお山がいっぱい見えるな」あたりの色はは薄紫から橙に

スイッチで切り替えたように変わっていた。

和尚は山脈を見つめていた。一瞬強くなった光をを感じると空気の色がまた変わった。そして、山々の間から太陽が上がって来た。

「御来光だ」胸の健史をしっかり正面に据えると、二人で大きく二回お辞儀をして、両手を開き二つ拍手を打った。健史も真似て手を打つ。


「どうぞ今年もよろしくお願いいたします」日の出に響くように大きな声で叫ぶと、二人で一礼をした。

山道をゆっくり下り、家の近く来る頃には穏やかな元旦の朝が始まっていた。

 和尚は健史を背負ったまま、家に入ると荷物だけちゃぶ台に置いた。そのまま離れに行き、仏壇前に用意してあった線香箱と花束を桶ごと持って再び外に出た。掃除桶に水を汲み、雑巾を掛けて健史を気にしながら静かに歩き出した

 家の北側には竹薮がある。その小脇の道を入ると、一角に空き地が施されており、そこに小さな墓石が置かれていた。

 竹田家と彫られた墓石に手を合わせると、雑巾で掃除を始めた。小声でささやきながら丁寧に磨く。そして備え付けに花を生け、線香を焚く。

 掃除が終わると、健史を胸に抱き墓前で経を唱え始めた。

「お母さん、あけましておめでとうございます。健史をお預かりして一年が経ちました。こんなに大きくなりました。未熟な父親ですけど一生懸命頑張ります。どうか見守ってやってください。お願いします」合掌する。「健史も南無南無してごらん」健史の手をとって合わせる。健史も何かつぶやいていた。


 ちゃぶ台には和尚が夜なべで準備したおせち料理や煮物そして、御頭付の鯛が並び、また、それらが細かく砕かれた離乳食も用意されていた。

 健史の前にも杯が置かれ、和尚は杯をかざし 『健史、あけましておめでとうございます」と健史の唇に付けると続けて2杯を飲み干した。

「さあ、食べよう。何から食べるかな、よし、まず鯛からだ」ほぐした鯛を小皿に取り、小骨が無いのをが確かめると健史の口に運んだ。大きく口を動かしおいしそうに食べた。

「これは豆、まめに働くように」「よろ昆布だぞ」「勝ち栗で勝ち抜こう」

一つ、一つ説明し、話ながら健史の口に運び、自分も同じものを食べる。

 健史はなんでもよく食べた。そして元気に笑った。その顔を見ていた和尚がふいに目頭に手を覆った。「一年か」目を閉じ鼻をすする。

 杯を一気に空けると「よし、父ちゃんも好きなもの腹いっぱい食べるぞ」再び、お重に手を伸ばした。

「健史、もう少し頑張れ」和尚が手を叩いて応援する中、餅を背負った健史がよちよち這っている。不意に手がすべり、前のめりにつぶれた。

 「あやっ、」和尚はあわてて起こそうとするが、触る間でもなく、健史は自力で顔を上げ、両手をしっかり着くと力強く体を起こした。

 和尚も拳に力が入る。健史は何事も無かったようにまた這い出した。


正月らしい こざっぱりとした服装の和尚と健史が愛用のスクータで畦道を走る。荷台には年賀用に準備した赤飯の折り箱が十個程も積まれている。

「健史、今日は忙がしいぞ、世話になっている方々に年始の挨拶廻りだ。村長、日比野先生、校長、奥山夫妻、梅婆、幸江さん、さん家いつも皆さんによくしてもらっているからな」

スクータは村の一番南に位置する校長の家に向かっていた。和尚は何度も通い慣れた道を走りながら、村の様子を見ていた。元旦の家々は静かで、新年の生活はまだ始まっていないように見えた。

それでも正月を待ちきれない子供たちと、いつもと同じ朝を楽しむお年寄りが外に出ていた。

そして、二人を見つけては、子は恥ずかしそうに、婆ちゃんは満面の笑みで、おめでとうを伝えに寄ってくる。

和尚はその度にスクーターを止め、健史を背中から降ろし、ていねいにあいさつする。

「あけましておめでとうございます」凧を手にした少年が頬を真っ赤にして駆け寄ってきた。

「孝一君、あけましておめでとう」肩をたたいて迎え入れる。

「和尚さん、凧がうまく上がらないんだ」孝一くんは手を強くつかんで訴える。

「そうか、わかった」健史を再びおんぶすると

指に唾をつけ風向きを伺った。

「少し風が弱いかな。よし、孝一君わたしが凧を持っているからこっちから向こうへおもいっきり走るんだ。大丈夫、君は足が速いから。凧を気にしないで真っ直ぐ走るんだ」

孝一君は凧を渡す。和尚は糸の長さ調整して返す。糸巻きを受けとり、拳を握り凧を肩越しに伸ばすと徒競走のスタートで構え静止した。

「位置について、用意、 ドン」和尚の合図で一目散に走り出した。和尚は合わせるように少し前に出て、糸が張り凧が反ると同時に上に押し上げて手を離した。

「まだ、走って。そう、いいよ、こっち向いて、そうだ、引いて、引いて、よし上がった」

凧は上空の風を受けてグングン上がりだした。

「やったあ、ありがとう」「お安い御用で、上ばかり見てないで足元に気をつけるんだよ。じゃあね」和尚は背中の健史の位置を整えると、スクータに股がり走り出した。その後

も道を走る二人に村人から声がかかり、和尚は丁寧に挨拶した。

家を出てからゆうに二時間がまわっていた。

校長の家の門に着くと、夫妻が手をこすりながらかすれた歩き回り、あきらかに待ちくたびれていた。

和尚を確認するや二人は駆け寄り健史を背中から降ろし、夫人が抱きかかえる。

「和尚、どうした、遅いぞ」校長のかすれた声は上ずっていた。

「健史ちゃんも一緒だから心配していたのよ」夫人が健史をあやしながら口添えた。

「すみませんでした、村の会う皆さんに挨拶していたら遅くなってしまいました」頭を下げたままの和尚。

「まあ、いい、とにかく入って、入って」和尚の背中を押すように校長が導いた。

即されて居間に入り、中央のホリコタツに座る。その横にはベビーチェアが用意されているそして、テーブルには金色の盃と豪華な料理が配されていた。

「ああ、待ちくたびれてお腹がペコペコだよ」

「よし、まず乾杯だ。かあさんついでさしあげて和尚と健史ちゃんに」

皆の準備が整うと校長が音頭とった

「あけましておめでとうございます。今年も良い年でありますように、乾杯」

「乾杯」、和尚は健史に用意されたジュースのグラスを夫妻に合わせ、健史に飲ませると、自分のビールグラスをまた、それぞれに合わせ、そして飲み干した。

「電話、もらってからいつまでたっても来ないから心配したよ」校長が話すと夫人が校長をたしなめる。「あなた、しつこいはよ。ちゃんと来てくれたんだからいいのよ。和尚さんだっていろいろあるんだから」

「いや、俺は心配で、」口を尖らせた校長に夫人は一言、「いいの」語気の勢いに校長は一瞬でしゅんとした。

 和尚はすぐに校長にビールを注ぎ足して、話しかけた。

「去年の餅突きは盛り上がりましたね、あんなにたくさんの方が来られるとはおもいませんでした。小学校の子供たちもいつもは近寄れない校長と一緒にいられてとても喜んでいました」

しょんぼりしていた校長の顔に元気が戻った。夫人は笑っている。

「そうかな」一気においしそうにグラスを空け、またビールを和尚に注いだ。

和尚と健史は飲めよ、食べよの歓待を受けた。

グラスも置かれ、箸も止まる頃、校長がしみじみと語りだした。

「一年何て、あっという間だったな和尚、健史ちゃんの父親になるなんて言い出して、去年の今頃は正月どころじゃなかったものな、皆反対した、もちろん、私も」

「はあ」黙ってうなずく。

「でも、今は誰が見ても立派な親子ですわ」夫人が二人を見ながら話す。

「頑張ったな、和尚」

「いえ、これからです」

校長が健史を見つめていった

「正直、その子のことはもちろん心配だったが、そのことより、皆、和尚のことを心配した」

「私なんてなにも、とにかくこの子を守りたかったんです」

「わかっている。君はそういう男だ。だからこそ、皆、心配した。でも、君は抱え込んだ」

「この子には皆さんの助けが必要です。可愛がられて、一緒になって助けあって、生きていけるようになることが大切です。そこまで私が育てます。どうぞ、この子をお願いします」和尚の頭が空のとっくりを倒した。

「わかっているよ、わかっているよ和尚」校長は鼻をすすった。夫人はハンカチで目頭を押さえた。


玄関口で校長夫妻が二人を送り出していた

「すみません、今年はスクーターを預かっておいてください。飲んでしまって健史を背負って運転する訳には行きませんので」

「そうだな、今までみたいには行かないな、私が車で院長のところまで、送っていきたいが」

 「だめよ、あなたも飲んでしまっているでしょう」夫人が間髪を入れずに答えた。

「大丈夫です。歩いて回れますから」和尚は健史を背負って両手には赤飯の折りを持った。


その日、正確には二日の深夜、二人は家にたどり着いた。下戸の奥山さんに軽トラックでスクータごと送り届けてもらった。

 健史を寝かしつけた後、和尚は和机に向かった。引き出しより、封筒と便箋を用意すると、しばらく目を瞑っていた。やがて頷き、微笑が浮かぶ、

そして、ゆっくりと万年筆を進めはじめた。

 健史のお母さんへ

お母さんいつも健史を見守ってくれてありがとうございます。わたしが健史を預かってあっという間の一年が過ぎました。この間、何かの力を感じ、守られ無事にやってこれたような気がいたします。ほんとうに早かったと思います。お母さん、健史の誕生日は一月一日にしました。そして、この誕生日に少し過ぎてしまいましたが、お母さん宛の手紙を書こうと思いました。驚きと感謝の気持ちでこの手紙を書いています。。

まず、お母さまが心配なさるのは健史の体ですよね。大丈夫です。健史は元気に育っています。健康です。体重はもう十二キロもあります。日比野先生も太鼓版です。最近離乳食を取り始めました。好き嫌いもありません。何でも良く食べます。



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強く、やさしい、素直な君へ 矢田箍史 @monokakity

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