2024

ノルウェーの森と街#1

 4月に入り、身を切るような冷たい冬の空気も春の暖かい太陽によって、まるでふわふわとした羽毛に包まれるような陽気に変わっていた。街を歩けば、まださすがに時折吹く冷たく乾燥した風から身を守るためにコートを羽織っている姿を見かけることはあるが、それでも身を縮こまらせて歩く紳士淑女はいないといってよかった。

 だが、それも国が変われば少し事情が変わり、まだまだ太陽の恩恵が少ない場所もあれば、すでにうだるような暑さに悩まされている人もいる。そして、露五が座るノルウェーのカフェテラスの席は少なくとも前者に位置していた。


「う~ん…もう少し厚着でもよかったかもしれません」

 露五は足下からあがってくるような寒気に、腕をさすりながらそうぼやいていた。

「さすがに春とは言え、まだ4月だからね。カーディガンを着ていても変じゃない季節だよ」

 露五の隣の席ではグスタフが暖かそうなニットのセーターに身を包み、ソルベルグ&ハンセンの高級茶葉に甘い林檎のジャムを入れたロシアンティーを美味しそうに飲んでいた。

「どうも北国への任務は服装に迷います。日本はこの時期暖かいですから」

 露五は神経質そうに手をもむと、自分の分の紅茶のカップへと手を伸ばした。原色のように大味な甘いジャムの香りと、湯の暖かさが冷えた身体へと染み渡るようだった。

 ノルウェーの都市オスロの中心地に構える高級ホテルの二階にあるカフェテラス。

 執事のふたりはいつもの執事服から私服へと着替え、名物の紅茶とケーキを前に、階下に望む道行く人々の姿を眺めながら、仲の良い同僚としてアフタヌーンティーを楽しんでいた。

 足下にはビジネスマンが使うには大きいブリーフケースと、旅行者が使うには小さいボストンバッグがそれぞれ置かれていた。

「霧島さんたちは、もう着いた頃でしょうか」

 露五はふたくち口を付けた紅茶のカップをソーサーに置くと、少し視線をあげて呟いた。目線の先には石造りの美しい街並みとまだ冬の気配の残る青空があった。

「そろそろだと思うよ。彼はなんだかんだ時間には正確だからね」

 そう言ってグスタフは腕時計へと目をやった。時刻は13時を指すところだった。

「お、噂をすればメールが…」

 露五も同じように左手のスマートウォッチへと目をやると、霧島から一件のメールがちょうど届いたところだった。

 文面には『あぁ~、さみぃよ~(;´Д`)』と一言だけ添えられていた。

「着いたかな?」

 グスタフが尋ねると、露五は苦笑いを浮かべ「さみぃよ~だそうです」と答えた。

「それは…寒いだろうねぇ」

 グスタフは愉快げに笑いながら、再び腕時計へと目をやった。

「さて、僕たちも持ち場につこうかね」

「了解です」

 露五はそう言うと足下に置いたボストンバックを手に立った。

「Takk for mat(ごちそうさま)」

 グスタフは店員に少し頭を下げると、ブリーフケースを手に、軽やかな足取りでカフェを後にした。テーブルにはふたりぶんの料金とチップが少し多めに残されていた。


 遡ることふたつき。

 世間はすでに正月の気分から抜けきって普段の生活へと戻っていたが、ヴィアレット家はまた違った忙しさに追われていた。

 2月は春節といい、旧暦上の正月にあたる月でもあった。そのため、中国では何億という人々の大移動が発生し、故郷に帰省をしたり長期の旅行に出かけたりとするのであるが、それに伴い、久々に中国分家が来日することとなり、その歓迎に右へ左へと忙しい日々を送っていたのだった。

 とはいえ、ゆなもゆずるも、中国分家の長女であり従姉妹に当たる妃紗麻キーシャオとの再会を喜び、来日と同時に携えられた多くの珍しい贈り物を楽しんだのだった。

 そんななか、MARCHIAも当然に主人に付き従っていたのだが、ある日の夕食時、彼らは中国分家の滞在する別荘へと秘密に招かれたのだった。

 伝統的な赤色に装飾された豪奢な部屋には、彼らを迎えるひとりの青年と部下たちが控えていた。

「突然のお呼び立てに関わらず、足をお運び下さいまして感謝申し上げます。まずは腰を落ち着けてくださいませ」

 青年はそう言うと左手で右手を包む拱手をし、深々と腰を折った。彼は以前香港での一件で暗躍した中国分家の執事長その人だった。

「改めまして、自己紹介を。ヴィアレット家分家がひとつ、公孫家に仕えます、性はヤン、諱は麗孝リキョウと申します。人は叔弼シュウビと呼びますが、皆さまどうぞお好きにお呼び下さい」

 促されるまま豪華なソファや椅子に腰を収めた面々に、楊という青年は大仰かつ慇懃に挨拶をした。

「楊さん…でいいか?」

「よろしゅうございます。霧島さん」

 青年はそう言って、再び深々と頭を下げた。その顔には先ほどから変わらないニコニコ顔が張り付いている。

「それで要件はなんだね?」

 グスタフが開口一番そう尋ねた。まだ、お茶すら出されてもいない状態だった。

 楊とは初対面ではないとはいえ、香港での一件もあり因縁がある。ヴィアレット家に仕える者同士といえど、おいそれと関係が雪解けするわけではない。霧島を含め、MARCHIAの面々はお互い顔を見やったりと相手の出方を伺っていたが、年長者のグスタフはさすが年の功と言えた。

「おぉ、これはイリインスキー様。お噂はかねがね…」

 楊は再び両手を組むと、最敬礼で答えようとしたが、グスタフは手で制した。

「なに、いちいち最敬礼には及ばない。我々はヴィアレット家に仕える同胞なのだから。対等に話そう。皆も良いね」

 グスタフはそう言って、あたりを見渡した。ジャンや露五は頷いて答えたが、霧島や玄武は目を伏せ無言だった。

「承知いたしました。皆さまもお忙しい身。話は簡潔に致しましょう。それでは、まずはこちらをご覧下さい」

 楊はそう言って懐に手を入れるが、その瞬間部屋の中にピンと張り詰めるように緊張が走った。

「そう警戒なさらないで下さい。私たちはヴィアレットに仕える者。無為な争いは主の顔に泥を塗ることでしょう」

 だが楊は苦笑いを浮かべながらも、手をゆっくりと懐の中から出した。漢服の長い袖から伸びる白い手には写真が二枚あった。

「まずはこちらから」

 楊はまずテーブルに一枚の写真を置いた。そこには少女と女性が並んで写っていた。

「スティング博士!」

 テーブルをのぞき込んだシルヴィアが写真を見るなりそう口に出した。他の面々も同様、その顔には心当たりがあった。彼女はかつてヴィアレット家から機密データを盗み、他の企業に売却をもくろんだのだが、それを間一髪で阻止したのだった。

「以前、皆さまとご関係のあったスティング博士。隣は彼女の娘です」

 楊がそう答えると、シルヴィアは目をとがらせ、「あなた…まさかまたスティング博士に!」と掴みかからんばかりに叫んだ。

「いえ、いえ、いえ。お待ちください。今回は私たちは何も危害を加えようなどとは考えていません。むしろ、私たちは皆さまに有益な情報をお伝えしようとしているのです」

 楊は両手を前に出し、ことさらに大げさな態度で、シルヴィアの剣幕を抑えた。その大仰なそぶりがかえってわざとらしく感じたが、少なくとも敵意がなさそうには思えた。

「有益な情報?」

 シルヴィアの肩を押さえながら、玄武がそう尋ねた。

「はい。北椿様。有益といって差し支えないかと」

 楊は張り付いた笑顔をそう答え、手にしていた二枚目の写真を差し出した。そこには白人の男性がひとり写っていた。髪は短く、アスリートのようにも見えるが、その神経質そうな顔は学者のような知性も感じる。

「彼はREVISOR(会計士)と呼ばれています。スティング博士の娘を誘拐し、彼女にデータを盗むよう指示し、そして私たちが捉えた男たちを束ねる組織の長です」

 楊はまるでアナウンサーのように淀みなく、その写真の男について語り始めた。





公孫 妃紗麻 Vialette(カオスン キーシャオ ヴィアレット)

中国分家である公孫家の長女。

まだ9歳になったばかりだが、すでに次期当主としての自覚をもった誇り高い少女。


楊 麗孝 叔弼(ヤン リキョウ シュウビ)

中国分家の執事長。

1800年代に中国分家が誕生して以来、代々仕える一族の出身。

一見穏やかな青年だが徹底した合理主義者で、「満天星マンティアンシン」という傭兵部隊を率いている。※カスミソウのこと。

明朝時代の漢服を現代風にアレンジしたファッションを好んでおり、いつも羽扇を手にしている。



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