ノルウェーの森と街 #5

 地球上で最も最強の生物は何かと問われれば、何が上位に君臨するのだろうか?

 そもそも最強の概念にもよるかもしれない。

 腕力や後合力の強さなら、ゴリラやライオンがランクインするだろう。

 足の速さならチーターかもしれない。泳ぎの速さならイルカだろうか?

 それでも、空を自由に飛べる鳥には敵わないかもしれない。

 それぞれ特性の違いは大きく、何をもって強いというか決めるのは難しそうだ。

 だがあえて、同じ生物同士の戦いで一対一で相対するのなら、勝敗を決するのは相手よりも「よく見えている」方かもしれない。


 通路から突然現れたロイズという男は、戦闘訓練を積んだジャンからすれば、苦戦するような相手には到底思えなかった。身のこなしや歩き方から見て、多少は訓練をしているかもしれないが、明らかに素人にしか思えない。

 P90を向けることもためらったが、今はそんな悠長にしていられる余裕はない。

 男が一歩踏み出したのを見て、ジャンは戦闘不能にしようと、膝に向けて一発発砲した。パンと乾いた音が空間内に響いたが、男は平然とこちらへと歩みを進めてきていた。

 ジャンは続けざまに銃弾を2発3発と撃つが、それらもすべてまるで銃弾が男をすり抜けるように背後へと弾痕を作っていく。

 数発撃ってすぐに、ジャンはp90を撃つのを止めると、ずんずんと歩みを進めるロイズに掴みかかった。

 しかし、その手は空中を掴んでしまう。

 続いて、反対の手で素早く掴もうとする。だが、これもダメ。

 ジャンは素早く手を翻し、今度はクンフーでの攻撃へと移った。

 ロイズは攻撃が当たる前に、かがんでジャンの強烈な突きを避けた。

 突きを繰り出すが避けられる。蹴りを放てばいなされる。

 掴もうとすればはたかれる。脚をかけようとすればかわされる。

 ジャンの流れるような滑らかな攻撃を、ロイズは煙のような身のこなしで全てかわしてしまう。

 そして、時折繰り出されるカウンターの攻撃をジャンは一方的に浴び、一手二手と追い込まれていく。


「ハァ…ハァ…」

 蒸気機関車の吐き出す煙のような大きくて白い吐息の塊が若い青年の口から何度も漏れ出ていた。温度管理が整えられている制御室といえど、せいぜい外よりも風が吹かない程度の温度しかない。頭や背中から流れる汗が、身体を冷やして気持ちが悪い。

 ただし、ところどころに受けた傷や打撲痕はじんじんとした熱を持っている。

「いや、まいったね。こんなにも持ちこたえる相手は初めてだよ」

 対して、ジャンの目の前に立つこの男は、ふぅとひとつため息を吐くだけで息切れもしていない。

「…私もこんなに素早く動ける人は初めてかもしれません」

 ジャンがなおも肩で息をしながら返したのに対し、ロイズは余裕綽々といった様子だった。

「はぁ…私はもともとロサンゼルスの生まれなんだ。ロスは一年を通して暖かくて過ごしやすくてね。寒いところは本当は苦手なんだ」

 ロイズはそう言って、左の二の腕をわざとらしくさすっていた。ぴちょんとどこかで冷たい露の滴が落ちる音がした。

「…私も今は暖かい場所が恋しいですね」

 ジャンはそう言い終わらぬうちに、目にも留まらぬ速さでロイズの足下に一足飛びに肉薄すると、脚の大動脈を狙ってナイフを突き立てた。

「おっと」

 だが、ロイズの方は動じる様子もなく、ジャンの滑り込む低い刺突に合わせて膝頭を突き出した。

「ぐ…っ!」

 硬いもの同士がぶつかる鈍い音と短く苦しげな声が重なり、顔面に強烈な蹴りを食らったジャンは大きく身体をのけぞらせて倒れ伏した。

「ジャンさん…!」

 シルヴィアはそう叫ぶと同時に、愛用のダガーナイフをジャンのそばに投擲した。が、そのナイフは床には刺さらず、むしろまるで水面を走る平たい石のように跳ね返りあらぬ方向へと飛んで行ってしまった。

「‥!?」

 ロイズはこの時初めて狼狽えるような顔を見せた。

 ナイフが床にたたきつけられるその一瞬の瞬きの間に自分が先ほど蹴り上げた青年と同輩のシルヴィアの姿が消え、反対方向の壁にいつの間にかふたりでうずくまっていたのだった。ふたりの背面の壁には、シルヴィアの投擲したナイフが刺さっていた。

「平気ですか。ジャンさん…」

 シルヴィアは新たに手にしたナイフをロイズに向けつつ聞いた。

「だ、大丈夫です…。少しふらふらしますが…」

 青年は揺れる頭を押さえ、焦点を必死に彼女へと合わせた。右目のまわりは赤く腫れており、痛々しく血が流れていた。

「これは驚いた。私の目で追えないなんて、まるで光のようだな。ヴィアレットの使用人たちは魔法を使うなんて聞いていたが、君もウィッチだったなんてね」

 ロイズは再び軽口を聞いたが、ふたりを見るその目は、まるで獲物を狙う鷹のように鋭かった。

「…見た目と違って、よく喋るのね」

 シルヴィアはなおもロイズへと刃を突きつけながら言った。

「ん、そうかね?私はもともとお喋り好きな陽気な男だよ。まぁ、職業柄仰々しく厳めしい見た目にしておかないと。ほら、私の部下は荒くれ者ばかりだからね」

 ロイズはそう答えたあと、ほんの一瞬考え込む仕草を見せ、

「さて、侵入者があっても部下たちは連絡もよこさず、帰ってくる様子もない。これも君の仲間の仕業かね?」

 ふぅとひとつため息を吐くと、懐から銃を一丁取り出し、手慣れた手つきでセーフティーを外した。

「…!」

 パァンという乾いた音が響いた。弾丸はシルヴィアが再び投擲しようとしたナイフを的確に捉え、手元から弾かれてしまう。

「私の仕事の邪魔さえしなければ、無傷で帰ってもらおうと思っていたのだが…ね」

 男の持つ銃はゆっくりとふたりに向けられ、じりじりと狙いが定められていく。


 突如、ロイズは右半身を大きくひねり、スピンターンの要領でぐるりと身体を反転させた。それとほぼ同時に、カシュンという軽い破裂音が鳴り、続いてシルヴィアたちの頭上にカツンと軽くぶつかる金属音が響いた。

「…へぇ、よく避けたじゃねぇか」

 ロイズの身体を向ける方向、自分たちの入ってきた入り口と反対方向のもうひとつの通路を見ると青年がふたり銃を構えて立っていた。

「どうやらぎりぎり間に合ったようだな、アプリオリさん」

 霧島はいつもの飄々とした雰囲気で話しかけた。

「そこまでです。手をあげなさい」

 霧島の右隣ではアプリオリが9mm拳銃のP365を構えていた。

「この銃の弾は非殺傷ですが、当たればただではすみませんよ」

 アプリオリがそう警告すると、霧島は右手をアプリオリを制して続けた。

「止めておこうぜ、アプリオリさん。俺らの目的はこのスリフティの(倹約家の)やっこさんだ。ここの施設を傷つけるのは損だぜ」

 霧島はそう言ってアプリオリを遮った右手をゆっくりと閉じると、ゆっくりと掌を回しながら開いた。

「ここはやっぱりタイマンが一番だろ」

 その手にはいつの間にか掌よりも大きなマチェットナイフがあった。

 それを見て、ロイズは神経質なため息をつき、眉根に指を当てて呟いた。

「…やはり部下に休暇を出すのはやめにしよう」

 霧島はペン回しの要領で指先でナイフを器用に回すと、風のような速さで駆け出した。

「とんだブラック企業だな!」

 霧島はそう叫びながら、ロイズの肩を目がけてナイフを振った。

 ジャンの時と同様、その刃先は男には当たらない。

 二手三手と続いて霧島は流麗な動きで斬りかかった。

 しかし、ロイズはその攻撃もジャンと同様、紙一重でいなしてしまう。

「随分と目が良いようだな。ボクシングでもやってたのか?」

 霧島は攻撃の手を続けながら話しかけた。

「私は生まれつき、動体視力と反射係数が常人よりも高くてね。素人喧嘩なら負け知らずで通してきたよ。それでも、若い頃よりは随分と動けなくなってきたけどね」

 ロイズはそう答えると、背後に大きく下がると同時に片手を懐に入れた。

「もう遊んでいる時間はない。君にも彼女たちにもすぐに退場してもらおう」

 そう言って、左手を勢いよく振った。黒く塗られた刃物が一閃空中を飛来する。

 霧島は身体を反らし、ぎりぎりのところで避けた。その隙をロイズはあっという間に詰めてしまう。霧島の意識が外れた瞬間を狙った、まさに稲妻の閃光のような一撃が首元を狙っていた。

 パァンという乾いた音が空間に響いた。それと同時に激しい金属のぶつかる音が続く。ロイズの手にあったナイフは姿を消し、目には驚きの色が浮かび上がった。

「悪いが、こっちにもいるんだよ。動体視力のすげぇのがな!」

 霧島はそう叫ぶと、素早く体勢を立て直しカウンターに強烈な一発を放った。

 今度はロイズの方から骨同士のぶつかる鈍い音が響いた。

 意識を向けると、霧島の後ろではシルヴィアのそばに寄ったアプリオリが銃を構え、その銃口の先からは細い煙がひとつ立ち上っている。

 ロイズはナイフを飛ばされたことにも驚いたが、もうひとつ気がついた違和感があった。

 いつの間にかジャンの姿がシルヴィアのそばから消えていた。

「先ほどのお返しです」

 ギクッとロイズはその声に自然と身を固くしまった。

 ジャンは強烈なハイキックを放った。登山ブーツの硬い甲の部分が見事にロイズの側頭部を捉え、鞭のような音を立てたあと、男は初めて地面へと倒れ伏した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る