ノルウェーの森と街 #3
4月の昼下がり、セルゲイ・ベルホフはひと月ぶりの街での買い物に年甲斐も無く浮かれた気持ちだった。
「…ったく、ボスもいつまであんな寒いところに籠もるんだか」
セルゲイは久しぶりに流し込むハイネケンに顔を赤くしながら、日頃の鬱憤を晴らすように同僚に話しかけた。
「ボスは金にしか興味が無いのさ。今に始まったことじゃねぇよ」
この愚痴も別段これが初めてではない。ひと月前に街に降りてきたときもこんな会話をしたと思う。
(やれやれ、まぁ仕事は楽っちゃ楽だが、ウォトカすら飲めねぇとはな)
セルゲイは故郷ではギャングの構成員として荒事に従事する毎日を送って育った。
家族とともに先のロシアの紛争を避け、オスロの街に流れたはいいものの、やはり不法移民の自分が仕事にありつけるのはなかなか難しく、結局昔取った杵柄で役立てられるのは暴力やら盗みやらの道しかなく、運良く今のボスのもとで働くこととなった。
(しかし、ボスがインテリだと何やってるか分からねぇから気持ちが悪いぜ)
セルゲイの仕事は荒事ばかりだが、ボスはどうやら仮想通貨とやらを運用するのに、あれだけ大きな水力発電所を必要とするらしい。やはりインテリの考えることは分からない。セルゲイはそんなことを考えながら、再びハイネケンを流し込んだ。
「Bună ziua(こんにちは)」
ふいに見知らぬ少女がルーマニア語で話しかけてきた。
「あぁ?なんだいお嬢ちゃん」
セルゲイは眉をひそませてぶっきらぼうに答えた。
故郷ならそこまで邪険に思うことも無かったかもしれないが、すでに身も心も悪党の道に染まった自分には、子どもの無邪気な挨拶にも余裕を持てなくなっていた。
「まぁ、怖い顔ね」
そのからかうような笑い顔に、酒に酔っていたこともあってセルゲイはつい声を荒げると、少女は向かいの歩道へと走っていった。そこにはアジア人の男がひとり立っていた。
どうやら親子か?ちょうどいい。鬱憤晴らしついでにボコボコにしてやろう。
セルゲイはそう考えながら、そばにいた同僚とともにつかつかと道路へと歩を進めた。
「…これは私の仕事かしらね」
少女はそう言って、地面に触れた。途端、白昼夢を見ているのか。身の丈の倍はあろうかという戦斧が突然現れたのだった。
(なんだありゃ?手品か?)
酒に酔って思考のはっきりしないセルゲイは目の前の光景をぼーっと眺めていた。
「ほう。これは珍しい武器ですね」
ひとり少女と一緒にいる青年だけは冷静な様子でしげしげと斧を眺めていた。
「これはバルディッシュよ。東ヨーロッパで使われた戦斧でね。当時の騎士たちはこれで勇猛に戦ったものよ」
少女はうっとりとした表情で身の丈よりも大きい戦斧を愛おしそうに見つめ、やがて屈伸するように屈んだ。
「こんな風にね」
少女はそう言うと、まるで猫科の猛獣のようなバネで一足飛びに男たちへと斬りかかった。
「うぉ!!」
セルゲイと男たちは間一髪でその斧の攻撃を避けたが、その金属の塊はドゴンッ!という激しい音を立て、店の前に停まっていたバンのボンネットに突き刺さったのだった。
「しっかりと避けてちょうだいね。あなたたちが怪我をしたら、私も罰を与えられてしまうわ」
ぐるりと顔をこちらに向け、少女はニタニタとした笑顔を見せて言った。
「は、はぁ!?…ぐえ!」
少女の言葉に素っ頓狂な声を上げると、セルゲイは突然の衝撃にカエルのような声を出して倒れ伏してしまった。
少女は突き刺さった斧を鉄棒のようにして蹴りを腹に食らわせてきたのだ。痛みはそれ程でもないが、まるでプロレスラーに突き飛ばされたような衝撃に、転々と青年は転げてしまった。
「あぁ、なんて良い顔をするのかしら。素敵よ、素敵ね」
ロザリアは紅潮した顔に妖艶な表情を浮かべながら、ボンネットから引き抜いた巨大な斧を堂々とセルゲイの前で振りかぶった。
突如、ギィンというけたたましい金属音とともに、ロザリアの戦斧に大きな衝撃が加わった。かろうじて武器から手を離さずにすんだが、その勢いのまま男から大きく外れ刃が石畳の歩道へと突き刺さってしまった。
ロザリアは一瞬驚いた顔を見せ、しばらく地面に突き刺さった斧を見つめていたが、すぐに顔をあげキョロキョロとあたりを見渡し始めた。
「はぁ。やってしまいましたわね」
彼女はそう呟くと、とあるビルを見つめていた。
ロザリアの鷹の目のように遙か遠くのものを認識できるようになっている紅い瞳は、自分たちのいる歩道から500mも離れたビルの屋上にきらりと光るスコープの姿を捉えていた。
***
「…はぁ、やれやれ。危なかったね」
ロザリアの見るビルの屋上では、スポッタ-の役目をしているグスタフが息を一つ吐いた。
そばでは露五がキャンプ用の三脚椅子に腰掛けており、彼の構える愛用のライフルであるL96A1の銃口からはノルウェーの冷えた空気に向かって煙を吐いていた。
「7.62mm弾の衝撃なのに斧から手を離さないなんて」
露五は少女のあまりの握力に目を丸くしつつ、L96A1のボルトを引いた。チェンバーからは、空薬莢が勢いよく飛び出し、キィンという小気味よい音とともに地面へと落ちた。
「こちらを見ているね。これで少し頭を冷やしてくれるといいんだが」
グスタフのスポッタ-スコープの先では、その幼い外見に不釣り合いな巨大な斧を手にした少女が可愛らしい仕草で手を振っていた。
「ですが、仲間に銃口を向けるのは気が引けますね…」
露五が少しためらいがちにそう言うのに対し、グスタフは冷静な様子で答えた。
「心配いらないよ。彼女は鉛の弾くらいでは死なないからね。さっきも武器の方に弾を当てなければ、今頃道ばたの彼は真っ二つさ」
ロザリアの斧の犠牲を免れた青年は失神したらしく、道ばたに倒れ伏していた。
「…世界は広いですねぇ」
露五はなおもスコープを覗きつつ、そう呟いた。
***
「さて、確か応援を呼んでもらわないといけないのよね。あなたたち、お友だちをたくさんお呼びなさい」
いつの間にか、少女は同じように倒れ伏して呆然としている同僚の襟を掴み、命令口調でそう告げていた。男たちも見たところ怪我はしていないが、皆突然の出来事に目を白黒している。
「う~ん…どうやら酔っているのね。仕方ないわ」
少女はふぅとため息を吐くと、懐から小さな袋をひとつ取り出した。
「念のため持ってきて正解だったかしら」
そう言うと、少女は袋の中身を周囲にばら撒き始めた。どうやら中身は粉になっているらしく、赤色の粉塵が空中に舞っていた。
途端、周囲で呆然としていた男たちが叫び声をあげて一斉に少女へと殴りかかった。
「おっと」
少女はそれを難なくかわすと、斧を手に再び玄武と呼ぶ青年のもとへと戻った。
「南米に生息するロラホラから抽出した幻覚剤と興奮剤を混ぜたものよ。半日もすれば正気になるわ。それまで楽しみましょう」
そう少女が告げると、男たちは一斉に手にしていた銃火器を取り出し、少女と青年に向かって発砲を始めた。
その動きはまるで訓練された軍人のようにためらいのないものだった。
セルゲイは虚ろな目でその光景を目にし、意識が途切れた。
***
ロザリアと玄武が街での陽動を行っている頃、スカイフォールに赴いた4人はすでに目的地の地下空間へと続く強固な開閉扉へと到着していた。
「よし。ロザリアと玄武は首尾良くいっているようだな」
霧島は寒冷地仕様のスマートウォッチを確認すると、手にしていたサプレッサー付きH&K USPを構え直し、周囲を見渡した。そばでは洞窟の入り口を警護していた男がふたり昏倒させられていた。
「…そうですか」
霧島の背後では、アプリオリがタブレットに有線キーボードを繋いで画面に向き合っていた。タブレットからはさらにもう一本の線が延び、作業員専用の扉の認証鍵へと繋がっていた。
「おいおい。まだむくれてるのか?悪かったって」
霧島は地面に着陸したときから、ずっと不機嫌なアプリオリにこうして話しかけていたが、ほとんど相手にされていなかった。
「いえ、あれも良い経験だったと思います。本当に」
アプリオリはなおも顔をタブレットに向けたまま、むすっとむくれたまま作業を続けていた。どうやら飛び降りる寸前に、不意打ちに気をそらされたことが気に入らなかったらしい。
「やれやれ…」
霧島は苦笑いを浮かべながら、再び時計に目をやった。普段飄々とした態度に振る舞ってきたが、こうした時はさすがに焦ってしまう。
「…解除できました」
しばらくしてピーっという電子音が鳴ると、アプリオリがタブレットから扉へのコードを抜いてそう告げた。
「ごくろうさん。…ジャンさん、こっちは解除できた。そっちはどうだ?」
霧島は耳に付けたスマートスピーカーに話しかけると、すぐに返事が返ってきた。
『こちらも解除できました。侵入を開始します』
霧島たちと別の階層から侵入を試みているジャンとシルヴィアのペアも、滞りなく進んでいるようだった。
「よし、じゃ、俺らも進むかね」
霧島がそう言うやいなや、アプリオリは黙ってドアノブに手をかけ、扉を開けた。
「お、ちょっと待った…」
霧島がそう言うも間に合わず、アプリオリが内開きになっている扉を開けた。扉の向こうにはさらに奥へと続くシャッターの前に手狭な空間があり、そこにはふたりの見張りがタバコを吹かしていた。
「誰だお前ら!」
男たちは手にしていた軽機関銃を素早く構え、引き金に指を掛けようとした。
が、その前に、カシュッ!カシュッ!という2発のくぐもった銃声が響いた。見れば、霧島はアプリオリの肩を抱き寄せると同時に部屋の中に銃を突き出し、素早くふたりへと射撃を行っていた。
「おいおい、ここは敵地だぜ。扉を開けるのには慎重にな」
霧島はアプリオリの肩をぽんとひとつ叩き、男たちの銃を取り上げ、分解していった。
霧島の発射した銃弾は、男たちの着ていた服や防具を避け、的確に首筋に命中していた。丸く小さな血痕が痛々しげに覗いており、通常なら出血多量で死んでいてもおかしくはない位置だった。
だがしばらくすると、男たちが大きなイビキをかき始めたのが聞こえてきた。
命中したのはロザリア謹製の催眠剤を弾頭にした非殺傷弾だった。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
アプリオリはどこか所在なげに礼を述べた。
「こちら側の世界へようこそ」
霧島はニヒルに笑いながら、手を振って答えた。
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